第23話 次は世界へ
三月。
ネクストリーム・ショックから二か月が過ぎて、株式市場はようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
黒田は、社長の座を追われた。テレビからも、街の書店の平台からも、その顔は消えていた。あれほど熱狂していた世間は、もう別の話題に夢中になっていた。
オフィスの電話が鳴った。
『佐伯か。俺だ、村井』
「久しぶり。元気か」
『元気どころじゃない。聞いてくれ、昇進したんだ』
電話の向こうで、村井の声が弾んでいた。
三年前、銀座の寿司屋で話したあと、村井は携帯電話向けのサービスを作っている会社に転職した。その会社が、今、急成長している。携帯でネットを見る人が爆発的に増えて、村井のいる部署は、会社で一番の稼ぎ頭になったらしい。
『お前の言ったとおりだったよ。小さい画面で、みんなネットを見るようになった。お前、本当に何者なんだ』
「だから、中身は親父だって」
『もうそれ、信じそうになってきたぞ』
村井は笑った。学生の頃と同じ、屈託のない笑い声だった。
『今度は、俺がおごる。銀座の寿司屋は無理だけど、ガード下の焼き鳥屋なら任せろ』
「楽しみにしてる」
電話を切ってから、俺はしばらく窓の外を見ていた。
一周目の村井は、どうなっていたんだろう。ネット企業の倒産に巻き込まれて、それからどうしたのか。俺は、知らない。一周目の俺は、村井と連絡を取り合うことすらしなかったから。
二周目で、少なくとも一人の友人の人生は、少しだけいい方向に変わった。
それが、ネクストリームで稼いだ百五十億より、なぜか嬉しかった。
◇
四月の初め。
俺は、箱根の山の中にある古い洋館を、週末だけ丸ごと借りた。
元は、どこかの財閥の別荘だったらしい。広い庭には桜が咲き始めていて、裏手には、源泉かけ流しの露天風呂があった。
この二年間、一緒に戦ってくれた三人への、ご褒美のつもりだった。
「わあ……すごい」
車から降りたミサキが、洋館を見上げて声を上げた。
「ショウゴくん、これ、いくらしたの」
「聞かないほうがいいと思う」
「それ、引っ越しのときも、沖縄のときも言ってた」
「毎回、聞かないほうがいい額なんだよ」
ミサキの後ろから、レイコさんとカオルさんも降りてきた。
レイコさんは、珍しく私服だった。白いシャツに、細身のジーンズ。眼鏡はいつもと同じ、俺が贈ったチタンのフレームだった。
カオルさんは、薄桃色の着物に、春らしい柄の帯を締めていた。
「素敵な場所ね。昔、お店のお客さんに、こういう別荘に招かれたことがあるけど、ここのほうがずっと品がいいわ」
「カオルさん、着物で来たんですか。温泉なのに」
「旅には着物と決めているの。脱ぐのも着るのも、慣れているから」
ミサキとレイコさんが、顔を見合わせた。
◇
その夜。
洋館の広い食堂で、四人でテーブルを囲んだ。
料理は、近くの旅館から板前を呼んで作ってもらった。山菜の天ぷら、鮎の塩焼き、地元の牛のすき焼き。ワインは、カオルさんが店から持ってきた、とっておきの一本だった。
最初は、なんとなくぎこちなかった三人も、酒が進むにつれて、口が軽くなっていった。
「この人の好きなところ?」
ミサキが、ワイングラスを片手に首をかしげた。
「うーん……約束を絶対に守るところ。一年後におごるって言ったら、本当におごるし、明日もらいに来るって言ったケーキは、絶対に食べずに待ってる」
「分かります」
レイコさんが、真顔でうなずいた。
「数字の約束も守ります。規定を破ったら、必ず理由を説明します。三十分かかりますが」
「三十分は長いわね」
カオルさんが、くすくす笑った。
「じゃあ、口うるさいところは?」
「褒めるときだけ、妙におじさんっぽいところかしら」
カオルさんが言うと、ミサキが勢いよく手を挙げた。
