第22話 売り抜け
その朝は、いつもより早く目が覚めた。
午前五時。窓の外は、まだ真っ暗だった。
ベッドを抜け出し、シャワーを浴びて、スーツに袖を通す。鏡の中の二十七歳の顔は、思ったより落ち着いていた。
一周目の俺は、この日のニュースを、会社の休憩室のテレビで見た。
ネクストリームの本社に、検察の強制捜査。段ボールを抱えた捜査員たちが、ガラス張りのビルに次々と入っていく映像。
翌日から、株価は崩れ落ちた。ネクストリームだけじゃない。新興企業の株が、軒並み暴落した。
一周目の俺は、株を持っていなかった。だから、他人事だった。ニュースを見ながら、「金持ちも大変だな」と思っただけだった。
今日、俺の手元には、そのネクストリーム株が二百億円分以上ある。
捜査が入るのは、今日の夕方。
今日の昼までに、全部売る。
◇
午前七時。六本木のオフィス。
ドアを開けると、もう明かりがついていた。
レイコさんが、自分の机の前に立っていた。手には、あの封筒を持っている。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「今日、開ける日のような気がしたので」
レイコさんは、封筒を俺に見せた。
「開けても、いいですか」
「ああ」
レイコさんは、ペーパーナイフで丁寧に封を切った。中のメモ用紙を取り出して、広げる。
そこには、今日の日付が書いてあった。
レイコさんは、メモ用紙をしばらく見つめていた。それから、静かに顔を上げた。
「……準備は、できています」
◇
午前九時。取引開始。
オフィスのモニターに、ネクストリームの株価が表示された。前日よりも、少しだけ高い値段で始まった。
市場は、何も知らない。
「最初の注文、出します」
レイコさんが、キーボードを叩いた。
二百億円分の株を一度に売れば、その注文だけで株価が崩れてしまう。だから、少しずつ、分けて売る。複数の証券会社を使い、時間をずらし、市場に気づかれないように。
レイコさんは、この日のために、半年かけて段取りを組んでいた。
画面の中で、売り注文が次々と約定していく。
「第一陣、約定しました。十二億円分」
「第二陣、約定。九億円分」
「第三陣――」
レイコさんの声は、いつもと同じように淡々としていた。でも、キーボードを叩く指は、いつもより少しだけ速かった。
俺は、黙って画面を見ていた。
一周目の俺は、毎日、誰かに頭を下げて仕事をしていた。上司の顔色をうかがい、取引先の機嫌を取り、終電に揺られて家に帰った。
二周目の俺は、今、何も知らない市場を相手に、二百億円の株を売っている。
宝くじのマークシートを塗ったときと、同じ感覚だった。
答えを知っている者だけが感じる、静かな高揚。
◇
午前十一時。
ネクストリームの株価が、少しだけ下がり始めた。大量の売りに、市場がようやく気づき始めたのだ。
「残り、三割です」
「ペースを上げてくれ」
「了解しました」
正午を回ったころ、昼休みの時間に入った。午後の取引が始まるまでの一時間、オフィスにはキーボードの音すらしなかった。
レイコさんが、コンビニのおにぎりを二つ、俺の机に置いた。
「食べてください。お昼、また忘れています」
「……ありがとう」
あの株安の冬の夜と、同じおにぎりだった。
午後一時。取引再開。
残りの注文を、一気に出した。
午後一時二十二分。
「最後の注文、約定しました」
レイコさんが、画面から顔を上げた。
「ネクストリーム株、一株も残っていません」
◇
オフィスに、静寂が落ちた。
レイコさんが、手元の集計表を読み上げた。
「売却総額、二百八億七千万円。取得額との差、つまり利益は――」
一呼吸。
「百五十二億三千万円です」
数字を読み上げるレイコさんの声を聞きながら、俺は思わず笑った。
「……読み上げ方、宝くじの抽選みたいだな」
「そうですか」
「一つ目、合っている。二つ目、合っている。……あのときの、テレビの前の俺みたいだ」
レイコさんは、少しだけ首をかしげて、それから、小さく笑った。
「では、こう言いましょうか。――全部、一致しました」
◇
その日の午後六時。
オフィスのテレビが、ニュース速報を流した。
『ネクストリーム本社に強制捜査 証券取引法違反の疑い』
画面には、ガラス張りの高層ビルが映っていた。段ボールを抱えた捜査員たちが、次々とエントランスに入っていく。
一周目で見たのと、まったく同じ映像だった。
レイコさんが、隣で息を呑んだ。
「……佐伯さん」
「うん」
「本当に、今日だったんですね」
レイコさんは、テレビの画面と、俺の顔を交互に見た。
何かを聞きたそうだった。でも、何も聞かなかった。
代わりに、レイコさんは自分の机の引き出しを開けて、封筒とメモ用紙を取り出した。今朝開けた、あの封筒だ。
レイコさんは、それをクリアファイルに挟んで、引き出しの一番奥にしまい直した。
「記録として、保管しておきます」
「何の記録?」
「佐伯さんが、一度も外さなかった記録です」
テレビの中では、アナウンサーが、ネクストリームの株主たちの悲鳴を伝えていた。
俺は、テレビの音量を少しだけ下げた。
翌日。
ネクストリームの株価は、取引開始と同時に売り注文が殺到し、値段がつかなかった。新興企業の株も、軒並み暴落した。テレビでは、「ネクストリーム・ショック」という言葉が繰り返し流れていた。
◇
夜、黒田から電話がかかってきた。
いつもの上機嫌な声ではなかった。かすれて、乾いた声だった。
『……佐伯。お前、知ってたのか』
「何をですか」
『とぼけるな。昨日、うちの株を全部売っただろう。捜査が入る、その日に』
「知りませんでしたよ」
俺は、窓の外の夜景を見ながら答えた。
「ただ、決算書を読んだだけです。御社の利益の半分が、本業以外から来ていた。うちの右腕は、去年の夏にそれに気づいてました。黒田さんにも、直接言ったはずですよ」
電話の向こうで、黒田が黙り込んだ。
『……あの女。やっぱり、引き抜いておくんだった』
「無理ですよ」
俺は、少しだけ笑った。
「うちの女は、誰も去らないんで」
返事はなかった。しばらくして、通話が切れた。
◇
一週間後。
週刊誌の記事が、オフィスの丸テーブルに置かれていた。
『ネクストリーム崩壊を予言した男――若き天才投資家・佐伯ショウゴの正体』
書いたのは、あの沢口記者だった。
四年前は、俺を「謎の宝くじ長者」として追いかけていた記者だ。今度の記事では、俺のことを「天才」と呼んでいた。
記事は、弁護士がしっかりと確認していた。俺がネクストリーム株を売ったのは、公開されている決算書を分析した結果であり、インサイダー取引には当たらない。そのことも、記事の中でちゃんと書かれていた。
「……ずいぶん持ち上げられてるな」
「当然です」
レイコさんは、記事を読みながら言った。
「書いてあることは、全部事実ですから」
その夜、カオルさんから短いメールが届いた。
『今夜の銀座は、あなたの話で持ちきりよ。お客さんたちが、みんなあなたに会いたがってる。でも、紹介はしないわ。私だけの情報源にしておきたいから』
現在資産:31,000,000,000円
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