第9話: 手の届かない一着
膠の匂いがした。
木と古い鉄と、それに混じった膠の煮詰めたような匂い。ミラの工房には縫う者の匂いしか流れないはずなのに、その朝の戸口に立った男は、外の仕事場の匂いを丸ごと連れて入ってきた。
「……ここで、いいのかね」
低い声が、申し訳なさそうに途切れた。
男はすぐには中へ入ってこなかった。
戸の框に手をかけたまま、工房のなかをぐるりと見回している。壁の布見本。作業台に並んだ待ち針。窓際のこて。立派な品ではない。けれど男は、場違いなところへ迷い込んでしまったという顔をしていた。
白髪まじりの短髪をきれいに刈り込んでいる。痩せて筋張った体に、繕いの跡だらけの仕事着。袖口に何度も継ぎを当てた跡があった。新しい布で当てた継ぎではない。古い布を少しずつ足して丁寧に縫い留めてある。針を持つ手の仕事ではなかった。
ミラの目はその手に行った。
節くれだった分厚い手。指の関節が太く、爪の間に木の粉が黒く染みついている。掌に古い木屑のまめ。
「車大工さん、ですね」
ミラが言うと、男はわずかに目を見開いた。
「……わかるのかね」
「手に、書いてあります」
ミラは丸椅子を勧めた。
「お掛けください。——あの、立派なところじゃなくて、すみません。あたしのは、こんな工房なんで」
「いや」
男は首を振って、おずおずと丸椅子の端に腰を下ろした。背がわずかに丸い。長年かがんで荷車を直してきた背だった。
「わしのほうこそ……こんな、立派な仕立て屋に。場違いで、すまんね」
膝の上で、分厚い手が固く組まれていた。
「トビアス、という。下町で、荷車を直しとる」
トビアスはしばらく、何も言わなかった。
言いたいことがあって来たのは見ればわかる。けれど、それを口に出す段になると言葉がのどの奥でつかえてしまうらしい。組んだ手を一度ほどき、また組む。ミラは急かさなかった。糸の撚りを確かめる手つきで巻尺の端を弄びながら、ただ待った。
布の手触りを読むときと同じだった。急いで引っ張れば布の目はわからない。ゆっくり指を当てて、布が話しはじめるのを待つ。人もたぶん、似たようなものだ。
「……娘がな」
ようやく、トビアスが口を開いた。
「娘が、嫁ぐんだ。遠くへ」
組んだ手に力がこもった。
「ずっと遠くの、海沿いの町でな。馬車で、何日もかかる。……一度行ったら、もう、滅多には帰ってこられん」
「そうですか」
「妻を、早くに亡くしてな。女手なしで、わし一人で育てた。不器用な親で、ろくなものも着せてやれんかった。継ぎの当たった服ばかり、着せて」
トビアスの目が、自分の継ぎだらけの袖口に落ちた。
「……それでも、まっすぐ育ってくれた。あんな、いい娘に」
誇らしさと、それから別の何かが語尾に滲んでいた。ミラには、その別の何かが何なのかわからなかった。布の話なら、滲みの正体まで読めるのに。
「それで」
トビアスが顔を上げた。
「一度でいい。あの娘に、ちゃんとした一着を、着せてやりたくてな。継ぎの当たってない、誂えの一着を。……嫁ぐ日に」
言ってしまってから、トビアスは慌てたように付け足した。
「いや。無理は、承知でな。誂えが高いのは、わかっとる。わしの車を何十台直したって、届かん値だ。それは、わかっとるんだ」
彼は仕事着の懐から、小さな布袋を取り出した。
卓の上にそっと置く。中で鈍い音がした。銀貨の音だった。金貨ではない。銀貨の、それも数えるほどの。
「これが、わしの……ありったけだ」
トビアスの分厚い手が、その布袋の上に乗ったまま動かなかった。
「足りんのは、わかっとる。足りんぶんは、車を直して、後から払う。何年でも、かけて。だから……」
声がかすれた。
「だから、頼めんだろうか。あの娘の、一着を」
ミラはその布袋を見ていた。
中身の銀貨は見なくてもわかる。音でおおよその枚数がわかる。誂えの礼装には、まるで届かない。誂え——一人のために一から測って縫う一着は、布代と手間を合わせて金貨で何枚もする。庶民が一生のうちに一度、手にできるかどうかの値だ。後から車を何十台直してもたぶん届かない。
それは、布袋の上で固まったまま動かない手を見ればわかった。恥をかきに来たわけではない。けれど、恥をかく覚悟だけはして来た——指の止まり方が、そう言っていた。
ミラは慰めなかった。
