表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
採寸狂のお針子は、最高の一着しか縫わない  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/7

第6話: 彼女のまま、侮られない

「動かないでください。——いま、あなたの肩が嘘をついた」


 巻尺を肩へ回した瞬間、ミラの指がぴたりと止まった。布越しに伝わってきたのは、骨の幅と——その上に乗った別の幅だった。二つの幅が合っていない。


「お針子さん」


 冷たい声が、頭の上から落ちてきた。


「動いていません。わたしは、立っているだけです」


 ミラは顔を上げた。


 女が一人、姿見の前にまっすぐ立っていた。黒髪をひと筋も乱さず結い上げ、味気ない灰の官服を着ている。男物に近い、骨ばった仕立ての官服だ。けれどミラの指は、その大きすぎる肩のなかに本当の肩がもっと内側にあることを、たった今読み取ったところだった。




 女は、主計官のイレーネと名乗った。


 宮廷の財政を一手に握る官吏だという。シリルが連れてきた。男ばかりの宮廷で女が一人、数字の頂点に立っている。それがどれほど珍しいことか、政治に疎いミラにも察しはついた。


「叙任の式が、半月後にあります」


 イレーネは丸椅子を勧められても座らず、立ったまま用件を言った。背をいつもより高く見せようとしている。顎を引き、首をまっすぐ立てて。


「その礼装を、誂えたい。注文は一つだけです」


 彼女は自分の灰の官服の襟へ、指を当てた。


「男物に近い、隙のない仕立てを。女に見える線は一つも要りません」


「かしこまりました」


 ミラは首から巻尺を外した。それを手にした瞬間、いつものように世辞や気遣いが頭の後ろへ退いていく。残るのは布と体のことだけだ。


「では、採寸します。少し、触れますね」


 イレーネの背中へ回った。


 巻尺を肩の線へあてる。とたんに、指がつまずいた。


 布の肩は四角く張っている。男物の官服の肩だ。けれどその内側に巻尺を滑り込ませると、本物の肩はずっと内にあった。なで肩だ。それも、かなりの。布が外で四角を作り、本物の肩がそのなかで小さく縮こまっている。布と体が、まるで別々のものだ。


「……合ってない」


 誰に言うともなく、口が動いた。


「この官服、肩が体の二寸くらい外で張ってる。なかで肩が泳いでます。布が肩の形をぜんぶ覆い隠して……ああ、わざとだ。わざと大きいのを着てる。線を消すために」


 巻尺が肩から胸へ滑る。そこでもまた布が体から浮いていた。胸の前を、布がまっすぐ板みたいに落としている。本当の体の線を布の板で殺している。


「腰も。腰の線を布でまっすぐ落として消してる。——全部、消してる」


 ミラは木札に数を刻みながら、半分ひとりごとの世界に沈んでいった。


「本当の肩は、ここ。本当の腰は、ここ。すごく細い。なのに、それを全部、大きな布で塗りつぶして……もったいない。せっかくきれいな線があるのに」


 その「もったいない」が、口からこぼれた。


 イレーネの背筋が、わずかに固くなった。




 ミラは、それに気づかなかった。


 むしろ、いいことを思いついたという顔をしていた。採寸の数を見れば見るほど、頭のなかで一着が組み上がっていく。この人の本当の体は、布で隠されているよりずっと美しい線をしている。それを生かさない手はない。ミラの信条はいつだってそれだった。欠点を隠す服じゃなく、その人の本当の線を生かす服を。


 ミラは巻尺を首に戻し、イレーネの正面へ回った。


「イレーネさん。注文と、違うことを言ってもいいですか」


「……何でしょう」


「あなた、本当は、隠さなくていいんです」


 ミラは、自分の組み上げた案をまっすぐに差し出した。


「男物の大きい官服で、肩も腰も全部塗りつぶしてますけど。あなたの本当の体は、すごくきれいな線をしてるんです。なで肩で、腰が細くて。それを生かす仕立てにしたら、もっと——」


