第21話 膨張
2005年、秋。
ネクストリームの株価は、もはや狂っていた。
黒田は、株式分割を繰り返した。一株を百株に分ける。そうすると、一株あたりの値段が下がり、学生や主婦でも買える金額になる。小口の個人投資家が殺到し、株価はさらに跳ね上がる。
テレビの経済番組では、毎日のようにネクストリームが取り上げられていた。
「黒田社長は、日本の古い経済を壊す救世主だ」
「ネクストリーム株を持っていない投資家は、時代遅れだ」
評論家たちは、口をそろえてそう言った。
街の証券会社の店先には、口座を開こうとする人の列ができていた。
ある日の昼、オフィス近くの証券会社の前を通りかかると、列の最後尾に、七十歳くらいの男性が並んでいた。くたびれたコートに、古い革の鞄を抱えている。
「すごい列ですね」
何となく声をかけると、男性は人のよさそうな顔で笑った。
「ええ。退職金をね、ネクストリームの株に入れようと思いまして。テレビで、あの若い社長さんが言ってたでしょう。これからの日本を変えるって。年寄りも、少しくらい夢を見てもいいかと思って」
鞄を抱える手に、力がこもっていた。
一周目の俺は、この熱狂の結末を知っている。来年の一月、この人の退職金は、紙くず同然になる。
全部を話すことはできない。話したところで、信じてもらえるはずもない。
「……おじいさん。株は、全部入れないほうがいいですよ」
「おや」
「一つの会社に全部入れると、何かあったときに取り返しがつかない。入れるなら、なくなってもいい分だけ。それが、株の基本だそうです」
男性は、少し驚いた顔で俺を見た。
「お兄さん、詳しいね。証券会社の人かい」
「いえ、ただの勉強中の者です」
男性は、しばらく考えるように鞄を見つめていた。
「……そうだね。孫の学費の分は、残しておこうか」
列が進んで、男性は店の中へ入っていった。
それで救えたのかどうかは、分からない。それでも、何も言わずに通り過ぎるよりは、ずっとましだと思った。
◇
俺の資産も、膨らみ続けていた。
ネクストリームの株価が一日で一割上がると、それだけで俺の資産は十億円近く増える。
九月の終わりに、二百億を超えた。
十月の半ばに、二百三十億。
十一月に入って、二百五十億。
オフィスのモニターの数字を眺めながら、俺は時々、自分の目を疑った。
二百五十億円。一周目の俺の生涯年収が、ざっと二億円とすると、その百二十五倍。
宝くじで一億円を当てたあの夜、俺は手が震えなかったことに驚いた。今は、もう数字の大きさに何の実感もわかなかった。
「慣れてはいけませんよ」
モニターを覗き込んだレイコさんが、釘を刺すように言った。
「数字に慣れた投資家から、順番に負けていきます」
「分かってる」
「本当に分かっていますか」
レイコさんは、俺の机の上に、一枚の紙を置いた。
ネクストリームの株価のグラフ。去年の初めから今日まで、ほぼ一直線に右肩上がりだった。
「こういう形のグラフが、最後にどうなるか。過去の例を、私は二十個調べました。二十個とも、同じ結末でした」
「……崩れる」
「はい。例外は、一つもありません」
◇
それでも、俺は年末までに、さらにネクストリーム株を買い増した。
レイコさんは、反対しなかった。ただ、一つだけ条件をつけた。
「売る日を決めているなら、その日を教えてください。私は、それに合わせて準備します」
「準備?」
「これだけの量の株を一日で売るには、段取りが必要です。証券会社の手配、注文の分け方、資金の移し先。売ると決めた日に、確実に売り切れるように」
俺は、少し考えてから、メモ用紙に日付を書いた。
それを封筒に入れ、封をして、レイコさんに渡した。
「その日の朝に、開けてくれ」
レイコさんは、封筒を両手で受け取って、しばらく見つめていた。
「……分かりました。封筒は、その日の朝に開けます。それまでは、私も知らないことにします」
レイコさんは、封筒を鍵のかかる引き出しにしまった。
◇
十二月の初め。
カオルさんから電話があった。
『少し、話しておきたいことがあるの。今夜、いつもの店で』
銀座の外れの、小料理屋。
カウンターの端で、カオルさんは燗酒の猪口を手のひらで温めていた。
「最近、店に来るお客さんの顔ぶれが、少し変わったの」
「どういうふうに?」
「検察の人。それと、その人たちと仲のいい弁護士さん。前はあまり来なかった人たちが、最近よく来るのよ」
カオルさんは、声を落とした。
「その人たちがね、お酒の席で、黒田さんの名前を出すの。冗談みたいな口調だけど、目が笑っていない」
俺は、猪口を持つ手を止めた。
「噂は噂よ。でも――」
「同じ噂を三人から聞いたら、それはもう噂じゃない」
俺が先に言うと、カオルさんは目を丸くして、それから小さく笑った。
「覚えていてくれたのね」
「忘れませんよ」
カオルさんは、俺の目をじっと見た。
「あなた、もう分かっているんでしょう。黒田さんの会社が、どうなるか」
「……さあ」
「ずるい人」
カオルさんは、猪口の酒を一息に飲み干した。
「いいわ。聞かないでおく。でも、気をつけて。崩れるときは、近くにいる人も一緒に巻き込まれるから」
◇
年末。
ミサキと二人で、マンションで年越しをした。
紅白歌合戦を見ながら、ミサキが作った年越しそばをすする。
「ねえ、聞いて。この前話した新人作家さんの本、重版が決まったの」
ミサキは、そばの湯気の向こうで、目を輝かせていた。
「初版五千部が、あっという間に売り切れて。三千部追加だって。編集長に、早瀬の見る目は確かだって褒められちゃった」
「すごいじゃないか」
「私ね、数字が増えるのって、こんなに嬉しいんだって初めて分かった。ショウゴくんが、株のこと楽しそうに話す気持ち、ちょっと分かったかも」
ミサキは、照れくさそうに笑った。
テレビの中で、除夜の鐘が鳴り始めた。
穏やかな夜だった。
でも、俺の頭の中では、ずっと一つの日付が回り続けていた。
来月。一周目で、ネクストリームの本社に強制捜査が入った日。
あと、二週間と少し。
◇
年が明けて、2006年の一月四日。
仕事始めの日の夜、俺の携帯が鳴った。
黒田からだった。
『佐伯くん、あけましておめでとう。いやあ、うちの株、ずいぶん持ってくれてるらしいじゃないか』
電話の向こうの黒田の声は、相変わらず上機嫌だった。
『出資は断ったくせに、市場ではしっかり買ってる。やっぱり、俺を信用してたんだな』
「信用はしていませんよ」
『……は?』
「相場を信用してるだけです」
電話の向こうで、黒田が一瞬黙った。それから、声を出して笑った。
『相変わらず生意気だなあ。まあいい。今年は、俺と一緒に日本一の景色を見ようぜ』
「景色は、一番高いところで、十分に見ました」
俺はそう言って、電話を切った。
窓の外には、正月の静かな東京の夜景が広がっていた。
現在資産:26,000,000,000円
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