可哀想にとも言わなかった。なんとかしてあげますとも言わなかった。世辞が言えないのと同じことだ。こういうとき人が何を言ってほしいのか、ミラにはわからなかった。
ただ、ミラにはひとつだけ気になっていることがあった。
「トビアスさん」
「……ああ」
「娘さんは、いま、どこに?」
トビアスが戸口を振り返った。
「外に。気後れして、入れんと言うので」
「呼んでもらえますか」
ミラは首の巻尺をするりと外した。
「あたし、お針子なんで。お客さんの体を見ないと何も始められないんです。——値段の話は、その後で」
ネリは父より小柄な娘だった。
父に似て痩せている。けれど父の手が荷車を直す手なら、娘の指は針を持つ手だった。父の袖口の継ぎを丁寧に縫い留めてきたのは、この指だろう。控えめに工房へ入ってきて、ぺこりと頭を下げる。緊張で肩が少し上がっていた。
「ネリ、といいます。……あの、父が、ご無理を」
「いいんです。立ってもらえますか。腕、横に少しだけ」
ミラはネリの後ろへ回った。
巻尺を肩の線にあてた瞬間、いつものように頭のなかの言葉がすうっと後ろへ退いた。残るのは布と体のことだけだ。世辞も値段の話も、トビアスの組んだ手の重さも、布の向こうへ遠のいていく。
肩から背へ。背から腰へ。巻尺がネリの体をなぞっていく。
——肩、薄い。
ミラの指が、布越しに体を読む。
「……右肩が、ほんの少し前に出てる」
半分ひとりごとの早口が、こぼれはじめた。
「いつも何かを抱える人の肩だ。重いものじゃない。軽いものをずっと胸の前で。……ああ、針仕事か。布を抱えて、かがんで縫う癖。長年やってきた手だ、これ」
巻尺が腕へ滑る。
「指、見せて。——うん、針の胼胝。あたしのと同じところにある。利き手のここ。この子はずっと縫ってきたんだ。お父さんの服を、ずっと」
ミラの指がネリの掌をそっと開かせた。針を持つ者にしかできない、硬い場所のたしかめ方だった。
「……それで、嫁ぐんだ」
ぽつりとそれが出た。
「この手で、遠くで、また誰かのために縫うんだ。お父さんの、ここにいない服を」
工房が静かになった。
ミラはふと我に返った。
巻尺を握ったまま、ネリの掌を開かせたまま、自分が何を口走ったのか半拍遅れて気づく。トビアスを見た。トビアスは、組んだ手を膝の上に置いたまま、じっと床を見ていた。肩がわずかに上下している。
「……あ。すみません」
ミラは慌てて巻尺を引いた。
「あたし、採寸に夢中になると、つい。余計なことまで、口に出してしまって。……いつもの、悪い癖です」
「いや」
トビアスが首を振った。顔は上げなかった。
「いや。……あんたの言うとおりだ」
彼の声は、低く掠れていた。
「あの子は、ずっと、わしの服を縫ってきた。この継ぎも、ぜんぶあの子の手だ。……それで、嫁いで。遠くで、また誰かの服を縫う」
トビアスはそれきり黙った。
言いたいことが、まだあるようだった。のどの奥でそれが何度もつかえている。けれど彼は、それを口にしなかった。組んだ手に力をこめて、ただ飲み込んだ。
ミラにはその飲み込まれたものが、何なのかわからなかった。布の話なら、わかるのに。
ミラは採寸の数を木札に刻んでいった。
肩幅。背丈。腕の振り。胴の細さ。ネリの体は若くまっすぐで、けれどどこか、慎ましく身を縮める癖がついていた。父の前ではけして口にしない遠慮が、肩の据わりに出ている。ミラは、それも数に混ぜて記した。
木札を並べ終えると、ミラは顔を上げた。
「トビアスさん。値段の話を、します」
トビアスの肩がこわばった。布袋の上に、また手が乗る。返事は、なかった。
「あたしのところは、誂えしかやってないんです」
ミラはまっすぐに言った。
「みんなに合うように作る既製の服は、うちにはありません。あたしは、その人一人のために一から測って縫う一着しか作らないんで。——だから高いんです。トビアスさんの言うとおり、金貨で何枚もします」
トビアスの目がわずかに沈んだ。来る前から知っていた答えを、もう一度突きつけられた顔だった。彼は銀貨の布袋を握りしめた。
「……そうか。やはり、わしには」
「最後まで、聞いてください」
ミラは布袋を見た。それからネリを見た。針の胼胝のある、父に似た手を。
「あたし、もうネリさんを測っちゃったんです」
「……は?」
「測ったんですよ。肩も背も、手の癖も、ぜんぶ」
ミラは自分の頭を指でこつんと叩いた。