「やめて」


 短く、刃のような声だった。


 ミラの言葉が、途中で切れた。


「あなたも、わたしを『女らしく』したいの?」


 イレーネがゆっくりとミラを見た。さっきまで低かった声の温度が、今は氷のように冷えていた。


「あなたまで、それを言うの」


「……え」


「線がきれい。女である自分を出していい。——いい仕立て屋ね。あなたも、結局はそこへ戻すのね」


 イレーネの目が、刃そのものだった。


「いいですか。わたしが女に見える線を一つでも出した瞬間、宮廷のあの男たちは、わたしを一段下に置く。『女だてらに』。『女のくせに』」


 彼女の声が、低く、鋭くなった。


「その一言を引き出す隙を、わたしは一つも作らない。十年、そうやって生きてきた」


 彼女は自分の大きすぎる官服の襟を、ぐっと握った。


「女らしく見せた瞬間、わたしは官吏から女に格下げされる。数字でどれだけ言い負かしても、たった一本の腰の線で台無しになる。——あなたに、それがわかる?」


 部屋の空気が、ひと回り重くなった。


 壁際で書類を繰っていたシリルが顔を上げた。場をなだめようと口を開きかけて——けれど何も言わずに、それを閉じた。


 ミラは立ち尽くしていた。


 口のなかが、からからに乾いていた。今までこういう場面が何度もあった。ガレスのときも、レウベンのときも。布の話をしているだけで相手が勝手に救われていった。だから今回も同じだと思った。本当の線を生かせば、この人も。


 でも、違った。


 今、目の前の人は救われていない。怒っていた。傷つけられたという顔をしていた。


 ミラの差し出した案は——この人にとっていちばん刺さってはならない場所を、まっすぐ突いていた。


「……あ」


 声が、小さく漏れた。


「あたし、いま」


 ミラは、自分の手のなかの木札を見た。さっき得意げに組み上げた、あの一着の案。本当の線を生かした美しい仕立て。それを、ミラは「いいことを思いついた」と思っていた。


 思っていた。


 でも、イレーネは一度もそれを望んでいなかった。


 採寸で読めたのは、体の線だった。なで肩。細い腰。布で隠された本当の体。それは確かに読めた。けれど——この人がその体をどうしたいのか。それは、体には書いていなかった。ミラが勝手に決めつけていた。


「……すみません」


 ミラは、頭を下げた。


「あたし、勝手に決めつけました。あなたの体は読めたのに……あなたが何を望んでるかは、聞いてもいないのに、決めつけて」


 顔を上げられなかった。


 いつもの「布の話です」が、出てこなかった。これは布の話じゃなかった。ミラの読み違えだった。




 しばらく、誰も口をきかなかった。


 こての炭火が、しゅう、と低く鳴る。その音だけが部屋にあった。


「……お針子さん」


 やがて、イレーネが言った。声から刃が少しだけ抜けていた。


「わたしを女らしく見せようとした人は、あなたで何人目か知れません。みんな、善意でそうするの。『隠すなんてもったいない』『せっかく女に生まれたのに』」


 彼女は、ふっと息を吐いた。


「——だから、わたしは仕立て屋が嫌いです」


 ミラは、顔を上げた。


「……でも、注文してくださった」


「ええ。総監督どのが、強く勧めるから」


 イレーネは壁際のシリルを一瞥した。それから、ふっと息を吐いた。


「どうせ同じだろうと思って来ました。男物に近い隙のない仕立てを、と先に釘を刺せば、余計なことは言われずに済むと。——なのに、あなたは、いちばん言われたくないことを言った」


