第19話 一番最初は私
翌日。
一日中、仕事が手につかなかった。
モニターの株価は、いつもどおり上がったり下がったりしていた。ネクストリームは、また年初来高値を更新していた。いつもなら、それだけで気分が上がる数字だった。
今日は、何も感じなかった。
「佐伯さん」
レイコさんが、俺の机の前に立っていた。
「今日、三回、同じ書類を読み直しています」
「……ばれてたか」
「何かありましたか」
俺は少し迷ってから、昨夜のことを話した。眼鏡ケースのこと。ミサキに、全部話したこと。
レイコさんは、黙って聞いていた。
聞き終えると、小さく息を吐いた。
「……私のケースを、置き忘れたせいですね。申し訳ありません」
「レイコさんのせいじゃない。いつかは、話さなきゃいけなかった」
「それでも、です」
レイコさんは、少しだけ視線を落とした。それから、顔を上げた。
「もし、早瀬さんが……私が会社を辞めたほうがいいと言うなら、私は」
「それは、言わせない」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「レイコさんは、この会社に必要だ。俺にも、必要だ」
レイコさんは、眼鏡の奥で目を見開いた。
それから、何も言わずに、自分の席に戻っていった。
◇
夜の八時過ぎ。
マンションのインターホンが鳴った。
ドアを開けると、ミサキが立っていた。
昨日と同じコート。目元が、少しだけ腫れていた。
「……ケーキ、もらいに来た」
「冷蔵庫に入ってる。食べてないよ」
「知ってる。ショウゴくん、そういうところは律儀だから」
ミサキはリビングに上がり、昨日と同じ椅子に座った。俺は冷蔵庫からケーキを出して、皿に乗せ、紅茶を淹れた。
ミサキは、フォークでショートケーキの角を少しだけ切って、口に運んだ。
「……一日たっても、おいしいね」
「よかった」
ミサキは、もう一口食べてから、フォークを置いた。
「一晩、考えたの」
俺は、黙ってうなずいた。
「ショウゴくんのこと、許せないって思った。悲しいとも思った。でもね、一番最後に残ったのは、やっぱり、好きって気持ちだった」
ミサキは、まっすぐ俺を見た。
「ショウゴくんの隣に、他に誰がいても。それでも、私がショウゴくんを好きなことは、変わらなかった」
胸の奥が、熱くなった。
「だから、離れない。私が、そう決めたの」
「……ありがとう」
「お礼を言われることじゃないよ。私が勝手に決めたんだから」
ミサキは、少しだけ笑った。それから、人差し指を一本立てた。
「でも、一つだけ条件」
「なんでも」
「その人たちに、私から会わせて」
◇
三日後。六本木のオフィス。
日曜日の昼下がり。オフィスには、俺とレイコさんと、ミサキの三人だけだった。
正直に言って、生きた心地がしなかった。
一周目の会社員時代、どんなに難しい取引先との会議でも、こんなに胃が痛くなったことはなかった。
ミサキとレイコさんは、丸テーブルを挟んで向かい合っていた。
先に口を開いたのは、レイコさんだった。
「はじめまして。桐谷レイコです。佐伯さんの、仕事の右腕です」
一呼吸おいて、続けた。
「それ以外のことも、正直にお話しします。聞きたいことがあれば、何でも聞いてください」
ミサキは、レイコさんの顔をじっと見つめた。
「……うん。その方がいい」
それから、ミサキは小さく頭を下げた。
「早瀬ミサキです。ショウゴくんの、大学の同級生で……一番最初の、彼女です」
二人のあいだに、しばらく沈黙が落ちた。
俺は、息をするのも忘れていた。
ミサキが、ふと口を開いた。
「桐谷さん。ショウゴくんが最初に買った株の理由、聞いたことあります?」
レイコさんの眉が、ぴくりと動いた。
「あります。最初は『勘』と言われました」
「やっぱり! 私も、なんで株やってるのって聞いたら、『数字が動くのが好きだから』しか言わないんですよ」
「分かります。説明を求めると、三十分かけて遠回りしてから、やっと要点にたどり着くんです」
「そうそう! 自分の好きなことの話になると、説明が全部飛ぶんですよね」
「毎日、数字で詰めています」
「えっ、すごい。私、全然詰められない」
「コツがあります。根拠は、と聞いて、答えるまで目をそらさないことです」
「今度やってみます」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
俺は、丸テーブルの端で、どんどん小さくなっていった。
◇
その日の夕方。銀座の路地。
月白の開店前の時間に、カオルさんが店を開けてくれた。
客のいない店内で、三人の女性が、カウンターに並んで座った。
ミサキ。レイコさん。カオルさん。
カオルさんは、二人のために、自ら紅茶を淹れた。着物姿の所作は、相変わらず見とれるほど美しかった。
「はじめまして、白石カオルです。お二人のことは、この人から少しだけ聞いていたわ」
カオルさんは、ミサキとレイコさんを交互に見て、柔らかく微笑んだ。
「ずっと、会ってみたいと思っていたの」
ミサキが、少し緊張した顔で聞いた。
「……カオルさんは、嫌じゃないんですか。他に、私たちがいて」
カオルさんは、紅茶のカップを置いた。
「この人の隣はね、一人で守るには広すぎるのよ」
ミサキとレイコさんが、顔を見合わせた。
「この人は、これからもっと大きくなる。もっと高いところに行く。そのとき、隣に誰もいなかったら、きっと寂しいわ。だから、三人くらいでちょうどいいの」
カオルさんの言葉に、レイコさんが小さくうなずいた。
「……合理的な考え方です」
「でしょう?」
三人のあいだに、不思議な空気が流れていた。張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。
俺は、店の隅で、黙って三人を見ていた。口を挟める空気ではなかった。
やがて、カオルさんが帯の間から小さな手帳を取り出した。
「せっかくだから、連絡先を交換しておきましょう。この人が何か無茶をしそうになったら、三人で止められるように」
「賛成です」
レイコさんが、即座に自分の携帯を取り出した。
「私も!」
ミサキも、慌てて鞄の中を探った。
三人が顔を寄せ合って、携帯の番号を打ち込んでいく。その様子を見ながら、俺は、なんだかとんでもないものが出来上がりつつあるような気がした。
「佐伯さんの悪口を言う会、ですね」
レイコさんが、真顔で言った。
「やめてくれ」
三人が、同時に笑った。
◇
帰り道。
銀座の通りを、ミサキと並んで歩いた。
ミサキは、黙って俺の腕に、自分の腕を絡めた。
「ねえ、ショウゴくん」
「ん?」
「桐谷さんも、カオルさんも、いい人だった。だから、たぶん大丈夫」
「……ありがとう」
「でもね」
ミサキは、立ち止まって、俺の顔を見上げた。
「一番最初は、私だからね」
街灯の下で、ミサキがいたずらっぽく笑った。
「それだけは、ずっと覚えておいて」
「忘れるわけないだろ」
ミサキは満足そうにうなずいて、また歩き出した。
組んだ腕に、少しだけ力がこもっていた。
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