第7話: 測られた跡のない人
「上着、脱いでもらえますか」
巻尺を首から外しながら、ミラは言った。
夕方の工房に二人きりだった。窓の光が傾いて、作業台の埃を金色に浮かべている。シリルは戸口に立ったまま、めずらしく返事をしなかった。
「シリルさん?」
「……いや」
彼はいつもの薄い笑みを浮かべた。けれどその笑みがほんの少しだけ遅れて顔に乗った。
「私を、採寸するのか」
「約束したじゃないですか」
ミラは巻尺を両手で広げてみせた。
「シリルさんの上着、肩の返りが手抜きだって。組み直すってあたし言いました。初日に」
肩の返りというのは、肩から腕へ落ちる布の折り返しのことだ。
ここの組み方ひとつで腕の上がり方が変わる。シリルの礼装はそこが既製の型のまま無理に着せてあって、腕を上げると布がつっかえた。それをミラは初日に見抜いて組み直すと約束した。けれど衣装宮に来てからは、王の一着、騎士の一着、主計官の一着と続いた。自分の雇い主の上着まで手が回らずにいた。
ようやく、その日が来た。
「組み直すには、ちゃんと測り直さないとだめなんです」
ミラは作業台の前に丸椅子を引き寄せた。
「前のは既製の型に合わせて縫ってある。シリルさんの体に合わせるなら、シリルさんの肩を一から測らないと」
「……一から」
「はい。立ってもらえますか。そこ、光が入るので」
シリルは、すぐには動かなかった。
ミラは別に気にしなかった。客が採寸を渋ることはたまにある。体を触られるのを嫌がる人、寸法を知られたくない人。けれどミラにとってそれは布と体の話でしかない。促す言葉もいつもと同じだ。
「大丈夫ですよ。痛くないので」
「……痛くない、か」
シリルが小さく笑った。今度の笑いはいつもの余裕とは少し違って聞こえた。けれどミラの耳は、布鳴りや針の通る音には鋭くても、人の声の裏の揺れはたいてい拾い損ねる。
彼は濃紺の長上着を脱いで椅子の背にかけた。下のシャツ一枚になると、完璧な礼装に隠れていた体の線が出た。長身。細身。けれど姿勢だけはどこまでもまっすぐだ。
ミラの目が、その瞬間に変わった。
気怠げだった灰緑の瞳が、布と体を見るときのあの鋭さに切り替わる。
「……きれいな立ち方」
誰に言うともなく、口が動いた。
ミラはシリルの背中へ回った。
「少し、触れますね」
巻尺を肩の線へあてる。指先が布越しではなく直に肩の骨をなぞった。
とたんに、ミラは没入した。
周りがすうっと遠のく。窓も、傾いた光も、戸口の気配も、全部布の向こうへ退いていく。残るのは指の下の体だけだ。肩の骨。その据わり。左右の高さ。ミラの世界が、そこに縮こまる。
「……肩の据わりが、ほんとにまっすぐ」
巻尺が肩から肩甲骨へ滑る。
「左右の差が、ほとんどない。普通は誰でも利き腕の側がちょっと下がるんです。でもこの人、ほとんど狂ってない。子供のころから姿勢を崩さないように……ずっと見られてた体だ」
指が背骨をたどる。
「背中も反ってない。猫背でもない。お腹も出てない。立ち方の癖が、きれいに消してある。誰かにずうっと直されてきた立ち方。——所作を仕込まれた体」
ミラの指が、首の付け根で止まった。
「でも、肩の力が抜けてない。完璧に立ってるのに、どこかで気を張ってる。緩め方を知らない肩……」
そこまで読み上げて、ミラは木札に数を刻んだ。半分ひとりごとの、誰にも届かない早口だ。シリルの背中がその独り言にほんのわずかにこわばったことに、ミラは気づかなかった。
巻尺を、胸へ回す。
背中側から両手を前へ伸ばして胸の幅を測る。彼の体温が、巻尺越しに指へ伝わってきた。呼吸がひとつ、巻尺を押し上げる。
「……息、止めなくていいですよ」
「止めてない」
「止めてます。胸が硬い」
ミラは平然と言った。客の体の癖を読み上げるのはいつものことだ。悪気はない。ただ布と体に書いてあることを、口がそのまま読み上げる。
「採寸されるの、慣れてないんですね」
シリルは、答えなかった。
そのとき、戸口で物音がした。
見習いが一人、両手で抱えた包みを差し出している。
「ミラさん。布蔵に、入荷の荷が」
「あ、はい。あとで——」
「カルディアの絹、だそうです」
ミラの手が、止まった。
ぴたり、と。巻尺がシリルの胸の途中で宙に浮いたまま。
「……カルディアの」
ミラの首が、戸口のほうへゆっくりと回った。
「南の、海の向こうの。あの絹の?」
「は、はい。なんか、こう、すごい艶の——」
言い終わる前に、ミラは包みへ飛んでいた。