「……はい」


「最悪です」


「……はい。すみません」


 ミラは、もう一度頭を下げた。


 それから巻尺を、また首から外した。


「もう一度、採寸させてもらえますか」


 イレーネが、わずかに眉を寄せた。


「同じことを?」


「いえ。さっきは、体だけ読んで勝手に決めました。今度は……聞きます。あたしの目だけじゃ、足りないので」


 ミラは巻尺を両手で持ったまま、まっすぐにイレーネを見た。


「あなたが、その式の場でどう立ちたいのか。それは、体には書いてないんです。聞かないと、わからない」


 イレーネは、しばらくミラを見ていた。値踏みするような目だった。隙を探すような。


 それから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「……いいでしょう」




 ミラはもう一度、イレーネの背中へ回った。


 今度は、すぐには巻尺をあてなかった。手のなかで巻尺を遊ばせながら、ただ聞いた。


「イレーネさん。式の場って、どんな場所なんですか」


「広間です。叙任を受ける者が並んで、王から官位を授かる。——男ばかりが、ずらりと並びます」


「あなたは、そのなかに一人」


「ええ。一人です」


「そこに立つとき。いちばん嫌なのは、何ですか」


 イレーネは、少し黙った。


「……値踏みされること、です」


 声が、低くなった。


「広間に入った瞬間、男たちの目が、わたしの全身を上から下へ撫でる。仕事の中身じゃない。女か、女じゃないか。値打ちがあるか、ないか」


 イレーネの指が、自分の襟をぐっと握った。


「——たった一瞥で、わたしは『女主計官』という見世物にされます。数字の話を始める前に、もう」


「女らしい線があると、その値踏みが強くなる」


「強くなります。だから消す。胸も腰も肩も全部、布で塗りつぶして男のなりに寄せる。そうすれば、せめて値踏みの目を少しは逸らせる」


 ミラは巻尺を肩へあてた。


 四角い布の肩。その内側の、小さななで肩。さっきと同じ採寸だ。けれど読み取るものが違っていた。


「……でも、男のなりに寄せても。完全には、寄りきれてないですよね」


「……何が言いたいの」


「この官服、男物の肩を借りてるけど。借り物だから、なかで体が泳いでるんです。肩が二寸、外で張ってて、本物の肩がそのなかで縮こまってる。借り物の鎧を、無理に着てるみたいに」


 ミラの指が、その浮いた布をつまんだ。


「借り物の鎧って、隙だらけなんです。サイズが合ってないから」


 ミラは、浮いた布をつまんだまま続けた。


「だから……たぶん、あの男たちも、本当はわかってるんじゃないですか。『無理して男のなりをしてる女だ』って。隠そうとしてるのが、透けて見えてる」


 イレーネの背中が、ぴくりと動いた。


 ミラは、それに気づいた。今度はちゃんと気づいた。


「……あなたが本当に望んでるのは。女らしく見えることでも、男みたいに見えることでもなくて」


 ミラは、ゆっくりと言った。


「女か男か、を見られる前に。ただの主計官として、見られたい。——違いますか」


 イレーネは、答えなかった。


 長い沈黙だった。


 やがて彼女が、しばらく黙ったまま低く言った。


「……わたしを。女でも男でもなく。ただの主計官に、見せられると?」


 その声は、さっきまでの刃ではなかった。問いだった。半分は信じていない問いだった。


「組めると思います」


 ミラは、巻尺を首に戻した。


「あなたの体に、合わせて組めば」




 翌日から、ミラは布を選んだ。


 布蔵の棚から引き抜いてきたのは、深い鉄色の毛織だった。礼装用に薄く織られた一反で、初夏でも重たくない。指で挟むと、薄いのにしっかりとした手応えがある。光をほとんど返さない布だ。


