第16話 銀座の夜
十月。
黒田から電話がかかってきたのは、パーティーから四か月が過ぎたころだった。
『佐伯くん、約束の飯だ。今夜、空いてるか』
「急ですね」
『俺はいつも急なんだ。八時に迎えに行く』
電話を切ると、レイコさんがこっちを見ていた。
「黒田社長ですか」
「飯に誘われた。今夜」
「行くんですか」
「行くよ。敵の陣地は、一度見ておきたい」
レイコさんは、少しだけ眉をひそめた。
「敵、ですか。黒田社長は、佐伯さんにとって」
「……今はまだ、違う。でも、そうなる気がする」
レイコさんは、自分の机の引き出しから、小さなメモ帳を取り出して俺に渡した。
「黒田社長が会社の数字について何か言ったら、できるだけそのまま書き留めてきてください。言葉の選び方で、分かることもありますので」
「スパイみたいだな」
「調査です」
レイコさんはそう言って、パソコンの画面に目を戻した。
それから、画面を見たまま、小さな声で付け加えた。
「……それと、飲みすぎないでくださいね」
本当に、八時ちょうどに、オフィスのビルの前に黒い外車が停まった。
後部座席には、黒田が足を組んで座っていた。今夜もTシャツにジャケット。手首には、俺がこの前買ったものより、ずっと高い時計が光っていた。
「乗れよ。いい店に連れてってやる」
◇
車は、銀座に向かった。
並木通りから一本入った細い路地。古いビルの地下へ続く階段の前で、黒田は車を降りた。
階段の脇に、小さな行灯がともっている。
『月白』
それが、店の名前だった。
「ここはな、政治家も、大企業の会長も来る店だ」
階段を降りながら、黒田は得意げに言った。
「普通の客は入れない。紹介がないとな。俺も、去年やっと常連になった」
扉を開けると、外の喧騒が嘘のような静けさだった。
落ち着いた照明。磨き込まれたカウンター。奥のボックス席では、いかにも偉そうな年配の男たちが、低い声で何かを話している。
黒服に案内されて、俺たちは奥の席に座った。
◇
「いらっしゃいませ、黒田さん」
その声を聞いた瞬間、店の空気が少しだけ変わった気がした。
着物姿の女性が、静かに席に近づいてきた。
三十代の前半だろうか。深い藍色の着物に、白い帯。結い上げた黒髪。目元にほんの少しだけ紅を差している。派手さはない。でも、店にいる誰よりも目を引いた。
「ママのカオルさんだ。カオルさん、こいつが佐伯くん。今、一番勢いのある若手投資家だ」
「まあ。はじめまして、白石カオルです」
カオルさんは、品のいい笑顔で頭を下げた。
それから、黒田の隣ではなく、俺の隣に腰を下ろした。
黒田は気にしたふうもなく、上機嫌で自分の会社の話を始めた。来年の売上目標。新しく買収する予定の会社。テレビ局の誰それと飲んだ話。
カオルさんは、相づちを打ちながら、さりげなく俺のグラスに目をやった。
「佐伯さん、お飲み物は」
「あ、俺はいいんで、カオルさんのを先に」
それから、黒服に向かって、つい口が動いた。
「ママの水割り、少し薄めで」
言ってから、しまった、と思った。
一周目の俺は、接待で何度もこういう店に連れていかれた。客の機嫌を取るのが仕事だった。店の女性が飲みすぎないように、さりげなく薄い酒を頼む。それも、上司に叩き込まれた作法の一つだった。
カオルさんの手が、ほんの一瞬止まった。
「……あら」
カオルさんは、俺の顔をじっと見た。
「その年で、私に気を遣って水割りを薄くして、なんて注文する人、初めて見たわ」
「いや、その……父が、そういう人だったんです」
嘘だった。父は、銀座のクラブなんて行ったこともない。
「そう」
カオルさんは、それ以上は聞かなかった。
でも、その目が、面白いものを見つけた子どものように、きらりと光った。
「あなた、二十六の飲み方じゃないわね」
◇
途中、黒田の携帯が鳴った。
「悪い、会社からだ。ちょっと外す」
黒田が席を立つと、ボックス席には、俺とカオルさんの二人だけになった。
カオルさんは、グラスの縁を指でなぞりながら、静かに言った。
「黒田さんとは、仲がいいの?」
「今日が二回目です」
「そう。なら、少しだけ」
カオルさんは、声を落とした。
「黒田さんのこと、あまり良く言う人もいるのよ。お客さんの中には」
「……あまり、良く?」
「ええ。会社の数字の作り方が、少し強引だって。お金の出どころが分かりにくいって」
カオルさんは、奥のボックス席にちらりと目をやった。年配の男たちが、まだ低い声で話し込んでいる。
「ここにはね、いろんな人が来るの。政治家、官僚、大企業の役員。みんな、お酒が入ると、少しだけ口が軽くなる」
俺は、改めて店の中を見回した。
この店は、ただの高級クラブじゃない。この国の、表に出ない噂が集まる場所だ。
「どうして、俺にそんな話を?」
「どうしてかしらね」
カオルさんは、微笑んだ。
「あなたは、黒田さんの話を、半分も聞いていなかったでしょう。あの人が数字の話をするたびに、ほんの少しだけ目が冷たくなってた。何かを知っている人の目」
背中に、ひやりとしたものが走った。
この人は、人の顔色で相場を読む。
「銀座ではね、お金より噂のほうが早く動くの。覚えておいて」
◇
黒田が戻ってきて、その夜はそれから二時間ほど飲んだ。
黒田は最後まで上機嫌だった。会計は、全部黒田が持った。
「また来ような、佐伯くん。次は、うちの会社の話をちゃんとさせてくれ」
階段を上がる途中、カオルさんが見送りに来た。
黒田が先に車に乗り込んだのを見計らって、カオルさんは俺に名刺を差し出した。
店の名前と、白石カオルという名前。
裏を返すと、ボールペンで電話番号が書いてあった。店のものとは違う番号だった。
「今度は、お一人でいらして」
カオルさんは、それだけ言って、階段の下へ戻っていった。
藍色の着物の背中が、行灯の光の中に消えていく。
車の中で、黒田がまた何か喋っていた。俺は、ほとんど聞いていなかった。
ポケットの中の名刺を、指先でそっと確かめていた。
◇
翌朝、レイコさんにメモ帳を返した。
黒田が話していたことを、思い出せるかぎり書き留めてあった。来年の買収計画。「株式分割で、もっと個人投資家を呼び込む」という言葉。「利益なんて、作ろうと思えばいくらでも作れる」という、冗談めかした一言。
レイコさんは、最後の一行で手を止めた。
「……利益は、作ろうと思えばいくらでも作れる」
「冗談っぽく言ってたけどな」
「冗談で言うことではありません」
レイコさんは、メモ帳を閉じて、ネクストリームの決算書の上に置いた。
「佐伯さん。この会社の株を持つなら、売る日を絶対に間違えないでください」
「間違えないよ」
「なぜ、そこまで言い切れるんですか」
俺は少し考えて、答えた。
「銀座で、いい情報源を見つけたから」
レイコさんは、じっと俺を見た。
「……情報源、ですか」
その声が、ほんの少しだけ、いつもより低い気がした。
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