第29話 ひび割れ
2007年の秋から、2008年の春にかけて。
世界の金融市場に、少しずつひびが入っていった。
アメリカの大手銀行が、住宅ローン関連の損失を発表した。数千億円規模の損失だった。銀行のトップが、次々と辞任した。
それでも、テレビの経済番組に出てくる専門家たちは、口をそろえて言った。
「一時的な調整です。住宅市場は、来年には回復します」
「アメリカの金融システムは、世界で最も強固です」
俺は、その番組を、オフィスのテレビでぼんやりと眺めていた。
一周目の俺も、たしか同じような番組を見ていた。そのときは、専門家の言うことを、何の疑いもなく信じていた。
◇
保険の契約の評価額は、少しずつ、確実に上がっていった。
「今月末の評価額、三十億円の上昇です」
レイコさんが、月次の報告書を読み上げた。
「去年払った保険料の合計を、すでに上回りました。損益は、プラスに転じています」
オフィスの空気が、少しだけ軽くなった。
半年前、毎朝青い顔をしていたアナリストの二人は、今では毎朝、アメリカの市場の動きを食い入るように見ていた。
「代表、すごいですね。本当に、崩れ始めた」
アナリストの一人が、興奮した声で言った。
「まだ、始まったばかりだ」
俺は、窓の外を見ながら答えた。
「本番は、来年の秋だ」
アナリストは、きょとんとした顔をした。
レイコさんは、何も言わずに、手帳に何かを書き込んだ。
◇
アリサは、月に一度、東京に来るようになった。
ニューヨークで集めた情報を持ってきて、レイコさんと丸一日かけて分析する。夜は、俺と三人で食事をする。
ある夜。
銀座の寿司屋のカウンターで、アリサは初めて、生のウニを口にした。
「……何これ」
アリサは、目を丸くして固まった。
「まずかった?」
「逆よ。何これ、信じられない。海の味がする」
アリサは、大将に向かって、たどたどしい日本語で言った。
「オカワリ、クダサイ」
大将が、にっこり笑ってウニを握った。
隣で、レイコさんが小さく吹き出した。
「アリサ、日本語、どこで覚えたんですか」
「ニューヨークの、日本料理屋。板前さんに教わったの。ショウゴが教えてくれた店」
アリサは、二貫目のウニを口に入れて、幸せそうに目を閉じた。
ウォール街で、誰にも話を聞いてもらえなかった女性。その人が、今、銀座の寿司屋で、子どものように笑っている。
その顔を見ているだけで、悪くない気分だった。
◇
2008年、三月。
アメリカの大手証券会社の一社が、経営危機に陥った。
住宅ローン関連の損失が膨らみ、資金繰りがつかなくなったのだ。週末のうちに、別の大手銀行による救済合併が決まった。株主の取り分は、ほとんど紙くず同然だった。
その月曜日、世界中の株価が、また大きく下がった。
保険の契約の評価額は、一気に倍になった。
「総資産、四百億円を超えました」
レイコさんが、静かに報告した。
アナリストたちが、小さく歓声を上げた。
でも、俺は喜べなかった。
テレビの画面には、救済された証券会社の社員たちが、段ボール箱を抱えてビルから出てくる映像が流れていた。ネクストリームの強制捜査のときと、よく似た映像だった。
段ボール箱を抱えた社員の中に、若い女性がいた。不安そうな顔で、カメラから目をそらしていた。
――アリサも、あと少しで、ああなっていたのかもしれない。
◇
その週末、ミサキがマンションに来た。
玄関に入るなり、ミサキは経済誌を一冊、俺の目の前に突き出した。
一年前、「天才の神通力も、ここまでか」と書いたのと、同じ雑誌だった。
『佐伯キャピタル、米金融危機を的中――若き投資家の「逆張り」が実を結ぶ』
「手のひら、返したね」
ミサキは、腰に手を当てて、得意そうに言った。
「だから言ったでしょ。私の勘、また当たるって」
「当たったな」
「編集部でね、みんなに自慢しちゃった。この人、私の彼氏ですって」
「……それ、大丈夫なのか」
「大丈夫。誰も信じてくれなかったから」
ミサキは、声を出して笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「私ね、来月から副編集長になるの」
「本当か!」
「うん。編集長が、早瀬は数字を見る目があるって。担当した本の重版、去年だけで五冊あったから」
ミサキは、照れくさそうに鞄から小さな箱を取り出した。
「これ、ショウゴくんにもらった万年筆。今も、毎日使ってるよ。作家さんへのお手紙は、全部これで書いてる」
深い青色の万年筆は、少しだけ塗装がすり減っていた。
「……そろそろ、新しいのを買おうか」
「だめ。これがいいの。一番最初にもらった、配当だから」
ミサキは、万年筆を大事そうに箱にしまった。
◇
その夜、アリサから電話がかかってきた。
『マクレガーのファンドの知り合いから聞いたわ。今回の件で、ファンドは大きな損失を出した。でも、マクレガーは、まだ住宅ローン証券を買い続けてるらしい』
「……まだ買ってるのか」
『安くなったから、今が買い時だって。市場は常に正しいって、まだ言ってるんだって』
アリサの声には、怒りとも呆れともつかない響きがあった。
『ねえ、ショウゴ。あなた、本番は今年の秋だって言ってたわよね』
「ああ」
『今年の秋に、何が起きるの』
俺は、少し迷った。
全部を話すことはできない。でも、アリサには、少しだけ話してもいいと思った。
「大手の証券会社が、もう一つ潰れる。今度は、救済されない」
電話の向こうで、アリサが息を呑んだ。
『……それも、勘?』
「勘だ。でも、たぶん当たる」
長い沈黙があった。
『あなたの勘、一度でいいから、外れてほしいわ』
アリサは、小さな声で言った。
『それが当たったら、私の父みたいな人たちが、もっとたくさん家を失う』
「……分かってる」
『でも、あなたの勘は、外れないのよね』
アリサは、それ以上は何も言わなかった。
電話を切ったあと、俺はしばらく、窓の外の夜景を見ていた。
――起きたあとに、何かをすることはできる。
去年の秋、マンハッタンの夜道で、アリサにそう言った。
その言葉の意味を、そろそろ本気で考えなければならなかった。
◇
四月。
俺は、レイコさんに一つの指示を出した。
「秋に向けて、現金を用意しておいてくれ。できるだけ多く」
「保険の契約を増やすためですか」
「違う」
俺は、窓の外の、満開を過ぎた桜並木を見た。
「全部が崩れたあと、底で買うためだ」
レイコさんは、眼鏡の奥で目を細めた。
「……全員が絶望したときが、買い場。佐伯さんが前に言っていた言葉ですね」
「覚えてたのか」
「全部、記録してありますから」
レイコさんは、手帳を閉じて、窓の外の桜並木に目をやった。
「秋が来るまでに、現金の準備をしておきます。それと、底で買う会社の候補も。佐伯さんの『勘』だけに頼らないように、数字で選んだリストを作っておきます」
「頼む」
現在資産:42,000,000,000円
お読みいただき、ありがとうございます!
毎日22時に更新しています!
続きが気になると思っていただけたら、
ブックマークや、下の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、
とても励みになります。
感想も、一言から大歓迎です。
よろしくお願いします!