「ここに、もう、ネリさんのための一着が組み上がってるんです。どの布をどこにどう落とすか。——測っちゃったら、もう止まらないんです。あたし、その人のための最高の一着が見えちゃったら、作らずにいられない。そういう面倒な性分なんで」
ミラはため息をひとつついた。困ったような、けれどどこか嬉しそうなため息だった。
「だから、作ります。ネリさんの一着。——これは、値引きでも施しでもありません。あたしが作りたいから作るんです。職人の、わがままです」
「だが」
トビアスが身を乗り出した。
「だが、値が。わしには、その値が」
「払える分だけ、もらいます」
ミラは布袋を指で示した。
「その銀貨。それでいいです。足りないぶんは……まあ、あたしが珍しい布で遊ぶための持ち出しってことに。あたし、布で遊ぶの好きなんで」
「そんな。それでは、あんたが——」
「トビアスさん」
ミラはトビアスの言葉を、静かに遮った。
「あたしは、人助けをしてるわけじゃないんです。可哀想だからまけてるんじゃない。——ネリさんの体が、いい体だったんです。組みたくなる体。それだけです」
ミラは木札の一枚を指でなぞった。
「車大工さんなら、わかるでしょう。いい木を見たら放っておけないでしょう。これは、こう削ったらいちばん生きる、って手が勝手に動くでしょう。——あれと同じです」
トビアスはミラを見た。
節くれだった分厚い手が、膝の上でゆっくりとほどけていく。木と膠の匂いをまとった車大工の手。荷車の良し悪しを撫でただけで見分ける手。その手が、ミラの言葉の意味をたしかに受け取っていた。
「……いい、木か」
「いい木です」
トビアスの目尻に、深い皺が寄った。笑ったような、泣くのを堪えたような、その両方の皺だった。
「……そうか。あんたには、そう、見えるか」
「見えます」
ミラはこくりと頷いた。
「だから、作らせてください。ネリさんの、一着」
トビアスはしばらく何も言わなかった。
それから、膠の染みた分厚い手を一度だけ、深く深く、頭の上まで下げた。職人が職人に頭を下げる下げ方だった。値引きへの礼ではなかった。
布を選ぶのに、ミラは三日かけた。
遠くへ嫁ぐ娘の一着だ。門出を晴れがましく飾る礼服とは違う。華やかな絹も金糸の刺繍も、ミラの頭には浮かばなかった。代わりに浮かんだのは、もっと違う言葉だった。
——遠くで長く、寄り添う服。
布蔵の棚からミラが引き抜いてきたのは、淡い若葉色の、目方のしっかりした布だった。指で挟むと、しなやかに、けれど芯の通った張りがある。
「これにします」
ミラはトビアスとネリを工房に呼んで、布を広げて見せた。
「華やかな布じゃないんです。すみません。式の日だけなら、もっときれいな絹も組めました。でも——」
ミラは布の縁を指でなぞった。
「この布、丈夫なんです。何度も洗っても目が崩れない。色もすぐには褪せない。海沿いの町って、潮風が強いでしょう。普通の布は潮にやられてすぐ傷むんです。でもこれは、目を詰めて織ってあるから、潮風にも長く耐える」
ミラは布をネリの肩にあてがった。
「華やかな一着は、式の日に一度きれいで、それで終わりなんです。でも、これは——式の日も、その次の日も、その次の年も着られる。何年もネリさんの体に馴染んで、いっしょに歳をとっていく布です」
ネリが布に手を触れた。
「ずっと、着られる……?」
「ずっと、着られます」
ミラは頷いた。
「それから、もう一つ。仕立てを、少し変わったやり方にします」
ミラはネリの後ろへ回って、背の縫い目になる場所を指で示した。
「縫い代——布を縫い合わせたときに内側へ残る縫いしろのことなんですけど。普通はぎりぎりまで切り詰めるんです。すっきり仕上がるから。でも、ネリさんのは、わざと多めに残します」
「多めに……?」
「歳をとると、体って、少しずつ変わるんです」
ミラは自分の腰のあたりに手を当てて見せた。
「肩も腰も、若いうちとは変わる。子を産めばまた変わる。そのとき縫い代を多めに残しておけば、自分で少しずつ布を出して直せるんです。きつくなったら、縫い目をほどけば隠してあったぶんが出てくる。——そうやって何年も、自分の手で体に合わせ続けられる」
ミラはネリの針の胼胝のある手を見た。
「ネリさん、針が持てるでしょう。だから、できるんです。あたしじゃなくても、ネリさん自身がこの一着をずっと直していける。あたしの手が遠くまで届かなくても、ネリさんの手がこの一着をずっと面倒みていける」