「ハリのある布です」


 ミラは戸口のイレーネに、布をかざして見せた。


「ハリっていうのは、布の張りの強さのことで。やわらかい布は、体の線にぴたっと沿います。でも、このハリのある布は、沿わずに自分でまっすぐ立つ」


 ミラは、布の端を指で弾いた。ぴん、と硬い音がした。


「体の丸みを拾わないんです。だから——胸の線も腰の線も、布が勝手に殺してくれます」


「……女の線を、消すのね」


「いえ」


 ミラは首を振った。


「消すんじゃないです。出さないだけ。隠すのとは、ちょっと違うんです」


 ミラは布を作業台に広げた。


「イレーネさん。今まで着てた官服は、男物の肩を『借りて』ました。あなたの体じゃない、誰かの肩の形を、上からかぶせてた。だから、なかで体が泳いだ」


 ミラはその鉄色の布を、イレーネの肩へあてがった。今度は二寸も外で張らせない。本物の肩のすぐ上に。


「あたしの仕立ては、逆です。男物の肩の『格』だけ借りて、形はあなたの肩に合わせます」


「……格?」


「肩の四角さ、です」


 ミラは、自分の肩を手で四角く区切ってみせた。


「男物の官服の肩って、四角いでしょう。角張ってて、まっすぐで。あれが『権威』に見えるんです。ぴしっとした、隙のない、上に立つ人の肩」


 ミラは、その四角を指でなぞった。


「——その四角い格は、借ります。あなたの礼装にも、その権威の肩を入れる」


「でも、それは男の肩でしょう」


「形は、あなたの肩です」


 ミラは、布の肩を指で押した。


「四角い格を、あなたのなで肩の、本当の幅に合わせて組むんです。毛芯——肩や胸に仕込む、張りの芯地のことなんですけど」


 ミラは、布の肩の内側を指で示した。


「それを、あなたの肩の本当の位置に四角く立てる。二寸外でぶかぶか張らせるんじゃなくて。あなたの肩の上に、ぴったりの権威を立てる」


 ミラの指が、布の肩の角をすうっとなぞった。


「そうすると、肩は四角くて隙がないのに、なかで体が泳がない。借り物の鎧じゃなくて……あなたの体のための鎧になります」


 イレーネは、その布の肩をじっと見ていた。


「胸も、腰も。ハリのある布で、まっすぐ落とします。女の線は出さない。でも、無理に板で殺すんじゃない。布の力で、自然にまっすぐにする」


 ミラは、布を体の前に当てて落としてみせた。


「だから、苦しくない。突っ張らない。——あなたが、あなたの体のまま、隙なく立てます」


「……女には、見えない」


「見えません」


 ミラは、はっきりと言った。


「でも、男にも見えません。借り物にも見えない。——四角い権威の肩を、あなたの体で立ててるだけ。だから、見る人の目には」


 ミラは、そこで初めてイレーネの顔を見た。


「女か男か、の前に。『隙のない、有能な官吏』に見えます」


 イレーネは、答えなかった。


 答えなかったが、その指が無意識に、自分の大きすぎる古い官服の襟へ伸びて——途中で止まった。いつも、なかで体を泳がせていた襟だ。




 仮縫いの日が来た。


 しつけ糸でざっと組んだだけの、まだ服とも呼べない仮の一着。ミラはそれをイレーネに着せ、姿見の前に立たせた。


 イレーネは、いつものように顎を引き、首をまっすぐ立てて背を高く見せようとした。


「……あの」


 ミラが、後ろから声をかけた。


「顎、引かなくていいです。普通に立ってください」


「普通に立つと、背が低く見える」


「見えません。——肩が、立ってるので」


 イレーネが、おそるおそる顎の力を抜いた。背を高く見せる作り物の姿勢をやめた。


 そして、鏡を見た。


 鏡のなかに、官吏が一人立っていた。


 鉄色の礼装。肩は四角く立っている。隙のない、まっすぐな権威の肩だ。けれど、その肩は二寸も外で張ってはいなかった。彼女の本当の肩のすぐ上にあった。なかで体が泳いでいない。布と体が、初めて一つになっていた。


 胸も腰も、ハリのある布がまっすぐに落ちている。女の線は、どこにもない。けれど、無理やり板で殺された不自然さもなかった。布が自分の力でまっすぐに立っているだけだった。