「分かる! 大学のときからそう。『髪切った? 似合ってる』とか、言い方がなんか、親戚のおじさんみたいなの」
「あれは、早瀬さんにだけですか」
「桐谷さんにも言ってた?」
「眼鏡を渡されたとき、『似合ってる』と言われました。親戚のおじさんの言い方でした」
三人が、同時に笑い出した。
俺は、テーブルの端で、すき焼きの肉をつつきながら、黙って小さくなっていた。
――中身が四十八歳なんだから、仕方ないだろ。
心の中で、そう言い返すしかなかった。
◇
深夜。
三人が眠ったあと、俺は一人で、裏手の露天風呂に入った。
山の夜は冷えていた。湯気の向こうに、満天の星が見えた。
湯に肩まで浸かりながら、俺は記憶の引き出しを開けた。
アメリカの、住宅ブーム。
今、アメリカでは、誰もが家を買っている。収入の少ない人にも、銀行は気前よく金を貸している。家の値段は上がり続け、上がり続ける限り、誰も困らない。
でも、俺は知っている。
あと二年。2008年の秋に、その熱狂は崩れる。家の値段が下がり始め、借金を返せない人が続出する。その借金を束ねた金融商品が紙くずになり、世界中の銀行が、ドミノのように倒れていく。
一周目では、「リーマン・ショック」と呼ばれた。
そこで、「下がる方」に賭けることができれば。
ネクストリームで稼いだ百五十億は、桁が二つ変わる。
「……日本だけじゃ、狭すぎるな」
星空に向かって、つぶやいた。
◇
翌朝。
洋館のテラスで、朝食をとりながら、俺は三人に言った。
「投資の会社を、ちゃんと作る。日本だけじゃなくて、世界を相手にする」
三人の手が、同時に止まった。
「社名は?」
レイコさんが聞いた。
「佐伯キャピタル」
レイコさんは、少しだけ目を閉じて、それから、ふっと笑った。
「……やっぱり、ひねらないんですね」
「分かりやすいのが一番だよ」
「一つだけ、確認させてください」
レイコさんは、眼鏡を指で押し上げた。
「その会社の、最初の社員は、私ですね」
「当たり前だ」
ミサキが、トーストを持ったまま身を乗り出した。
「じゃあ私は、応援株主継続で!」
「株主って、何を出資するんだよ」
「応援。それと、毎週末のご飯」
カオルさんは、紅茶のカップを置いて、優雅に微笑んだ。
「世界の噂も、集めてあげるわ。銀座には、外国の大使館の人も来るのよ」
桜の花びらが、一枚、テラスのテーブルの上に舞い落ちた。
◇
東京に戻った日の夕方。
オフィスで新聞を広げていると、海外面の小さな記事が目に留まった。
『米大手証券の若手女性トレーダー、住宅市場に警鐘「バブルは近く崩壊する」』
記事には、写真が一枚添えられていた。
金色の髪をまとめた、若い女性。鋭い目つきで、まっすぐカメラを見ている。
名前は、アリサ・ヴァンス。
俺は、その記事を何度も読み返した。
一周目の俺は、この名前を知らない。記憶のどこにもない。
それなのに、この人は、俺と同じ未来を見ている。
「……俺と同じものが見えている人が、いるのか」
新聞を持つ手に、自然と力が入った。
窓の外では、六本木の街に、夜の明かりがともり始めていた。
現在資産:31,000,000,000円
――第2部 学ぶ者は稼ぐ 完――
第2部、これにて完結です!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
株で初めての大負けから、黒田との駆け引き、そして強制捜査前日の売り抜け。
資産は約27億円から約310億円に。
ヒロインもカオルさんが加わって、三人になりました。
次回から、第3部が始まります。
舞台はニューヨーク。アメリカの住宅バブルに、佐伯が全力で逆張りします。
そして、金髪の天才トレーダーが登場します。
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