巻尺を放り出して。シリルを、椅子の前に立たせたまま。
「これ……っ、これだよ! ちょっと見て、この艶! 横糸の打ち込みがこっち向きに揃ってる。光が布の目に沿って流れるの、わかる? これ、こっちの工房じゃ絶対に出ない艶なんだよ。海を渡った先の、湿気の多い土地の織り方で——わ、端の耳がほつれてない。船で運んできて、これ。きれいに巻いたまま——」
ミラは包みを抱えて頬を寄せた。床にしゃがみこんで、絹の端を指でしごいている。打ち込みの密度を確かめ、目を細め、ほとんど絹と会話していた。
戸口の見習いが、困った顔でシリルを見た。
シリルは椅子の前にシャツ一枚で立ったまま、半分測りかけの胸に巻尺の端を垂らしていた。
その彼が、ふっと笑った。今度は心からの笑いだった。
「……採寸は」
ミラには、聞こえていない。
「ミラ。私の採寸は」
「ん、すごい……三日は触ってたい……」
しばらく、絹と布鳴りの音だけが続いた。
やがて、ミラの動きがぴたりと止まる。
絹を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げた。シャツ一枚で立っているシリルと、床に放り出された巻尺と、宙ぶらりんになった採寸とが、順番に目に入ってくる。
ミラの耳が、じわじわと熱くなった。
「……あ」
絹を抱えたまま、ぺこりと頭を下げる。
「……すみません。シリルさんの採寸、途中でした」
「途中だね」
「布があると、つい」
「知ってるよ」
シリルは、こらえきれないという顔で笑っていた。
ミラは赤くなった耳のまま、絹を作業台の隅にそうっと置いた。あとで触ろうと心に決めて。それから巻尺を拾い上げ、もう一度シリルの前に立った。
「……続き、させてください」
「どうぞ。逃げないよ、私は」
ミラは、また採寸の世界へ沈んでいった。
今度は、腕だった。
「腕、横に上げてもらえますか。肩の高さまで」
シリルが腕を上げる。ミラは肩から手首までを巻尺で測りながら、肩の付け根を指で押した。
「ここ。肩の返りが、つっかえる場所。——ああ、やっぱり」
指が、布のない肩の関節をなぞる。
「腕を上げると、肩のここが外へ逃げたがるんです。普通の型紙は、これを計算に入れない。だから既製の上着だと、ここで布がつっかえる。シリルさんが腕を上げるたび、肩で布が一回、引っかかってたはずです」
「……気づかなかったな」
「気づかないように、できてるんです。じわじわ窮屈なだけだから。でも体は覚えてます。だから、無意識に腕を上げるのを避けるようになる」
ミラは肩の関節を、ぐっと押した。
「組み直したら、ここがすうっと抜けます。腕が、もっと楽に上がる」
ミラの指は、もう完全に没入していた。
肩の据わり。腕の付け根。背中の反り。指で読むほどに、この体の全部が誰かの手で丁寧に整えられてきたことが伝わってくる。立ち方も、所作も、肩の角度も。一分の隙もない。仕立てのいい服がこれほど嘘なく似合う体は、めったにない。完璧な、着る人の体だ。
なのに——指の下のどこかが引っかかる。
ミラはその引っかかりを言葉にしようとして、しばらく宙を見た。何かが足りない。この完璧な体に、何かひとつ、あるべきものが欠けている。
巻尺を胸から肩へ、もう一度ゆっくり回す。指で、丁寧に。
そして——気づいた。
「……変なお体」
誰に言うともなく、ミラの口が動いた。
「仕立てのいい服しか、着てないのに」
指が、肩の据わりをなぞる。
「誰かに、ちゃんと測られた跡がない」
窓の光が、傾いたまま止まっていた。
「仕立て師って、一着作る前に必ず採寸するんです。肩を測って、胸を測って、その人だけの寸法を取る。何度も誂えてもらった人の体には、その跡が残るんですよ。ここはこう測られた、ここはこう取られたって……体のほうが覚えてるの」
ミラの指が、肩から首の付け根へ滑った。
「でもシリルさんの体には、それがない。こんなに仕立てのいい服を着てるのに。一着も……シリルさんのために一から測って縫われた服が、ない。みんな、出来合いを合わせてるだけ」
ミラは、首をかしげた。布の謎を解こうとする職人の顔だった。
「総監督なのに。衣装宮のいちばん上にいるのに。なんで誰も、シリルさんのための一着を——」
言葉が、そこで止まった。
ミラが止めたのではない。
手のなかの巻尺が、不意にぴんと張ったのだ。
シリルの体が、動いていた。
ミラは、顔を上げた。
シリルが、こちらを見ていた。
