第18話 知られた夜
2005年、四月。
ミサキの誕生日は、毎年、俺のマンションで祝うことにしていた。
外のレストランは、ミサキが嫌がった。「ショウゴくんが作ってくれるご飯のほうがいい」と言うのだ。一周目の独身生活で料理だけはそれなりに覚えたので、俺にとってもそのほうが気楽だった。
その日も、朝から仕込みをしていた。
ローストビーフ。ポテトのグラタン。ミサキの好きな、カボチャのポタージュ。ケーキは、ミサキが「一番おいしい」と言っていた、近所の小さな洋菓子店のショートケーキを予約してある。
昼過ぎ、ケーキを受け取りに洋菓子店へ行った。
小さな店だ。年配の夫婦が二人でやっていて、ショーケースにはいつも十種類ほどのケーキしか並んでいない。
「いつもの彼女さんの誕生日ですか」
店の奥さんが、にこにこしながら白い箱を差し出した。
「四回目ですね。毎年この日に来てくださるから、覚えちゃいました」
「……四回目か」
ミサキと付き合い始めて、もう四年半になる。
大学の図書館の帰り、銀杏の下で告白した日。一周目では言えなかった言葉を、二周目でやっと言えた日。
あの日から、ミサキはずっと隣にいてくれた。株で大負けした冬も、鍋を作りに来てくれた。何も聞かずに、待っていてくれた。
――このままで、いいんだろうか。
ケーキの箱を抱えて歩きながら、ふと、そんな考えが頭をよぎった。
レイコさんのこと。カオルさんのこと。ミサキには、まだ何も話していない。
宝くじのことを打ち明けたとき、ミサキは言った。話せるようになったら、話してくれたらいい、と。
その言葉に、俺はずっと甘えている。
「……今日は、誕生日だしな」
自分に言い訳をするように、俺はつぶやいた。
夕方、インターホンが鳴った。
「お邪魔しまーす。わ、いい匂い」
ミサキは仕事帰りのまま、少しくたびれたスーツ姿で入ってきた。編集者になって四年目。最近は担当する作家も増えて、毎日忙しそうだった。
「今日は早く上がらせてもらったの。誕生日だからって、編集長が」
「いい上司だな」
「でしょ。……あ、手伝うね」
「いいよ、座ってて。主役なんだから」
「じゃあ、お皿だけ出す」
ミサキは慣れた手つきで食器棚を開け、リビングのテーブルに皿を並べ始めた。
俺は台所で、ローストビーフを切っていた。
◇
「ショウゴくん」
リビングから、ミサキの声がした。
いつもと少し違う声だった。
「これ、誰の?」
振り返ると、ミサキがソファの横に立っていた。
手に、小さな眼鏡ケースを持っていた。
紺色の、革のケース。
見覚えがあった。去年の秋、レイコさんに眼鏡を贈ったとき、一緒に渡したケースだ。
先週、仕事の打ち合わせでレイコさんがこの部屋に来たとき、ソファの隙間に落としていったのだろう。
ミサキの声は、静かだった。怒鳴りもしなかった。ただ、まっすぐ俺を見ていた。
「ミサキ、それは」
言いかけて、言葉が止まった。
頭の中で、いくつもの言い訳が浮かんだ。仕事の資料を取りに来た社員の忘れ物だ。会社の備品だ。誰のものか分からない。
どれも、言えば通りそうな言い訳だった。
でも――。
一周目の俺は、四年間、ミサキに一言も言えなかった。言わなかったことを、二十六年間後悔した。
二周目でも、また大事なことを言わずに済ませるのか。
俺は、包丁を置いた。
水道の蛇口をひねり、ゆっくりと手を洗う。冷たい水が、指先の感覚を少しずつ現実に引き戻していった。
タオルで手を拭いて、ミサキの方に向き直った。
「……全部話す。長くなるけど、聞いてほしい」
◇
テーブルに向かい合って座った。
料理は、まだ台所に置いたままだった。
俺は話した。
レイコさんのこと。宝くじの換金窓口で出会って、俺の会社に来てくれたこと。仕事の相棒で、それ以上の関係でもあること。いつから、どういうふうに。
それから、カオルさんのこと。銀座で出会ったこと。仕事の情報をくれる人で、やっぱり、それ以上の関係でもあること。
ミサキは、最後まで一言も口を挟まなかった。テーブルの上で組んだ自分の指を、じっと見つめていた。
話し終えると、部屋の中が、しんと静まり返った。
壁の時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
「……どうして、話したの」
ミサキが、小さな声で言った。
「ごまかそうと思えば、ごまかせたよね。会社の人の忘れ物だって言えば、私、たぶん信じた」
「ごまかしたくなかった」
「どうして」
「前に、約束しただろ。話せるようになったら、話すって。ミサキは、待ってくれるって言った。だから、隠したまま待たせたくなかった」
ミサキの指が、ぎゅっと握られた。
俺は、深く息を吸った。
「ミサキが離れたいと思ったら、止めない。止める資格もない」
それは、俺が二周目で決めた生き方だった。来るものは拒まず。去るものは追わない。
でも、それだけじゃなかった。
「でも、これだけは言わせてほしい。俺にとって、ミサキは一番最初だ。図書館の帰りに、銀杏の下で告白したあの日から、それはずっと変わらない。これからも、変わらない」
ミサキが、ゆっくりと顔を上げた。
目が、赤くなっていた。でも、泣いてはいなかった。
「……ずるいよ」
かすれた声だった。
「告白したときと、同じこと言ってる」
◇
ミサキは、長いあいだ黙っていた。
それから、静かに立ち上がった。
「今日は、帰る」
「……送るよ」
「いい。一人で考えたいから」
ミサキは、コートを羽織り、鞄を持って、玄関へ向かった。
俺は、追いかけなかった。
去るものは追わない。それが、俺の決めたルールだ。
ドアノブに手をかけたところで、ミサキが立ち止まった。
振り返らずに、言った。
「ケーキ」
「え?」
「ケーキ、明日もらいに来るから」
ミサキは、ゆっくりとこちらを振り返った。
目は赤いまま。でも、口元が、ほんの少しだけ笑っていた。
「勝手に食べたら、許さないからね」
ドアが、静かに閉まった。
廊下を遠ざかっていくヒールの音が、エレベーターの扉の音で途切れた。
◇
一人になったリビングで、俺は冷めかけたローストビーフを見つめていた。
テーブルの上には、二人分の皿が並んだままだった。
冷蔵庫を開ける。白い箱の中で、ショートケーキが二つ、行儀よく並んでいた。
――明日、もらいに来るから。
去ったわけじゃない。考える時間が欲しいだけだ。
ミサキはそう言ってくれたのだと、分かった。
二十八階の窓の外には、いつもと同じ東京の夜景が広がっていた。
一周目の俺は、大事なことを言わずに、何も失わず、何も手に入れなかった。
二周目の俺は、全部言った。その結果、失うかもしれない。
それでも、言わずに後悔するよりは、ずっとよかった。
「……去るものは、追わない」
窓ガラスに映る自分に向かって、つぶやいた。
「でも、待つのは自由だ」
俺は冷蔵庫の扉を閉めて、ケーキの箱には、指一本触れなかった。
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