第28話 追放
アリサからの次の電話は、三日後の深夜だった。
東京は、午前二時。ニューヨークは、昼の一時。
『……クビになったわ』
アリサの声は、驚くほど平坦だった。
『正確には、自分から辞めたことにしてもらった。そのほうが、次の仕事を探しやすいからって。マクレガーの、せめてもの温情らしいわ』
「保険の契約は」
『会社が全部解約した。私が勝手に結んだ契約だから、損失を確定させるって。払った保険料は、全部パー』
電話の向こうで、車のクラクションが聞こえた。アリサは、外を歩いているらしかった。
『マクレガーに、言われたの。アリサ、君は優秀だが、市場に逆らう人間はこの世界では生き残れない。市場は常に正しいんだ、って』
アリサは、乾いた声で笑った。
『もうすぐ市場が崩れるっていうのにね。最高のタイミングで、私は降ろされた』
◇
俺は、ベッドから起き上がって、窓の外を見た。
東京の夜景が、静かに光っていた。
一周目のアリサ・ヴァンスは、たぶんここで消えたのだ。正しいことを言いながら、誰にも信じてもらえず、崩壊の直前に職を失って、そのまま業界から名前が消えた。だから、一周目の俺は、彼女の名前を一度も聞かなかった。
――二周目では、そうはさせない。
「アリサ」
『なに』
「うちに来ないか」
電話の向こうが、静かになった。
「佐伯キャピタルのニューヨーク拠点を作る。そこの責任者として、来てほしい」
『……本気?』
「本気だ。保険の契約を、もっと増やしたい。でも、俺の英語じゃ、ウォール街の銀行と細かい交渉はできない。アリサが必要だ」
『あなたの会社、経済誌で叩かれてたわよ。大損してるって』
「知ってる。でも、あと一年もしないうちに、全部ひっくり返る。アリサも、そう思ってるだろ」
長い沈黙があった。
『……条件があるわ』
「何でも」
『私の判断で、契約の金額を決めさせて。上限は、あなたの会社のルールに従う。でも、どの銀行と、いつ、どれだけ契約するかは、私が決める』
「それは、うちの最高執行責任者と相談してくれ。たぶん、気が合うと思う」
『最高執行責任者?』
「数字に厳しい人だ。俺の勘を、毎日数字で詰めてくる」
電話の向こうで、アリサが小さく笑った。
『……面白そうね。行くわ』
◇
翌週。
アリサが、東京に来た。
成田空港の到着ロビーに、俺は一人で迎えに行った。
ゲートから出てきたアリサは、大きなスーツケースを一つと、肩にノートパソコンの鞄を提げていた。紺のパンツスーツに、サングラス。周りの日本人の中で、頭一つ飛び抜けて目立っていた。
「ようこそ、東京へ」
「……本当に来ちゃった」
アリサは、サングラスを外して、到着ロビーを見回した。
「初めてなのよ、日本。というか、アメリカの外に出るの自体、仕事以外では初めて」
車で都心に向かう途中、アリサはずっと窓の外を見ていた。田園風景が、少しずつビルの風景に変わっていく。
「静かね」
「静か?」
「車のクラクションが、全然鳴らない。ニューヨークなら、十秒に一回は鳴ってる」
アリサは、窓に額を近づけた。
「父に、電話したの。会社を辞めたって」
「お父さんは、何て」
「お前が正しいと思うなら、それでいいって。工場で三十年働いてきた人だから、会社に裏切られるのには慣れてるのよ」
アリサは、窓の外を見たまま、小さく笑った。
「それから、言われたわ。日本人の若い社長に拾われたなら、そいつにちゃんと礼を言えって」
「……言ってもらったよ。メールで」
「あれは、半分よ」
アリサは、ようやくこちらを向いた。
「残りの半分は、結果で返す。あなたの会社を、ウォール街の誰もが知ってる名前にしてみせる」
その目は、去年の夏、会議の壇上に立っていたときと同じ目だった。
◇
丸の内のオフィスで、アリサはレイコさんと初めて顔を合わせた。
「桐谷レイコです。佐伯キャピタルの、最高執行責任者です」
「アリサ・ヴァンス。よろしく」
二人は、握手をした。
それから、互いの目をじっと見た。
数秒間の沈黙。
俺は、なぜか背中に汗をかいていた。
先に口を開いたのは、レイコさんだった。英語だった。銀行時代に海外の取引も担当していたらしく、俺よりずっと流暢だった。
「あなたの去年の講演資料、全部読みました。延滞率の推計、地域別の分析、とても正確でした」
アリサの眉が、少しだけ上がった。
「……読んでくれたの」
「はい。ただ、三ページ目の、所得別の延滞率の推計。あの前提条件は、少し楽観的すぎると思います」
アリサの目が、きらりと光った。
「どこが?」
「低所得層の、変動金利のローンの比率です。最新の統計では、あなたの前提より一割ほど高くなっています」
アリサは、鞄からノートパソコンを取り出して、その場で開いた。
「見せて」
二人は、丸テーブルにパソコンを並べ、数字の議論を始めた。
英語と日本語と数字が入り混じった会話が、二時間続いた。
俺は、途中から完全に置いていかれて、窓の外の皇居の緑を眺めていた。
◇
議論が終わったのは、夕方だった。
アリサは、パソコンを閉じて、俺のほうを見た。
「あなたの言ったとおりね。気が合う」
「でしょう」
「この人、怖いわ。数字の穴を、一つも見逃さない」
レイコさんは、眼鏡を押し上げて、小さく言った。
「お互い様です」
二人の間に、不思議な空気が流れていた。ミサキとレイコさんが初めて会ったときと、どこか似ていた。
警戒と、敬意と、それから、少しだけの連帯感。
◇
七月。
アリサは、ニューヨークに戻り、佐伯キャピタルのニューヨーク拠点を立ち上げた。マンハッタンの小さなオフィス。社員は、アリサを含めて三人。
八月の初め。
ヨーロッパの大きな銀行が、傘下のファンドの解約を突然停止した。アメリカの住宅ローン証券の値段が、正しく計算できなくなったという理由だった。
ニュースは、世界中を駆け巡った。
株価が、世界中で急落した。
そして、住宅ローン証券の値段が、初めて、目に見えて下がり始めた。
俺たちが持っている保険の契約の評価額が、一晩で跳ね上がった。
『始まったわ』
アリサから、短いメールが届いた。
『マクレガーのファンド、今日だけで大きな損失を出したらしい。業界中の噂になってる』
続けて、もう一通。
『ねえ、ショウゴ。私を拾ってくれて、ありがとう』
俺は、そのメールを、しばらく見つめていた。
窓の外では、夏の夕立が、丸の内のビル群を白く煙らせていた。
隣の席で、レイコさんが同じメールの写しを読んでいた。アリサは、報告のメールをいつも二人に同時に送ってくる。
「……拾った、ではなく、選んだ、だと思いますが」
レイコさんが、画面を見たまま言った。
「アリサにも、そう返しておいてくれ」
「はい。数字で証明してから、返します」
現在資産:33,500,000,000円
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