 顎を引かなくても、背は低く見えなかった。立った肩が彼女の背を自然に高く見せていた。


 イレーネの呼吸が、止まった。


「……これは」


 声が、かすれた。


「これは……男物では、ない」


「違います」


 ミラは、肩の後ろのしつけ糸を指で確かめながら答えた。


「あなたの肩で、組んでます」


「でも、女にも……見えない」


「見えません」


 ミラは待ち針を一本、布の端へ打った。


「官吏に、見えます」


 イレーネは、その鏡を長いこと見ていた。


 胸が、ゆっくりと上下していた。彼女の指が、鏡のなかの四角い肩へそっと触れた。借り物ではない肩。彼女の体の上にぴったりと立った権威。十年、男物の官服のなかで泳がせてきた肩だった。


「……わたしは」


 しばらくして、イレーネが低く言った。


「わたしは、ずっと自分を消すことしか考えてこなかった。女に見えないように。胸を隠して、腰を隠して、肩を借りて。隠せば隠すほど……息が苦しかった」


 彼女の目は、鏡から離れなかった。


「でも、これは。消してない。隠してもいない。——わたしの体のまま、隙がない」


「布の話です」


 ミラは、またいつものそれを言った。


 けれど、今度は少しだけ間があった。さっきの読み違えが、まだ胸に残っていた。


「……でも。あたしが言えるのは、それだけなんです。あなたがその肩で、あの広間で何をするかは……あたしには、わからない。それは、あなたの仕事なので」


 イレーネが、鏡からミラへ目を移した。


 初めて、彼女の口元がわずかにゆるんだ。


「ええ。それは、わたしの仕事です」




 一着が仕上がったのは、式の三日前の朝だった。


 鉄色の叙任礼装。飾りは、ほとんどない。けれど、四角く立った肩と、まっすぐに落ちる布の線。その隙のなさだけで目を引いた。


 イレーネが袖を通す。ミラは襟を整え、肩の角の収まりを指で一度だけ確かめてから手を離した。


 イレーネが、鏡の前に立った。


 顎を、引かなかった。背を高く見せる、あの作り物の姿勢を、もうしなかった。ただ、普通に立っている。それなのに——いや、それだからこそ、彼女は隙なく立っていた。


 四角い肩が、彼女の背をまっすぐに支えていた。鉄色の布が、胸も腰も、女の線を出さずに落ちている。けれど、苦しそうではなかった。借り物の鎧のなかで縮こまってもいなかった。


 彼女は、彼女の体のまま、そこに立っていた。


「……お針子さん」


 イレーネが鏡を見たまま言った。


「あの広間に入ったとき、男たちの目が、わたしを上から下へ撫でるでしょう。いつものように。女か、女じゃないか。——でも、今度は」


 彼女は、自分の四角い肩へ指を当てた。


「今度は、その目が迷う。女に分類しようとして、できない。男に分類しようとしても、できない。——分類できないまま、わたしは数字の話を始める。値踏みが終わる前に、仕事を始める」


 イレーネの声には、もう刃も警戒もなかった。


 あったのは、静かな反撃の構えだった。


「十年、隠して戦ってきました。今度は、隠さずに戦えます。——隠してないというだけで、こんなに息がしやすいのね」


 ミラは、その言葉を半分しか聞いていなかった。


 もう、肩の角の落ち際のことを考えていた。あそこの芯の立ち方を、あと一目だけ整えておきたい。けれど、イレーネが「隠してない」と言ったところだけは、なぜか耳に残った。


 ——そうだ。隠してない。隠す仕立てじゃない。


 でも、生かす仕立てでもなかった。


 ミラは、ぼんやりと思った。この人の一着は、ガレスやレウベンとは少し違う。あの二人は、欠けや猫背を「生かして」立った。けれど、イレーネは何かを生かしたわけじゃない。ただ、借り物をやめて自分の体に合わせただけだ。それだけで、この人は戦う構えを取り戻した。


