第27話 出血
2007年、二月。
年が明けても、アメリカの住宅市場は崩れなかった。
いや、正確には、崩れ始めていた。家の値段の上昇は止まり、一部の地域では下がり始めていた。住宅ローンの延滞率も、少しずつ上がっていた。
でも、金融市場は、それを無視していた。
住宅ローン証券の値段は、ほとんど下がらない。格付けも、最高ランクのまま。ウォール街の銀行は、相変わらず新しい商品を作っては、世界中に売りさばいていた。
そして、俺たちの保険料は、毎月確実に出ていった。
◇
「今月の保険料の支払い、完了しました」
レイコさんが、月次の報告書を丸テーブルに置いた。
「去年の六月から今月までで、保険料の合計は三十億円を超えました。一方、契約の評価額は、ほとんど変わっていません」
「……三十億か」
「はい。ネクストリームで稼いだ利益の、五分の一が消えた計算です」
レイコさんは、淡々と数字を読み上げた。でも、ページをめくる指先が、いつもより少しだけ強張っていた。
「社内からも、不安の声が出ています。新しく入ったアナリストの二人は、毎朝アメリカの市場を見るたびに、顔色が悪くなっています」
「レイコさんは」
「私ですか」
レイコさんは、少しだけ考えてから答えた。
「怖いです。毎月、保険料の振込みの承認ボタンを押すたびに、指が止まります」
「……それでも押してくれてるんだな」
「佐伯さんが、一度も外していないので」
レイコさんは、報告書を閉じた。
「ネクストリームの封筒は、まだ私の引き出しの奥にあります。あれを見るたびに、もう少しだけ待とうと思えるんです」
◇
三月。
ある経済誌に、記事が載った。
『ネクストリームを当てた天才投資家、米国で大損か――佐伯キャピタル、謎の巨額損失』
記事は、どこから聞きつけたのか、俺たちが保険料を払い続けていることを、かなり正確に書いていた。
――アメリカの住宅市場の崩壊に賭けているらしい。だが、住宅市場は依然として堅調。この賭けは、ただの若気の至りではないか。
記事の最後は、こう締めくくられていた。
――天才の神通力も、ここまでか。
「……書いたの、沢口さんじゃないですね」
レイコさんが、記事の署名を見て言った。
「沢口さんなら、もっと粘着質に書きます」
「褒めてるのか、それ」
「事実です」
記事が出た翌週、何人かの取引先から、契約の見直しを求める電話がかかってきた。佐伯キャピタルに資金を預けている投資家の一人が、資金を引き上げたいと言ってきた。
社内も、揺れていた。
記事が出た翌日、アナリストの一人が、俺の机の前に立った。去年の面接で、ボールペンを落とさなかった男性のほうだ。
「代表。正直に言います。僕は、怖いです」
男性は、手に持った辞表を握りしめていた。
「毎月、何億円も消えていくのを見ていると、自分が間違った船に乗っている気がしてくるんです。家族もいるので」
「分かった」
俺は、辞表を受け取った。
「無理に残らなくていい。今までありがとう。退職金は、規定より多めに出す」
男性は、驚いたように顔を上げた。
「……引き止めないんですか」
「怖いと思いながら働いてもらうのは、お互いに不幸だ。それに、あなたの判断は間違ってない。普通は、そう考える」
男性は、しばらく黙っていた。それから、深く頭を下げて、オフィスを出ていった。
もう一人の、元銀行員の女性アナリストは、残った。
「私は、最後まで見届けたいです。みんなが右を向いているときに左を向いた会社が、どうなるのか」
「ありがとう」
「お礼は、結果が出てからにしてください。……って、桐谷さんなら言いますよね」
女性アナリストは、少しだけ笑った。
取引先の投資家についても、同じ判断をした。
「引き上げは、認める」
俺は、レイコさんに言った。
「怖い人は、怖いうちに降りたほうがいい。無理に引き止めて、最後に恨まれるほうがよっぽど困る」
「去る者は追わず、ですか」
「そういうこと」
レイコさんは、小さくうなずいて、手続きを始めた。
◇
その週末。
ミサキが、マンションに遊びに来た。
手には、例の経済誌を持っていた。
「これ、編集部で回ってきたの。ショウゴくんのこと、書いてあるって」
「……読んだのか」
「読んだよ。ひどい書き方だね」
ミサキは、雑誌をテーブルの上に放り投げた。
「天才の神通力も、ここまでか、だって。ショウゴくん、神通力なんて使ってないのにね」
「まあ、外から見たら、そう見えるんだろうな」
ミサキは、ソファの俺の隣に座った。
「ねえ、ショウゴくん。この記事に書いてあること、本当? 大損してるって」
「半分本当。毎月、保険料を払ってるから、お金は出ていってる」
「それ、いつまで続くの」
「たぶん、あと一年ちょっと」
ミサキは、しばらく黙っていた。
それから、俺の手を取って、自分の両手で包んだ。
「前に株で負けてたとき、私、鍋を作りに来たでしょ。あのとき、ショウゴくんは結局勝ったよね」
「ああ」
「だから、今度も大丈夫。私の勘、また当たるから」
ミサキは、そう言って笑った。
雑誌の記事より、その一言のほうが、ずっと重かった。
◇
四月の終わり。
カオルさんから、小料理屋に呼ばれた。
「この前、店にアメリカの大使館の人が来たのよ」
燗酒の猪口を傾けながら、カオルさんは言った。
「その人がね、酔っぱらって、愚痴をこぼしてたの。本国の住宅ローンの会社が、何社か潰れかけてるって。新聞には小さくしか載ってないけど、内部ではかなり慌ててるらしいわ」
「……潰れかけてる」
「ええ。収入の少ない人向けにお金を貸してた会社。名前は、聞きそびれたけど」
カオルさんは、俺の顔を見た。
「あなたが賭けてるのは、それでしょう」
「よく分かりますね」
「銀座の女は、男の顔色で相場を読むの。経済誌に叩かれてるのに、あなた、ちっとも落ち込んでないもの」
カオルさんは、猪口を置いて、少しだけ身を乗り出した。
「いいわ。アメリカの噂、これからもっと集めてあげる。大使館の人、あと二人くらい、うちの常連にしておくから」
「……カオルさん、それ、どうやって」
「企業秘密よ」
カオルさんは、着物の袖で口元を隠して笑った。
◇
その夜、ニューヨークのアリサから電話がかかってきた。
『住宅ローンの会社が、また一つ潰れたわ』
アリサの声は、硬かった。
『ニュースでは小さな扱いだけど、これは始まりよ。延滞率が、先月から急に上がり始めてる』
「こっちも、似た話を聞いた」
『どこから?』
「銀座のクラブ」
電話の向こうで、アリサが一瞬黙った。
『……あなた、本当に変な情報網を持ってるのね』
「褒め言葉として受け取っておく」
アリサは、少しだけ笑った。それから、声を落とした。
『でも、私の方は、ちょっとまずいことになってる。マクレガーが、私の保険の契約に気づいたの』
受話器を握る手に、力が入った。
『明日、呼び出されてる。たぶん、ろくな話じゃないわ』
現在資産:27,000,000,000円
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