ネリが、布を抱えたままミラを見ていた。
それからゆっくりと、その布に頬を寄せた。
仕立てに、五日かかった。
ミラはほとんど休まずに針を握った。淡い若葉色の布にくせ取りをかける。布をこてと手で曲げて、ネリの肩のわずかな前傾に沿わせる。隠すのではない。その体のまま、まっすぐ立てる線を組む。縫い代を多めに残す。何年も先の、ネリの体のために。
仕上がったのは、嫁ぐ前の日の朝だった。
ミラはその一着をネリに着せて、姿見の前に立たせた。
淡い若葉色の、飾りの少ない一着。けれど、ネリの薄い肩はもう縮こまっていなかった。布が、その肩をまっすぐに支えている。慎ましく身を縮める癖を、ミラは布で受け止めて伸ばしてやっていた。きらびやかではない。けれど、その娘が、その娘のまま、まっすぐに立っていた。
ネリは鏡のなかの自分を長いこと見ていた。
「……わたし」
ネリの声が震えた。
「わたし、こんな……ちゃんとした服、初めて」
「ちゃんとしてますよ」
ミラは襟の収まりを指で一度だけ確かめて、手を離した。
「ネリさんの体に、ぴったりです。ネリさんのためだけに測った一着なんで」
ネリの目から、ひとつぶこぼれた。
慌てて袖で拭おうとして、けれど新しい布を汚すのを恐れて手が止まる。ミラは、自分の袖でそっとそれを拭いてやった。
「いいんです。布は、洗えますから」
ネリが、小さく笑った。涙の混じった笑いだった。
トビアスは工房の戸口に立って、それを見ていた。
入ってこなかった。框に手をかけたまま、鏡のなかの娘をじっと見ている。
淡い若葉色の一着を着た娘。まっすぐに立った、その肩。継ぎの当たった服しか着せてやれなかった娘が、生まれて初めて自分のためだけに測られた一着を着て、立っている。
トビアスは何も言わなかった。
言葉が、のどの奥で何度もつかえていた。ミラにはその横顔しか見えなかった。けれど、框にかけた分厚い手がわずかに震えているのは見えた。爪の間に木の粉の染みた、荷車を直してきたその手が。
「……トビアスさん」
ミラが声をかけると、トビアスははっとしたように目を拭った。
「……ああ」
彼はゆっくりと工房へ入ってきた。鏡の前の娘の、すぐ後ろまで。けれど、それ以上は近づけないように、そこで足を止めた。
鏡のなかで、父と娘の目が合った。
「ネリ」
トビアスが、低く言った。
「……きれいだ」
それだけだった。
言いたいことが、まだあるようだった。のどの奥で、それがずっとつかえていた。行かないでくれ、と。遠くへ行くな、と。ここにいてくれ、と。——けれどトビアスは、それを言わなかった。
言えば、娘の門出を縛ってしまう。
親の務めは、子の行く先を祝うことだ。引き留めることじゃない。彼は、それを自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返した。
「……きれいだ。ネリ」
言いたいことのぜんぶを飲み込んだ、たった一言だった。
ネリが、鏡の向こうの父に頷いた。娘も何かを言いかけて、けれど言わなかった。父が言わないものを、娘も言わなかった。父と娘は、言わないことで、たぶん同じものを分け合っていた。
ミラはその二人を見ていた。
布のことなら、わかる。けれど、二人の間に流れているものが何なのか、ミラにはわからなかった。ただ、わかることがひとつだけあった。あの一着は、ネリの体にぴったり合っている。それだけは、たしかだった。
帰りぎわ、トビアスは一人、工房に残った。
ネリは嫁ぐ支度のために、先に戻っていた。トビアスは、銀貨の布袋を卓に置いて、それから、しばらく立ったままでいた。
「……お針子さん」
彼が、ようやく口を開いた。
「あんたは、いい仕事をしてくれた。値の話じゃない。——あれは、いい一着だ。手でわかる。わしは車しか作れんが、いいものは手でわかる」
「ありがとうございます」
ミラは、ぺこりと頭を下げた。
「車大工さんに、いい仕事だって言ってもらえると嬉しいです。職人さんの目は、ごまかせないんで」
「縫い代を、多く残したと言っとったな」
「はい。ネリさんが、自分で直していけるように」
トビアスは頷いた。それから、ふと何かを堪えるように、深く息を吐いた。
「……あれは、いいな」
彼の声が、低くかすれた。
