第25話 ニューヨーク
ニューヨークの六月は、思ったより暑かった。
マンハッタンのホテルの窓から見下ろす街は、どこもかしこも工事中だった。新しい高層マンションが、空に向かって次々と伸びている。通りを歩けば、不動産屋の看板が、あちこちに立っている。
――家の値段は、上がり続ける。
街そのものが、そう信じているように見えた。
◇
最初に会ったのは、ウォール街の大手銀行の担当者だった。
ガラス張りの会議室。窓の外には、ニューヨークの摩天楼が並んでいる。
担当者は、四十代くらいの白人男性だった。仕立てのいいスーツに、派手なネクタイ。満面の笑みで、俺と握手をした。
「ようこそ、ミスター・サエキ。東京で、ネクストリームの崩壊を当てたそうですね。素晴らしい」
「ありがとうございます」
「今日は、どんな商品をお探しですか。日本の投資家の方には、うちの住宅ローン証券が大人気ですよ。安全で、利回りもいい」
「買いに来たんじゃないんです」
俺は、用意してきた書類を差し出した。
「その住宅ローン証券が値下がりしたときに、お金が支払われる契約。それを、買いたい」
担当者の笑顔が、一瞬止まった。
それから、声を出して笑った。
「保険ですか。住宅ローン証券の?」
「ええ」
「ミスター・サエキ。アメリカの住宅の値段は、この六十年間、全国で一度も下がったことがないんですよ」
担当者は、窓の外の摩天楼を指さした。
「この国の人間は、家を買うことが大好きなんです。値段が下がる理由が、どこにもない」
「それでも、買いたいんです」
担当者は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、肩をすくめた。
「……まあ、お客様がそうおっしゃるなら。保険料は、うちにとってはありがたい収入です。毎年、確実に入ってくるお金ですからね」
担当者は、契約書の手配を始めた。
その顔は、明らかに、俺を「金を捨てに来たお人好しの日本人」として見ていた。
◇
それから二週間で、俺は七つの銀行を回った。
どこでも、反応は同じだった。
最初は驚き、それから笑い、最後には喜んで契約書を出してきた。誰も、住宅の値段が下がるとは思っていない。だから、保険料は安かった。
「笑われるたびに、安く買える」
ホテルに戻って、東京のレイコさんに電話をした。
『笑われて、平気なんですか』
「平気だよ。一周目……いや、日本でも、散々笑われてきたから」
『一周目?』
「言葉のあやだ」
電話の向こうで、レイコさんが小さく溜息をついた気配がした。
『契約の内容は、すべてファックスで送ってください。数字は、私が全部確認します』
◇
七つ目の銀行を出た夜、さすがに疲れていた。
ホテルに戻る前に、カオルさんにもらったメモを広げた。大使館の人に教わったという、日本料理屋の名前と住所が書いてある。
ミッドタウンの路地裏。小さな暖簾がかかった店だった。
カウンターだけの店内には、日本人のビジネスマンらしい客が二人。板前は、六十代くらいの日本人の男性だった。
「いらっしゃい。日本の方ですか」
「東京から来ました」
「そりゃ、遠いところを。何にしましょう」
焼き魚定食を頼んだ。味噌汁を一口すすった瞬間、体の力が一気に抜けた。
「……うまい」
「ニューヨークに来た日本の人は、三日目くらいで、みんなそういう顔になるんですよ」
板前が、笑いながら言った。
「お仕事ですか」
「ええ。銀行を回っていて」
「この街の銀行の人たちは、最近ずいぶん景気がいいらしいですね。うちの店にも、たまに来ますよ。みんな、家を二軒も三軒も買ってるって自慢してます」
板前は、包丁を動かしながら、ぽつりと言った。
「でもね、私は四十年前に、日本の土地の値段が上がり続けた時代も見てきたんです。あのときも、みんな同じ顔をしてました」
俺は、箸を止めた。
「……そのあと、どうなりました」
「ご存じのとおりですよ」
板前は、静かに笑った。