いつもの薄い笑みは、なかった。からかいの色も、余裕の構えも、半歩引いたあの食えない顔も、どこにもなかった。
ただ、見ていた。何か思いがけないものに正面から触れてしまった人の顔で。
その薄氷の瞳の奥が、初めて読めた。いつも笑っているのに奥が読めない、あの目だ。それが今、隠しきれずに何かを覗かせていた。痛みなのか驚きなのか、ミラには名前がつけられない。けれど確かに巻尺一本で、この人の何かが剥がれていた。
「……シリルさん?」
シリルは、答えなかった。
長い、長い沈黙だった。
こての炭火が、しゅう、と低く鳴る。その音だけが部屋にあった。
やがて、シリルが口を開いた。声がいつもの軽さを、必死で取り戻そうとしていた。
「……君は」
一度、言葉を切る。
「採寸ひとつで、そこまで言うのか」
「……はい?」
ミラは、きょとんとした。
「服しか見ていないと思っていたよ。私は」
シリルの声が、薄くかすれていた。それを隠すように、彼はゆっくりと息を吐いた。長い息だった。額に手をやる。彼が困ったときのいつもの仕草だ。けれど今は、困っているというより——
「……まいったな」
ほとんど、聞き取れないほどの声だった。
「巻尺一本で、人を裸にするのか。君は」
「裸って……シャツは着てますよ」
「そういう意味じゃない」
シリルが額に手を当てたまま、小さく笑った。けれどその笑いはいつものからかいとは似ても似つかなかった。乾いていて、震えていて、どこか、泣くのを我慢している人の笑い方に近かった。
ミラは、それを見ていた。
見ていたが——わからなかった。
自分が今、何かこの人のいちばん深い場所に針を入れてしまったらしいことは、なんとなく肌でわかる。場の空気が変わったことも。シリルの笑みがいつものと違うことも。
けれど、なぜなのかはわからなかった。
ミラは、人の心を読めない。布と体に書いてあることしか読めない。体には「測られた跡がない」と書いてあった。だから、そう言った。それがこの人にとって何を意味するのかは——体には、書いていなかった。
ミラは、巻尺をそっと下ろした。
「……あたし、また変なこと言いました?」
「いや」
シリルが、額から手を離した。
「変なことじゃない。——むしろ、誰も言わなかったことだ。今まで、誰一人」
彼は椅子の背にかけた長上着へ手を伸ばしかけて、その手を止めた。それからミラのほうを見た。今度はいつもの薄い笑みが、半分だけ戻っていた。けれど残りの半分は、まだ、さっきの素のままだった。
「君は、私の正体を初対面で言い当てた。覚えてるか」
「肩の据わりと、頭の下げ慣れてないので。はい」
「あのときも思ったよ。この子は、人が隠してるものを悪気なく引きずり出すって」
シリルは、長上着を手に取った。
「でも今のは——あれより、ずっと——」
言葉が、また途切れた。
彼は続きを言わなかった。代わりに、長上着を椅子の背に戻して、ミラのほうへもう一度、背中を向けた。
「……続けてくれ」
「え」
「採寸だ。途中だろう」
その声は、もういつもの軽さを取り戻していた。完璧に。さっきまでの素がまるで初めから無かったみたいに、余裕の鎧がまた、すっぽりと戻っていた。
けれど、その背中だけは。
さっきまで一分の隙もなくまっすぐだったその背中だけが、今はほんの少し、力を抜いていた。緩め方を知らないと、ミラがさっき読み上げた、あの肩が。
ミラは、採寸を続けた。
背丈、肩幅、袖丈、胸囲。木札に数を刻んでいく。さっきの妙な空気は、もうミラの頭からは抜けかけていた。一度布と体に沈むと、それ以外のことはするすると後ろへ流れていく。
ただ、ひとつだけ。
肩の付け根を測ったとき、ミラの指がふと止まった。
「……シリルさん」
「ん?」
「組み直す上着、せっかくだから、肩の返り以外も直していいですか」
「好きにしていい」
「あのね。シリルさんの肩、ずっと気を張ってるんです。完璧に立ってるのに、力が抜けてない。だから組み直すとき、肩の芯をほんの少しだけ柔らかくします。今より、肩の力が抜けやすい仕立てに」
ミラは、肩の関節を指で軽くなでた。
「楽にしていい肩に組み直します。——緩めても崩れないように」
シリルが背中を向けたまま、しばらく黙っていた。
「……それは」
やがて、低い声がした。
「君のいつもの、布の話か」
「布の話です」
「そうか」
短い返事だった。
けれどミラには、その返事の奥に何があるのか、やっぱりわからなかった。シリルの肩が巻尺の下で、また少しだけ緩んだのは感じた。布鳴りより微かな、人の体のほんのわずかな動き。それをミラの指は拾った。
