第30話 東京の夜
2008年、七月。
アリサが、三か月ぶりに東京に来た。
今回は、仕事だけじゃなかった。
「一度、ちゃんと会わせてほしいの」
先月、電話でアリサが言ったのだ。
「あなたの周りにいる人たちに。レイコだけじゃなくて、全員に」
どこで聞いたのか、アリサはミサキとカオルさんのことを知っていた。たぶん、レイコさんだ。あの二人は、数字の話の合間に、たまに仕事以外の話もしているらしかった。
◇
場所は、カオルさんが選んだ。
銀座の月白。開店前の、客のいない時間。
約束の一時間前に店に着くと、カオルさんはもう着物姿で、カウンターの花を活けていた。
「早いのね」
「落ち着かなくて」
「でしょうね」
カオルさんは、白い桔梗を一輪、花器に挿しながら笑った。
「四人目ですもの。しかも、金髪の美人」
「……知ってたんですか」
「レイコさんから聞いたわ。あの子、数字の話のついでに、そういうことも教えてくれるのよ。きちんと、日付と時刻つきで」
カオルさんは、花ばさみを置いて、カウンターの内側を指さした。
「あなたは今日、そっち側にいなさい。グラスを拭いて、氷を割って、私たちにお酒を出すの」
「俺が、ですか」
「罰よ」
カオルさんは、にっこりと微笑んだ。
「四人もの女に気を揉ませる男には、それくらいがちょうどいいの。それに、カウンターの内側にいれば、余計なことを言わずに済むでしょう」
反論の余地はなかった。
一周目の会社員時代、接待の席で覚えた氷の割り方が、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
カウンターに、四人の女性が並んで座った。
ミサキ。レイコさん。カオルさん。そして、アリサ。
俺は、カウンターの内側で、なぜかカオルさんに頼まれて、グラスを拭いていた。
「はじめまして。アリサ・ヴァンスです」
アリサは、たどたどしい日本語で、深々と頭を下げた。この三か月で、かなり練習したらしい。
カオルさんが、柔らかく微笑んだ。
「はじめまして、白石カオルよ。日本語、お上手ね」
「まだ、ヘタです。でも、寿司の注文は、カンペキです」
「それは大事ね」
カオルさんは、くすくすと笑った。
ミサキが、少し緊張した顔で、アリサを見上げた。
「早瀬ミサキです。……ショウゴくんの、大学の同級生で」
一呼吸おいて、ミサキははっきりと言った。
「一番最初の、彼女です」
アリサは、ミサキの顔をじっと見つめた。それから、英語でゆっくりと言った。レイコさんが、横で通訳した。
「あなたのことは、知ってるわ。ショウゴの携帯の待ち受け画面。いつも、あなたの写真だった」
ミサキの頬が、ぱっと赤くなった。
「えっ……今も?」
「今も。私がニューヨークで隣に座ってるときも、ずっと」
ミサキは、カウンターの内側の俺を、じろりと見た。
俺は、グラスを拭く手を止めずに、視線をそらした。
◇
最初はぎこちなかった会話も、カオルさんが出してくれたシャンパンが一杯、二杯と進むうちに、少しずつほどけていった。
「ショウゴの、どこが好きなの?」
カオルさんが、アリサに聞いた。
アリサは、少し考えてから、英語で答えた。
レイコさんが、通訳しようとして、一瞬言葉に詰まった。
「……訳してください、桐谷さん」
ミサキが、身を乗り出した。
レイコさんは、眼鏡を押し上げて、小さく咳払いをした。
「『誰も私の話を聞いてくれなかったとき、彼だけが聞いてくれた。そして、私と同じものを見ていた。そういう男に、初めて会った』……だそうです」
カウンターに、しんとした空気が流れた。
カオルさんが、静かにうなずいた。
「私も、似たようなことを思ったわ。この人は、何かを知っている男の目をしてるって」
「私は、数字です」
レイコさんが、ぽつりと言った。
「この人の隣で動いている数字が、一番面白いので」
ミサキは、三人の顔を順番に見て、それから、ふっと笑った。
「みんな、ショウゴくんの変なところが好きなんだね」
「変なところ?」
アリサが、首をかしげた。
「うん。二十代なのに、たまにすごくおじさんっぽいところとか。誰も知らないことを、知ってるみたいな顔するところとか」
三人が、同時にうなずいた。
カウンターの内側で、俺はグラスを持ったまま固まっていた。
◇
閉店時間が近づいて、カオルさんが店を開ける準備を始めた。
ミサキとレイコさんは、先にタクシーで帰っていった。
店の外の路地で、アリサが俺を呼び止めた。
「ショウゴ」
七月の夜は、蒸し暑かった。路地の行灯の光が、アリサの金色の髪を照らしていた。
「私、最初は、あなたのこと、ビジネスパートナーだと思ってた。同じ賭けをしてる、変な日本人」
「……知ってる」
「でも、違った」
アリサは、俺の正面に立った。背の高いアリサと、ほとんど目の高さが同じだった。
「今日、あの人たちに会って、分かったの。みんな、あなたに救われてる。ミサキは、ずっと前から、あなたを待ってた。レイコは、つまらない窓口から連れ出してもらった。カオルは、一人で戦うのをやめられた」
アリサは、英語と日本語を混ぜながら、ゆっくりと言った。
「私も、同じ。ウォール街で一人きりで、もう少しで消えるところだった」
アリサの青い目が、まっすぐ俺を見ていた。
「だから、私も、その中に入れて」
――来るもの、拒まず。
俺は、アリサの手を取った。
アリサは、ほっとしたように息を吐いて、それから、子どもみたいに笑った。
「よかった。ミサキに、ちゃんと許可、もらってきたのよ」
「……いつの間に」
「さっき、トイレで。『一番最初は私だからね』って言われたわ。それだけ守れば、いいって」
俺は、思わず吹き出した。
◇
翌朝。
ホテルの窓の外には、夏の青い空が広がっていた。
隣で目を覚ましたアリサが、窓の外を見て言った。
「東京の朝は、静かね。鳥が鳴いてる」
それから、アリサは枕に顔を半分埋めて、小さくつぶやいた。
「九月に、何が起きるの」
俺は、天井を見上げた。
「世界が、燃える」
アリサは、しばらく黙っていた。
「……そう」
それから、俺の腕に額を寄せた。
「なら、燃えたあとのことも、一緒に考えてね。私の父みたいな人たちのこと」
「約束する」
窓の外で、蝉が鳴き始めていた。
◇
その日の昼、四人から、ほとんど同時にメールが届いた。
ミサキからは、『アリサさん、いい人だった! 今度、寿司の注文の仕方、教えてもらう約束した』。
レイコさんからは、『昨夜の会合の議事録を作成しました。必要であれば共有します』。議事録なんて、いつの間に取っていたんだろう。
カオルさんからは、『グラスの拭き方、合格よ。また手伝いにいらっしゃい』。
そしてアリサからは、日本語で一行だけ。
『イチバンサイショハ、ミサキ。ワタシハ、ヨンバンメ。デモ、イチバンタカイ』
背の話か、と気づいて、俺は一人で笑った。
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