「あの子が自分の手で、あの一着をずっと直していける。きつくなったら、布を出して。歳をとっても、自分で自分の体に合わせ続けられる。——わしの手が届かんとこでも」
トビアスは、自分の分厚い手をじっと見た。
「わしの手は、もう、あの子のとこまでは届かん。だが、あの一着はずっと、あの子のそばにおる。あの子の体に馴染んで。いっしょに歳をとって」
彼の目が、戸口のほうへ向いた。先に帰った娘の、もういない戸口へ。
「……これを着て、あれは、行っちまうんだなあ」
ぽつりと、それがこぼれた。
誇らしさと別の何かが、同じだけ滲んだ声だった。ミラには、その別の何かがやっぱりわからなかった。けれど、わからないまま、ミラはそれを聞いていた。
トビアスはそれきり、何も言わなかった。
深く頭を下げて、工房を出ていった。木と膠の匂いを、また丸ごと連れて。框を出るとき、その背は来たときよりも少しだけ丸く見えた。けれど、足取りはしっかりしていた。娘を送り出す、父の足だった。
戸が静かに閉まった。
ミラは卓の上の銀貨の布袋を、しばらく見ていた。
誂えの礼装には、まるで届かない値。けれど、ミラはそれを巾着の引き出しにしまった。足りないぶんのことは、もう考えなかった。布で遊ぶための持ち出しだ。それでいい。
ミラは自分の手元を見た。
針と鋏の胼胝のある、その指を。ネリの掌にあった胼胝と同じところにある胼胝。あの娘も、これと同じ手で、遠くでまた誰かの服を縫うのだろう。父の、もうそこにいない服を。
あたしは、いい仕立てをした、とミラは思う。
職人が思っていいのは、それくらいのことだ。立つのはネリの足だ。送り出すのはトビアスの務めだ。ミラは、ただ布を組んだだけだった。慰めもしなかった。励ましもしなかった。父の悲しみを解いてやることも、できなかった。
ただ、遠くで長くその体に寄り添う一着を、組んだだけだ。
「……達者で、行けたらいいなあ」
ミラは、ぽつりと言った。
誰に言うともなく。それから、ふと自分の言葉に首をかしげた。あれと思う。布の話じゃないことを口にした。珍しいことだった。
窓の外で、荷車の軋む音が遠ざかっていった。木と鉄の、その音をミラはしばらく聞いていた。膠の匂いは、もう工房から消えかけていた。
代わりに、ミラの指の先が、またうずうずしてきた。
誰かの肩を、測りたい。誰かのために、最高の一着を縫いたい。——それしか、ミラにはできない。それだけが、ミラにできることだった。
次の客は、いつ来るだろう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第九話は、これまでとは少し色合いの違う、ほろ苦い別れの回でした。レウベンやガレスの回が「侮られた人が、一着で前を向く」勝利の物語だったとすれば、今回はその逆です。一着は、晴れがましく門出を飾る凱歌ではありません。遠くへ嫁ぐ娘を、送り出す父の手の温度——そういうものを、布の落ち方の中に畳み込みたくて書きました。
トビアスは、最後まで「行かないでくれ」と言いません。言ってしまえば、娘の幸せを縛ってしまうからです。だから彼は、のどの奥でそれを何度も飲み込んで、ただ「きれいだ」とだけ言う。そのたった一言に、言えなかったぜんぶが詰まっている。——言えないことが、この回の刃でした。父と娘は、言わないことで、同じものを分け合います。
そして、ミラはやっぱり、誰のことも慰めません。可哀想だから値引きをするのでもありません。彼女がネリの一着を作るのは、ただ「いい体を測ってしまったら、組まずにいられない」という職人のわがままです。施しではなく、業。そのストイックさが、結果として、どんな慰めよりも静かに二人に寄り添ってしまう。
ミラがこの一着に込めたのは、「華やかさ」ではなく「長く寄り添うこと」でした。潮風に耐える丈夫な布。縫い代を多く残して、ネリ自身が何年も自分の手で直していける仕立て。父の手が届かない遠くでも、その一着だけは、娘のそばに在り続ける。——「送り出す一着」とは、そういうものなのだと思います。
立つのは、いつだって本人の足。ミラは「布を組んだだけ」としか思っていません。それでも、最後にミラがぽつりとこぼした「達者で、行けたらいいなあ」。布の話じゃないことを口にした、その珍しさだけ、心に留めておいていただけたら嬉しいです。
トビアスとは、また、ずっと先で会えると思います。どうか気長に、お付き合いください。




