第26話 同じ賭け
十月。
二度目のニューヨーク出張は、一度目より少しだけ寒かった。
今回の目的は、契約の追加だった。夏に結んだ保険の契約に加えて、新しい銀行と、さらにいくつかの契約を結ぶ。レイコさんが決めた「年に資産の一割」という上限の、ぎりぎりまで。
出張の三日目。
ホテルのロビーで、俺は見覚えのある金色の髪を見つけた。
アリサ・ヴァンスだった。
ロビーのソファに座り、ノートパソコンに向かって何かを打ち込んでいる。眉間に、深いしわが寄っていた。
声をかけるべきか、少し迷った。夏の会議のことを思い出す。東洋の素人に、何が分かるの。
それでも、俺は近づいた。
「ミス・ヴァンス」
アリサが、顔を上げた。
一瞬、誰だか分からないという顔をした。それから、思い出したように、目を細めた。
「……ああ。あの会議の、日本人」
「佐伯です。また会いましたね」
「偶然ね」
アリサは、そっけなく言って、パソコンの画面に視線を戻した。
画面には、表計算ソフトが開かれていた。並んでいる数字に、見覚えがあった。
住宅ローン証券の銘柄コード。そして、その横に並ぶ、保険契約の金額。
俺が、夏に結んだ契約と、同じ種類のものだった。
◇
「それ、保険の契約ですよね」
アリサの指が、止まった。
「……なんで分かるの」
「俺も、同じものを持ってるので」
アリサは、ゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
俺は鞄から、契約書の控えを一枚取り出して、アリサに見せた。銀行の名前。銘柄。金額。契約日。
アリサは、それを手に取って、じっと読んだ。
読み進めるうちに、表情が少しずつ変わっていった。
「……この契約、いつ結んだの」
「六月。あの会議の、少し前です」
「私が講演する前に?」
「ええ」
アリサは、契約書と俺の顔を、何度も見比べた。
「この金額……あなた個人で?」
「会社です。俺の会社」
アリサは、しばらく黙っていた。
それから、ノートパソコンを閉じて、立ち上がった。
「……一杯、付き合いなさい」
◇
ホテルの最上階のバー。
窓の外には、夜のマンハッタンが光の海のように広がっていた。
アリサはウイスキーを、俺はビールを頼んだ。
「私、子どもの頃から数字が好きだったの」
アリサは、グラスの氷を見つめながら話し始めた。
「中西部の小さな町の出身。父は工場で働いてて、母はスーパーのレジ係。家は、三十年ローンで買った小さな家。私が大学に行けたのは、奨学金のおかげ」
「ウォール街に入ったのは」
「数字で、世界を見たかったから。でもね、入ってみて分かった。ここの人たちは、数字なんて見てないの。見てるのは、来月のボーナスだけ」
アリサは、ウイスキーを一口飲んだ。
「去年の秋、私は住宅ローンのデータを調べてて、気づいた。審査がめちゃくちゃなの。収入を確かめずに貸してる。仕事のない人にも貸してる。こんなの、いつか必ず破綻する」
「上司には」
「言ったわ。何度も」
アリサは、自嘲するように笑った。
「上司は、マクレガーっていう人。うちのファンドの創業者で、業界の伝説みたいな人。私の話を聞いて、彼は言ったの。『アリサ、市場は常に正しい。君が間違っているんだ』って」
「それで」
「私は、自分の担当の資金で、少しだけ保険を買った。上司には内緒で。それが、今のこれ」
アリサは、閉じたノートパソコンを指で叩いた。
「でも、少しだけ。私の権限で動かせるのは、ほんの少し。あなたの契約の、十分の一もない」
◇
アリサは、グラスを置いて、俺の顔をまっすぐ見た。
「あなた、なんで分かったの」
「何がですか」
「住宅が崩れること。私は一年かけて、データを全部調べて、やっと確信した。あなたは、どうやって」
俺は、少し考えてから、答えた。
「データを見ました。それと……少しだけ、勘です」
アリサは、眉をひそめた。
「勘?」
「勘。でも、ただの勘じゃない。俺の会社には、勘を数字で詰めてくる人がいるんです。その人が納得するまで、俺は説明させられる」
アリサは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、初めて、声を出して笑った。
「あなた、面白いわね」
「よく言われます」
「夏の会議で、東洋の素人って言ったこと、撤回するわ」
アリサは、グラスを持ち上げた。
「同じ賭けをしてる人間に、初めて会った」
「俺もです」
グラスが、小さく音を立てた。
◇
その夜、アリサと二人で、マンハッタンの通りを歩いた。
十月の夜風は冷たかった。アリサは、トレンチコートの襟を立てて、通りの両側に並ぶ建物を見上げていた。
「この通りのマンション、全部、去年より二割も値段が上がってるの」
「知ってます」
「みんな、来年はもっと上がると思ってる。銀行も、買う人も、売る人も」
アリサは、立ち止まった。
「私、怖いのよ。自分が正しいことが」
「……どうして」
「私が正しかったら、この通りのマンションを買った人たちは、みんな家を失う。私の父みたいな人たちが」
アリサの声が、少しだけ震えていた。
「正しいことを言っても、誰も聞いてくれない。聞いてくれないまま、それが起きる。そのとき、私は何のためにここにいたんだろうって」
俺は、何も言えなかった。
一周目の俺は、リーマン・ショックをテレビのニュースで見ただけだった。家を失ったアメリカの人たちの映像を、遠い国の出来事として眺めていただけだった。
「アリサさん」
「アリサでいいわ」
「……アリサ。俺も、全部を止めることはできない。でも、起きたあとに、何かをすることはできると思う」
アリサは、俺の顔を見上げた。
街灯の光が、金色の髪を照らしていた。
「あなた、やっぱり変な人ね。二十八歳の口の利き方じゃない」
「それも、よく言われます」
アリサは、また少しだけ笑った。
ホテルの前で別れるとき、アリサは名刺の裏に、個人の電話番号を書いて渡してくれた。
「何か分かったら、教えて。私も、教える」
「約束します」
アリサは、振り返らずにホテルのロビーへ消えていった。
◇
翌朝。東京は夜の十時ごろだった。
ホテルの部屋から、レイコさんに電話をかけた。
「同じ賭けをしてる人に会った。アメリカのファンドのトレーダーで、アリサ・ヴァンスっていう」
『夏の会議の講演者ですね。資料は、私も読みました』
「もう読んでたのか」
『佐伯さんが成田で渡してくれましたから。帰りの電車で、全部読みました』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『あの人の分析は、正確です。私が調べた数字と、ほとんど一致しています。違うところも、私より細かく調べてあります』
「レイコさんが、そこまで言うのは珍しいな」
『事実ですから』
レイコさんは、少しだけ間を置いた。
『その方、上司に反対されているんですよね』
「ああ。マクレガーっていう、業界の大物らしい」
『だとしたら、近いうちに、その方は今の会社にいられなくなるかもしれません。正しいことを言う人は、正しいことが証明される前に、追い出されることが多いので』
レイコさんの声は、どこか自分のことを話しているようにも聞こえた。銀行の窓口で、面白い数字に一度も触らせてもらえなかった頃の、レイコさん自身のことを。
「……覚えておく」
『はい。それと、佐伯さん』
「ん?」
『その方の電話番号、もらいましたか』
「もらった」
電話の向こうで、レイコさんが小さく溜息をついた。
『……そうですか。数字の話をする相手が増えるのは、いいことです』
それきり、レイコさんは仕事の話に戻った。
でも、最後に電話を切る直前、ほんの少しだけ、声が低かった気がした。
現在資産:29,500,000,000円
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