第32話 売り時
大手証券会社の破綻から、一週間。
世界の金融市場は、まだ燃え続けていた。
アメリカ最大級の保険会社が、国に救済された。住宅ローンを扱っていた大きな銀行が、いくつも身売りした。ヨーロッパでも、銀行の取り付け騒ぎが起きた。
ニュースは、毎日のように、新しい悲鳴を伝えていた。
◇
「問題があるわ」
マンハッタンのオフィスで、アリサが言った。
ホワイトボードには、俺たちが保険の契約を結んだ銀行の名前が、七つ並んでいた。
「この契約は、銀行が支払ってくれて初めて、お金になる。でも、その銀行自体が潰れたら?」
アリサは、ホワイトボードの名前の一つに、赤いペンで線を引いた。
「この銀行は、来週あたり危ない。もし潰れたら、ここと結んだ契約は、紙切れになる」
「……二千億の中に、紙切れになるかもしれない分がある、ってことか」
「そう。だから、今のうちに、契約を売るの。まだ体力のある、安全な銀行に」
アリサは、別の銀行の名前を、青いペンで囲んだ。
「この二つは、国の後ろ盾がある。ここに、私たちの契約を買い取ってもらう。少し安くなるけど、確実にお金に変えられる」
スピーカーの向こうで、レイコさんの声がした。
『賛成です。評価額がいくら大きくても、受け取れなければゼロです。数字は、現金になって初めて数字です』
「決まりだな」
俺は、アリサを見た。
「交渉は、任せる」
アリサは、口元に小さな笑みを浮かべた。
「任せて。ウォール街の連中が、今、どれだけ私たちの契約を欲しがってるか、教えてあげる」
◇
それからの二週間、アリサは、ほとんど眠らなかった。
朝の六時にオフィスに来て、夜中の二時まで、電話をかけ続けた。相手は、ウォール街の銀行の担当者たちだ。
二年前、俺が保険の契約を買いに行ったとき、笑いながら契約書を出してきた人たちだった。
「ミスター・サエキ……いえ、ミズ・ヴァンス。御社の契約を、ぜひうちで引き受けさせていただきたい」
スピーカーフォンから聞こえてくる担当者の声は、二年前とはまるで違っていた。笑いもせず、ひどく丁寧で、少しだけ震えていた。
アリサは、パソコンの画面を見ながら、冷静に数字を返した。
「その金額では、お話になりません。他の銀行からは、その一・二倍の提示を受けています」
「……少々、お時間をいただけますか」
「三十分だけ待ちます」
電話を切ると、アリサは俺の方を見て、肩をすくめた。
「本当は、他の銀行からの提示なんてないわよ。まだ」
「……ハッタリか」
「交渉よ。あの人たち、二年前、あなたのことを笑ったんでしょう。少しくらい、汗をかいてもらわないと」
三十分後、銀行から電話がかかってきた。提示額は、一・二倍だった。
◇
交渉が始まって十日目の深夜。
オフィスに戻ると、明かりがついたままだった。アリサが、応接用のソファで、ノートパソコンを抱えたまま眠っていた。
画面には、契約の一覧表が開いたままになっていた。七つの銀行のうち、五つの名前に、緑のチェックがついている。
俺は、パソコンをそっと取り上げて、テーブルに置いた。それから、自分のジャケットをアリサの肩にかけた。
「……ショウゴ?」
アリサが、うっすらと目を開けた。
「起こしたか。悪い」
「ううん。今、何時」
「二時半」
「……あと二つ、残ってるの。明日の朝、一番に電話しないと」
アリサは、起き上がろうとした。俺は、その肩を押さえた。
「今日は、もう寝ろ。朝になったら、俺がコーヒーを淹れる」
「あなた、コーヒー淹れられるの」
「一周……いや、昔、毎日淹れてた。上司の分まで」
アリサは、半分眠ったような顔で、くすりと笑った。
「変な人。社長なのに」
そう言って、アリサはまた目を閉じた。
数分もしないうちに、静かな寝息が聞こえてきた。
窓の外では、眠らない街の明かりが、まだ煌々と光っていた。
◇
十月の半ば。
最後の契約の売却が、終わった。
アリサは、受話器を置いて、椅子の背にもたれた。目の下に、濃いクマができていた。
「……全部、終わったわ」
スピーカーの向こうで、レイコさんが数字を読み上げた。
『契約の売却総額、三千四百億円。保険料として払った金額を差し引いた利益は――』
一呼吸。
『三千三百億円です。総資産は、三千九百億円を超えました』
オフィスに、静寂が落ちた。
それから、アナリストの二人が、立ち上がって拍手をした。
アリサは、椅子に座ったまま、天井を見上げていた。目尻から、一筋だけ涙がこぼれた。
「……私の数字が、正しかった」
アリサは、小さな声で言った。
「誰にも信じてもらえなかった数字が、正しかった」
俺は、アリサの肩に手を置いた。
「最初から、正しかった。俺も、レイコさんも、ずっと分かってた」
アリサは、顔を手で覆って、しばらく動かなかった。
◇
その週の金曜日。
アリサの携帯が鳴った。
画面に表示された名前を見て、アリサの表情が凍りついた。
マクレガー。
アリサは、俺の顔を見た。俺は、黙ってうなずいた。
アリサは、スピーカーフォンに切り替えて、電話に出た。
『アリサ。久しぶりだね』
低く、落ち着いた声だった。でも、その奥に、隠しきれない疲れがにじんでいた。
『君の噂は聞いている。東洋の若造と組んで、ずいぶん稼いだそうじゃないか』
「おかげさまで」
『単刀直入に言おう。戻ってきてくれ』
アリサの眉が、ぴくりと動いた。
『うちのファンドは、今回の件で大きな傷を負った。立て直しには、君の分析力が必要だ。運用部門の責任者として迎えたい。報酬は、以前の二十倍を用意する』
オフィスにいる全員が、息をひそめていた。
『それから……あのときの判断は、私の誤りだった。それは認めよう』
アリサは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「マクレガー。一つだけ、聞いてもいいですか」
『何だね』
「市場は、常に正しいんですよね」
電話の向こうが、静まり返った。
「なら、今回の市場の答えも、正しいんです。あなたは負けて、私は勝った。それが、市場の答えです」
『……アリサ』
「お断りします。私の居場所は、もう決まっていますので」
アリサは、俺の方を見た。
「私の話を、最初に聞いてくれた人のところです」
アリサは、マクレガーの返事を待たずに、通話を切った。
オフィスに、静寂が落ちた。
それから、スピーカーの向こうから、レイコさんの声がした。
『……完璧な回答です、アリサ』
アリサは、携帯を机に置いて、小さく息を吐いた。それから、いたずらっぽく笑った。
「ねえ、ショウゴ。今の、ざまぁみろって日本語で言うのよね。ミサキに教わったの」
「……ミサキ、何を教えてるんだ」
「他にも色々教わったわよ。『一番最初は私』とか」
アリサは、肩をすくめて、窓の外を見た。
ウォール街の方角の高層ビル群に、十月の夕日が赤く反射していた。
現在資産:390,000,000,000円
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