拾ったが、意味は読めない。
ミラは、最後の寸法を木札に刻んだ。
「——終わりました。お疲れさまです」
シリルが長上着に袖を通す。手抜きの肩の返りが、また腕を上げるたびにつっかえる、あの上着だ。けれど、それを着るシリルの背中は、さっきまでとはどこか違って見えた。
ミラには、その違いの正体もわからなかった。
「ありがとうございました。三日ください。組み直して、お返しします」
「ああ」
シリルは、戸口で一度足を止めた。
振り返って、ミラを見る。何か言おうとして——けれど結局、いつもの薄い笑みだけを置いていった。
「……君は、本当に布のことしか見ていないな」
「布と、体です」
「そうだったね」
戸が、閉まった。
ミラは、しばらくその戸を見ていた。それから、首をかしげた。
「……変なお体だったなあ」
誰もいない工房で、ぽつりと言う。
仕立てのいい服しか着ていないのに、一着もその人のために測って縫われた服がない人。あんな体は、初めて見た。総監督で、衣装宮のいちばん上にいて、いい服に囲まれているのに。なぜ誰も、あの人のための一着を縫わなかったんだろう。
考えても、答えは出なかった。
布の謎なら指で確かめられる。打ち込みも、落ち感も、産地も。けれど人のことは、布と違う。仕立て直せないし、指でも読めない。
「……まあ、いいか」
ミラは、肩をすくめた。
組み直す上着の肩の芯のことを考えはじめると、もうさっきの妙な空気は頭の隅へ追いやられていった。緩めても崩れない肩。気を張らなくていい仕立て。あの人の肩を楽にしてやれる組み方。それを考えるほうが、ミラにはずっと面白かった。
作業台の隅に、置きっぱなしの絹が目に入った。
カルディアの、海の向こうの絹。
「……あ。そうだ。お前がいたんだ」
ミラは絹を抱え上げ、頬を寄せた。
「ごめんね、待たせて。——今夜は、ゆっくり触らせてね」
ミラの目が、またきらりと光った。
巻尺を首にかけ直す。今夜は、長くなりそうだった。組み直す上着の型を取って、それからあの絹を心ゆくまで触る。シリルの肩のことも、いつか布が答えをくれるかもしれない。
指の先が、またうずうずしてきた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第七話は、ミラがシリルを採寸する回でした。第二話で「肩の返りを組み直す」と約束したきり、王様や騎士や主計官の一着が続いて、ずっと後回しになっていた約束を、ようやく果たす回です。
この物語のなかで、私がいちばん書きたかった仕掛けのひとつが、この「採寸=親密」でした。人の体に巻尺を回して、指で肩や背を読むという行為は、考えてみると、ずいぶんと深いところまで人に触れることです。ミラはそれを、布と体の話としてしか思っていない。けれど巻尺の下では、その人が今までどう立って、どう見られて、どう生きてきたかが、全部、読まれてしまう。
ミラがぽろりと漏らした、「誰かに、ちゃんと測られた跡がない」という一言。これは、ミラにとっては、ただの採寸の観察です。同情でも、追及でもない。布に書いてあったことを、口がそのまま読み上げただけ。けれど、その一言が、シリルの何かに触れてしまった。いつも余裕の笑みでからかってくる彼の鎧が、巻尺一本で、一瞬だけ剥がれます。
なぜその一言が、彼にそこまで効いたのか——それは、まだ書きません。ミラにもわかりませんし、たぶん、読んでくださっているあなたにも、まだ割れないと思います。ただ、「この人、何かあるな」と、指の先にほんの少し残ってくれたなら、それで十分です。物語の奥に流れているもう一本の糸が、ここで、ほんのわずかに、表に触れました。
そして、相変わらずのミラです。シリルの採寸の真っ最中に、カルディアの絹が届いて、雇い主をシャツ一枚で立たせたまま絹に飛んでいく。我に返って、耳を赤くして謝る。この子のこういうところが、私はやっぱり好きです。深いところに触れた直後でも、布が来れば全部すっ飛ぶ。それくらいでちょうどいいのだと思います。
ミラは、慰めも、追及もしません。「測られた跡がない」と事実を言って、それから「楽にしていい肩に組み直す」と、また仕事の話に戻るだけ。彼女にできるのは、最高の一着を作ることだけですから。シリルの肩を緩めてやれるかどうかは、いつか、布が答えをくれるかもしれません。
どうか、気長にお付き合いください。




