第17話 黒田の誘い
十二月。
黒田に呼ばれて、ネクストリームの本社を訪ねた。
都心の新しい高層ビルの上層階。エレベーターを降りると、受付には若い女性が二人並び、壁一面に会社のロゴが光っていた。廊下ですれ違う社員は、みんな二十代に見えた。
社長室は、全面ガラス張りだった。
眼下に、東京の街がジオラマのように広がっている。机の上には、パソコンのモニターが四台。壁には、黒田が有名人と握手している写真が何枚も飾られていた。
「いい眺めだろ」
黒田は、窓の前で両手を広げてみせた。
「三年前は、雑居ビルの一室だった。それが今じゃ、ここだ。来年には、もっと上の階も借りる」
「すごいですね」
「すごいだろ」
黒田は、満足そうにソファに腰を下ろした。
「で、本題だ」
黒田は、テーブルの上に一枚の書類を滑らせた。
「うちの会社の、新しい株を引き受けてほしい。百億円分だ」
◇
百億円。
俺の今の資産の、ほぼ全部だ。
「信用して組むなら、米国の投資ファンドより、佐伯くんのほうがいい。若い者同士、日本の古い連中をひっくり返してやろうぜ」
黒田は、身を乗り出した。
「来年、うちはでかい買収を仕掛ける。それが決まれば、会社の価値は三倍になる。百億が、三百億だ」
俺は書類を手に取った。
数字が並んでいる。売上の伸び。利益の推移。買収の計画。
どれも、立派に見える。
でも、レイコさんに鍛えられた目で見ると、どこかがおかしかった。本業の儲けに比べて、利益が大きすぎる。どこから出てきた利益なのか、書類のどこにも説明がない。
カオルさんの言葉を思い出した。
――会社の数字の作り方が、少し強引だって。
俺は、書類をテーブルに戻した。
「お断りします」
黒田の眉が、ぴくりと動いた。
「……理由は?」
「自分で中身が説明できないものには、投資しないことにしてるんです」
「中身なら、今説明しただろう」
「黒田さんの説明は、聞きました。でも、俺が自分の言葉で説明できない。だから、入れません」
社長室に、しばらく沈黙が落ちた。
黒田は、それから声を出して笑った。
「真面目だなあ、佐伯くんは。まあいい。後悔するぞ。来年、この会社の価値は三倍になる」
――それは、知ってる。
心の中で、俺は答えた。
――そのあと、どうなるかも。
◇
オフィスに戻ると、レイコさんが待っていた。
「どうでしたか」
「百億の出資を頼まれた。断った」
「賢明です」
レイコさんは、即答した。それから、少しだけ首をかしげた。
「でも、佐伯さん。ネクストリームの株、最近少しずつ買っていますよね」
「……気づいてた?」
「私が気づかないとでも?」
俺は苦笑した。
出資はしない。会社の中に金を入れて、一緒に沈むつもりはない。
でも、市場で株を買うのは別だ。黒田が作り出す熱狂に乗って、値上がりした分だけ稼ぐ。そして、崩れる前に、全部売る。
「売る日は、もう決めてある」
「その日は、私にも教えてもらえますか」
「時期が来たら、必ず」
レイコさんは、しばらく俺の顔を見ていた。
「分かりました。それまでは、聞きません」
俺は、社長室で黒田に見せられた書類の内容を、覚えている限り話した。売上、利益、来年の買収計画。
レイコさんは、話を聞きながら、ホワイトボードに数字を書き出していった。
「売上が一・五倍。なのに、利益が三倍。差の分は、どこから来ているのか」
ペンの先で、ホワイトボードを叩く。
「株式を売った利益を、本業の利益のように見せている可能性があります。もしそうなら、法律に触れるかもしれません」
「……そこまで分かるのか」
「推測です。証拠はありません。でも、数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、数字の並べ方です」
レイコさんは、ホワイトボードの数字を消さずに、ペンを置いた。
「黒田社長は、佐伯さんのお金だけでなく、佐伯さんの名前も欲しかったのかもしれません。若くて、成功している投資家が出資した。それだけで、会社の信用は上がりますから」
「名前を貸さなくて、正解だったな」
「はい。それだけは、自信を持って言えます」
◇
その夜、俺は名刺の裏の番号に電話をかけた。
『……はい』
「佐伯です。月白で、名刺をいただいた」
電話の向こうで、小さく笑う気配がした。
『思ったより、早かったわね』
◇
カオルさんが指定したのは、店ではなかった。
銀座の外れの、小さな小料理屋。カウンターが六席だけの、古い店だった。白木のカウンターの向こうで、無口な大将が黙々と魚をさばいている。
着物ではなく、黒いニットにパンツ姿のカオルさんは、店で見るより少しだけ若く見えた。
「ここは、私の隠れ家。店のお客さんは、誰も知らないの」
燗酒を一合ずつ頼んで、大将が出してくれた白子の焼き物をつつきながら、俺は黒田に出資を頼まれた話をした。
カオルさんは、黙って聞いていた。
「断って、正解よ」
カオルさんは、猪口を置いて言った。
「この一か月で、黒田さんの名前が三回出たの。全部、違うお客さんから。お金の流れがおかしい。あそこの会社には、気をつけた方がいいって」
「三回、ですか」
「噂は噂よ。でも、同じ噂を三人から聞いたら、それはもう噂じゃない」
カオルさんの目は、真剣だった。
それから、ふっと表情を緩めた。
「私ね、北のほうの小さな町の出身なの。十八で東京に出てきて、ずっと夜の仕事。誰にも頼らずに、自分の力だけで銀座に店を持った」
「すごいですね」
「すごくなんかないわ。必死だっただけ」
カオルさんは、窓の外の暗い路地を見た。
「そういう生き方をしてるとね、男の人の目を見れば、だいたい分かるようになるの。この人は嘘をついてる。この人はお金しか見てない。この人は、何も分かってない」
カオルさんは、俺の方に向き直った。
「あなたは、何かを知っている男の目をしてる。まるで、先のことが見えているみたいな」
心臓が、どきりと鳴った。
「そういう男に、私、弱いの」
カオルさんは、そう言って、少しだけ照れたように笑った。
「男の人に、何かを期待したことは一度もないの。でもね、あなたがこの先、何をするのか。一番近くで見てみたい」
――来るもの、拒まず。
俺は、カオルさんの猪口に、燗酒を注いだ。
◇
小料理屋を出ると、銀座の路地には冷たい風が吹いていた。
カオルさんは、マフラーに顎を埋めて、ネオンの消えかけた通りを見上げた。
「この街のネオン、毎年少しずつ減ってるの。景気が悪いから」
「来年あたりから、また増えますよ」
「あら、どうして分かるの」
「なんとなく」
カオルさんは、くすくすと笑った。
「やっぱり、何か知ってる人の言い方ね」
それから、ためらうように俺の腕に手を添えた。
「もう少しだけ、歩きましょうか」
◇
翌朝。
カーテンの隙間から、冬の白い光が差し込んでいた。
窓の外で、どこかの鳥が鳴いていた。
現在資産:11,800,000,000円
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