第31話 世界が燃える日
2008年、九月十二日。金曜日。
その日、俺はニューヨークにいた。
アリサのオフィスは、マンハッタンのミッドタウンにある小さなビルの十五階だった。窓からは、ウォール街の方角に、金融街の高層ビルが見える。
オフィスには、アリサと俺と、現地で採用した二人のアナリスト。東京とは、電話回線をつなぎっぱなしにしていた。
『こちら東京、桐谷です。聞こえますか』
スピーカーから、レイコさんの声が聞こえた。東京は、土曜日の早朝だ。
「聞こえる。そっちは」
『全員、オフィスにいます。早瀬さんとカオルさんも、来ています』
「……ミサキとカオルさんも?」
『見届けたいそうです』
スピーカーの向こうで、ミサキの声がかすかに聞こえた。
『ショウゴくん、がんばってー!』
アリサが、小さく笑った。
◇
その週末、ウォール街は、異様な空気に包まれていた。
アメリカの大手証券会社の一社が、経営危機に陥っていた。住宅ローン関連の巨額の損失を抱え、資金繰りがつかなくなっていた。
半年前、別の証券会社が危機に陥ったときは、大手銀行が救済した。今回も、誰かが救済するはずだ。世間は、そう信じていた。
「救済の交渉が、週末に続いてるわ」
アリサが、パソコンの画面を見ながら言った。
「財務省と、中央銀行と、大手銀行のトップが集まってる。今回も、どこかが買い取ると思われてる」
「救済は、されない」
俺は、窓の外を見たまま言った。
アリサが、こちらを振り返った。
「……あなたの勘?」
「ああ」
一周目の俺は、この週末のことを、後からニュースで知った。月曜日の朝、テレビをつけると、アナウンサーが青ざめた顔で原稿を読んでいた。
――アメリカの大手証券会社が、経営破綻。
あの映像を、俺は覚えている。
◇
土曜日の夜。
交渉の行方を待つあいだ、俺はアリサを連れて、ミッドタウンの路地裏の日本料理屋に行った。二年前、カオルさんに教わった店だ。アリサが日本語を習った板前さんの店でもある。
「いらっしゃい。おや、アリサさん。今日は彼氏さんと一緒ですか」
板前さんが、にこにこしながら言った。
「カレシ、ジャナイ……ワケデモ、ナイ」
アリサが、たどたどしい日本語で答えた。板前さんが、声を出して笑った。
焼き魚定食を二つ頼んだ。アリサは、もう箸の使い方も上手になっていた。
「街の空気が、変ですね」
味噌汁を出しながら、板前さんがぽつりと言った。
「この店に来る銀行の人たちが、今週はみんな静かなんです。いつもは、家を何軒買ったとか、ボーナスがいくらだとか、うるさいくらいなのに」
板前さんは、カウンターの奥の小さなテレビを見上げた。週末なのに、金融のニュースばかりが流れていた。
「四十年前の日本と、同じ顔をしてますよ。みんな」
アリサが、箸を止めた。
「……その後、日本は、どうなったんですか」
板前さんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「長かったですよ。元に戻るまで、ずいぶん長かった」
店を出ると、九月の夜風が、少しだけ冷たかった。
日曜日。
救済の交渉は、続いていた。ニュースは、刻一刻と状況を伝えていた。
候補だった銀行の一つが、買収を断念した。
もう一つの候補も、条件が折り合わずに手を引いた。
日曜日の夜。
アリサのパソコンに、速報が流れた。
『大手証券会社、連邦破産法の適用を申請へ』
オフィスが、静まり返った。
アナリストの一人が、声にならない声を上げた。
アリサは、画面を見つめたまま、動かなかった。
スピーカーの向こうで、レイコさんの声がした。
『……佐伯さん』
「ああ」
『本当に、今日だったんですね』
ネクストリームのときと、同じ言葉だった。
◇
月曜日。九月十五日。
世界中の市場が、炎に包まれた。
アジアの市場が開くと同時に、株価が暴落した。ヨーロッパに移ると、さらに下がった。そしてニューヨークの市場が開くと、売りが売りを呼び、悲鳴のような下落が続いた。
住宅ローン証券の値段は、ほとんど値段がつかなくなった。
誰も、それを買おうとしない。安全だと思われていた最高ランクの格付けの商品まで、紙くず同然になった。
そして、俺たちが持っている保険の契約の価値は――。
「……評価額、計算できない」
アナリストの一人が、震える声で言った。
「数字が、毎分変わってます。今、この瞬間で……」
アリサが、アナリストのパソコンを覗き込んだ。
それから、ゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
「ショウゴ」
「ああ」
「二千億円よ」
声が、かすれていた。
「保険の契約だけで、二千億円を超えてる」
◇
二千億。
払った保険料の、何十倍。
一周目の俺の生涯年収の、千倍。
数字を聞いても、すぐには実感がわかなかった。宝くじで一億円が当たった夜のほうが、まだ手のひらに重さを感じた。
スピーカーの向こうから、声が聞こえた。
『――桁、合ってますか。もう一度、計算させてください』
レイコさんの声だった。珍しく、少しだけ上ずっていた。
『……合っています。二千百億円です』
スピーカーの向こうで、誰かが息を呑む音がした。それから、ミサキの声。
『に、にせんおく……?』
『落ち着いて、早瀬さん』
カオルさんの声だった。
『二千億よ。ほら、深呼吸』
『カオルさんも、声震えてますよ』
『……そうね』
スピーカーの向こうで、三人の笑い声が、かすかに聞こえた。
◇
窓の外を見た。
ウォール街の方角の高層ビル群は、いつもと同じように立っていた。でも、その中では、何千人もの人たちが、今まさに、自分の会社がなくなるという知らせを受けているのかもしれなかった。
破綻した証券会社の本社ビルの前には、テレビのカメラが並んでいた。段ボール箱を抱えた社員たちが、次々とビルから出てくる。
ネクストリームのときと、同じ光景だった。でも、規模が違った。
アリサが、窓際に立って、その映像をじっと見ていた。
「……私が正しかった」
アリサは、小さくつぶやいた。
「でも、ちっとも嬉しくない」
俺は、アリサの隣に立った。
「起きたあとに、何かをすることはできる。去年の秋、言っただろ」
アリサは、俺の顔を見上げた。
「覚えてる。何をするの」
「この金で、世界が底を打ったところで、まっとうな会社を買い支える。潰れかけてるけど、本当は価値のある会社を。そうすれば、そこで働いてる人たちは、仕事を失わずに済む」
アリサは、しばらく黙っていた。
「……それ、あなたの勘でも、儲かるの?」
「儲かる。底で買えば、必ず」
アリサは、小さく笑った。泣き笑いのような顔だった。
「あなたって、本当にずるいわね。正しいことと、儲かることを、両方取るんだから」
◇
その夜、マクレガーのファンドが、巨額の損失を出したというニュースが流れた。
住宅ローン証券を「今が買い時だ」と言って買い続けた結果、ファンドの資産の半分以上が吹き飛んだらしい。
ニュースの映像に、一瞬だけ、白髪の男性が映った。記者の質問を振り切って、黒塗りの車に乗り込んでいく。
アリサは、その映像を、表情を変えずに見ていた。
「……市場は、常に正しい」
アリサは、マクレガーの口癖を、静かに繰り返した。
「本当に、そうね」
現在資産:250,000,000,000円
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