第20話 年収十倍
2005年、夏。
ネクストリームは、日本で一番話題の会社になっていた。
毎週のように、新しい会社の買収を発表する。そのたびに株価が跳ね上がる。黒田はテレビの討論番組に呼ばれ、古い経営者たちを相手に、Tシャツ姿で言い負かしていた。
「時代は変わったんですよ。古いルールに縛られている会社は、全部潰れればいい」
テレビの中の黒田は、いつも自信に満ちていた。
街の書店には、黒田の自伝が山積みになっていた。タイトルは『金で買えないものはない』。若者たちが、競うようにその本を買っていった。
俺が少しずつ買い集めていたネクストリームの株も、値上がりを続けていた。
資産は、百五十億を超えた。
◇
七月の終わり。
その話を俺が知ったのは、カオルさんからの電話だった。
『ねえ、昨日の夜、黒田さんがお店で面白いことを言っていたわよ』
「面白いこと?」
『佐伯くんの右腕を、うちに引き抜いてやるって。かなり本気みたいだった』
受話器を握る手に、力が入った。
『年収を十倍出すって、自慢げに言っていたわ。あの女がいなくなれば、佐伯の運用なんてすぐ崩れる、ですって』
「……それ、いつの話ですか」
『引き抜きの話自体は、先週だそうよ。ホテルのラウンジで会ったって』
先週。
レイコさんからは、何も聞いていない。
◇
その日の午後。
俺は、オフィスでいつもどおり仕事をしているレイコさんを、丸テーブルに呼んだ。
「レイコさん。先週、黒田に会った?」
レイコさんは、キーボードを叩く手を止めた。
眼鏡の奥の目が、少しだけ揺れた。
「……誰から聞いたんですか」
「カオルさん。黒田が、月白で自慢してたって」
レイコさんは、小さく溜息をついた。
「銀座の情報網は、本当に早いですね」
それから、淡々と話し始めた。
◇
先週の火曜日。
レイコさんの携帯に、知らない番号から電話がかかってきた。ネクストリームの秘書室からだった。黒田社長が、ぜひお会いしたいと言っている、と。
会う義理はなかった。でも、レイコさんは行った。
「黒田社長の会社の内部を、直接見ておく機会だと思いましたので」
「……調査のために?」
「はい」
都心のホテルの、最上階のラウンジ。
黒田は、窓際の一番いい席で待っていた。今日もTシャツにジャケット。テーブルには、ネクストリームの社名が入った封筒が置いてあった。
「桐谷さん。はっきり言うよ」
黒田は、前置きもなく切り出した。
「佐伯の運用成績、あれは実際には君の分析だろう。あいつは、宝くじで当てた金を、君の言うとおりに動かしているだけだ」
レイコさんは、黙って聞いていた。
「うちの財務担当の役員として来てほしい。年収は、今の十倍出す」
黒田は、封筒をテーブルの上で滑らせた。
「佐伯のところにいても、先がないだろう。あいつはいつか必ず運が尽きる。そのとき、君まで沈む必要はない」
レイコさんは、封筒に目を落とした。
それから、手を伸ばさずに、顔を上げた。
「お断りします」
黒田の笑顔が、固まった。
「……中身を見てから決めてもいいんじゃないか」
「見る必要はありません」
レイコさんは、鞄から一枚のメモを取り出した。
「それと、御社の決算について、一つだけ申し上げます」
メモには、ネクストリームの過去三期分の数字が、几帳面な字で並んでいた。
「御社の今期の利益、半分は本業以外で作られていますね。自社の株を売って得たお金を、売上として計上しているように見えます」
黒田の顔から、表情が消えた。
「これが私の見間違いでないなら、いずれ大きな問題になります。私なら、この会社の財務は担当しません」
レイコさんは、メモを鞄に戻して、立ち上がった。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
ラウンジを出るとき、背後で黒田が何かを言いかけた。レイコさんは、振り返らなかった。
◇
「……そういうわけです」
話し終えたレイコさんは、いつもと同じ顔で、眼鏡を指で押し上げた。
俺は、しばらく何も言えなかった。
「どうして、言ってくれなかったんだ」
「報告するほどの数字じゃなかったので」
「年収十倍だぞ」
「私にとっては、大した数字ではありません」
レイコさんは、少しだけ視線をそらした。
「私の一番好きな数字は、佐伯さんの隣で動いている数字ですので」
窓の外で、首都高を走る車の音が、低く響いていた。
俺は、立ち上がった。
「レイコさん。給料を十倍にする」
「必要ありません」
「じゃあ、こうしよう」
俺は、丸テーブルの上の資産管理規定の束をめくり、最後のページの余白に書き込んだ。
――合同会社サエキ・アセットの持分の三割を、桐谷レイコに譲渡する。
レイコさんが、目を見開いた。
「……これは」
「この会社が稼いだ金の三割は、レイコさんのものだ。黒田がいくら積んでも、引き抜かれない理由を、俺の方からも作っておきたい」
「持分の三割というのは、今の評価額で、数十億円になりますが」
「知ってる」
「規定に、そんな条項はありません」
「今、作った。この規定、最後のページは代表社員が書き足せることになってるだろ」
レイコさんは、規定の紙をじっと見つめていた。
それから、眼鏡を外して、目元を指で押さえた。
「……そんな条項は、ありません」
声が、少しだけ震えていた。
「でも、今回だけ、例外を認めます」
◇
その夜、オフィスの明かりを消す前に、レイコさんがぽつりと言った。
「佐伯さん。黒田社長の会社の株、売る日は決まっているんですよね」
「ああ」
「その日まで、あとどれくらいですか」
「半年ちょっと」
「……そうですか」
レイコさんは、窓の外の東京の夜景を見つめた。
「黒田社長は、私の話を聞いて、たぶん怒ったと思います。何か仕掛けてくるかもしれません」
「仕掛けてきたら、そのときはそのときだ」
「頼もしいですね」
「誰かさんが、隣にいてくれるからな」
レイコさんは、窓の方を向いたまま、小さく笑った。
◇
その週末。
ミサキから、珍しく長いメールが届いた。
『桐谷さんから聞いたよ! 黒田社長の引き抜き、その場で断ったって。しかも決算書の数字まで突きつけたって。かっこよすぎない? 私、今度桐谷さんに、編集部の経費精算の仕方を教えてもらう約束した(笑)』
続けて、もう一通。
『あと、カオルさんからもメール来た。「あの子、いい女ね」だって。三人で、今度ご飯行くことになったから。ショウゴくんは来ちゃだめ』
俺は、携帯の画面を見ながら、しばらく笑っていた。
いつの間にか、三人のあいだに、俺の知らない連絡網ができている。
それが、なんだか嬉しかった。
一周目の俺の携帯には、仕事の連絡しか来なかった。誰かが自分のことで楽しそうにしているなんて、想像したこともなかった。
『分かった。行かない。楽しんで』
返信すると、すぐに返事が来た。
『ショウゴくんの悪口、いっぱい言っとくね』
――やっぱり、そういう会なのか。
現在資産:16,000,000,000円
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