店を出ると、夜のニューヨークの街は、相変わらず明るく輝いていた。
カオルさんの言葉を思い出した。向こうには、日本の噂は届かない。だから、自分の目で見るしかない。
――カオルさん。ちゃんと、見てきましたよ。
◇
出張の最後の週。
ミッドタウンのホテルで、大きな金融業界の会議が開かれていた。
世界中の銀行やファンドの人間が集まり、市場の見通しについて講演をする。どの講演も、内容はほとんど同じだった。
――住宅市場は堅調。景気は拡大が続く。金融商品の需要は、今後も伸びる。
会場の後ろの席で、俺は欠伸をこらえていた。
最後の講演者が、壇上に上がった。
会場が、少しざわついた。
若い女性だった。二十代の後半。金色の髪を、後ろできっちりとまとめている。濃紺のパンツスーツ。背が高く、壇上に立つと、ほとんどの男性講演者より大きく見えた。
スクリーンに、名前が映った。
アリサ・ヴァンス。
東京で、新聞の海外面に載っていた名前だった。
「結論から言います」
アリサは、マイクを握って、会場を見渡した。
「アメリカの住宅市場は、バブルです。あと一年か二年で、確実に崩壊します」
会場が、どよめいた。
アリサは、スクリーンに次々とグラフを映していった。住宅ローンの審査の甘さ。延滞率の少しずつの上昇。所得と家の値段の、異常な開き。
どのグラフも、俺がレイコさんと二人で見てきた数字と、同じものを指していた。
「この会場にいる皆さんの多くは、住宅ローン証券を『安全な商品』として売っているはずです。でも、私は断言します。それは、時限爆弾です」
会場の空気が、冷たくなった。
前の方の席で、誰かが鼻で笑った。後ろの方からは、ブーイングに近い声が上がった。
アリサは、眉一つ動かさずに、講演を最後までやり切った。
◇
講演が終わると、俺は会場の外の廊下で、アリサを待った。
アリサは、資料の束を抱えて、一人で出てきた。誰も、彼女に話しかけようとはしなかった。
「ミス・ヴァンス」
アリサが、足を止めた。
「いい講演でした。俺も、同じことを考えています」
俺は、たどたどしい英語で言った。
アリサは、俺を上から下まで、ゆっくりと見た。
二十八歳の、日本人の若造。慣れないスーツ。下手な英語。
アリサの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「同じこと? あなたが?」
「ええ」
「……東洋の素人に、何が分かるの」
アリサは、それだけ言って、俺の横を通り過ぎていった。
金色の髪が、廊下の照明の下で光った。
俺は、その背中を見送りながら、思わず笑っていた。
――黒田と、同じ反応だな。
でも、あのときとは違った。
黒田は、俺を見下して、それで終わりだった。アリサは、見下しながらも、一瞬だけ、俺の目を確かめるように見ていた。
何かを知っている人間の目かどうか、確かめるように。
◇
帰りの飛行機の中で、俺はアリサの講演資料を何度も読み返した。
一周目の俺は、アリサ・ヴァンスという名前を知らない。リーマン・ショックのニュースは何度も見たが、彼女の名前を聞いた覚えはなかった。
――この人は、一周目では、どうなったんだろう。
正しいことを言いながら、誰にも信じてもらえずに、どこかに消えてしまったのかもしれない。
窓の外には、雲の海が広がっていた。
成田に着いたら、まずレイコさんに、この資料を見せよう。
それから、ミサキに、自由の女神の置物を渡そう。三体買ったから、一つはレイコさんに、一つはカオルさんに。
ポケットの中で、小さな置物が、かちりと音を立てた。
現在資産:30,200,000,000円
お読みいただき、ありがとうございます!
毎日22時に更新しています!
続きが気になると思っていただけたら、
ブックマークや、下の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、
とても励みになります。
感想も、一言から大歓迎です。
よろしくお願いします!