 いい仕立てをした、と思う。


 職人が思っていいのは、それくらいのことだ。立つのは、イレーネの足だった。




 ミラは、床に散らばったしつけ糸を拾い集めていた。


 部屋の隅で、シリルが壁にもたれてこちらを見ていた。


「……ひやひやしたよ」


 シリルが、いつもの軽い口調で言った。


「君があの人に『女である自分を出していい』と言いだしたときは、本気で、間に割って入ろうかと思った。あの人を、いちばん怒らせる一言だったからね」


「……はい」


 ミラは、糸くずを手のひらに乗せたまま答えた。


「あたし、読み違えました」


「珍しいね。君が」


 シリルが、面白そうに片眉を上げた。


「いつも、採寸ひとつで人の本心まで言い当てる君が。今日は、外した」


「外しました」


 ミラは、素直に認めた。


「体は、読めたんです。肩も、腰も。隠してるのも、わかった。でも……その人が、それをどうしたいのかは、体に書いてなかった」


 ミラは、握った糸をもう一度握り直した。


「あたしが勝手に『隠してるなら出したいはずだ』って、決めつけてました」


 ミラは、拾った糸をぎゅっと握った。


「採寸眼って、万能じゃないんですね。体は読めても、望みは……聞かないと、わからない」


 シリルが、ふっと笑った。それから、なぜか少しだけまぶしいものでも見るような目になって——けれどミラが顔を上げる前に、いつもの薄い笑みに戻していた。


「君は、外しても、ちゃんと拾い直すんだな」


「拾い直さないと、いい一着が、作れないので」


 ミラは立ち上がり、次の糸を拾った。頭の半分はもう鉄色の肩の角のことを考えている。


 戸口で、イレーネが一度足を止めた。


 振り返って、ミラを見る。何か言おうとして、けれど、この人もまた、ちょうどいい言葉を探しているようだった。


「お針子さん」


 やがて、イレーネが言った。


「あなたは、わたしを一度、深く怒らせました。それは、忘れません」


「……はい」


「でも」


 彼女は、自分の四角い肩へもう一度だけ指を当てた。


「外したあなたが、頭を下げて、もう一度わたしに『聞いた』ことも。——忘れません。あの仕立て屋たちは、誰一人、わたしに聞かなかった。みんな、勝手に決めて、勝手に消えていった」


 イレーネの目が、わずかにやわらいだ。


「もし、いつか、あなたが宮廷で誰かに足を引っ張られるようなことがあれば。そのときは、わたしが数字で、あなたの側に立ちます。——これは、礼です」


「……はあ」


 ミラは、よくわからない顔でぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございます。——あ、そのときは、布蔵の海の向こうの絹も、ぜひ触ってみてください。あれ、すごいんですよ。ハリと落ちが、両方あって——」


「……お針子さん」


 イレーネが、戸口で初めて小さく笑った。


「礼の話を、しているのだけれど」


「あ。……すみません」


 ミラが、慌てて頭を下げ直す。


 イレーネは、ほんの少しだけ笑って、戸を開けて出ていった。顎を引かず、背を高く見せようともせず。四角い肩が、彼女の背をまっすぐに立たせていた。


 戸が、閉まる。


 ミラは、しばらくその戸を見ていた。それから握った糸くずを見下ろして呟いた。


「……聞かないと、わからないことも、あるんだなあ」


 巻尺を首から外して、手のなかで遊ばせる。今まで、この巻尺一本で人の体の何もかもを読んできたつもりでいた。けれど今日、それだけじゃ足りない場所があることを知った。


 それは、少しだけ悔しかった。


 でも——次の客の体には、今度は何が書いてあるんだろう。書いてないものは、ちゃんと聞こう。


 ミラの指の先が、またうずうずしてきた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第六話は、宮廷でただ一人の女性主計官イレーネの、叙任礼装でした。これまでの回と、いちばん大きく違うのは——ミラが、一度しくじることです。


ミラは採寸の天才です。巻尺一本で、その人の癖も、古傷も、本人さえ忘れた望みまで読んでしまう。これまでの回では、それが万能の武器でした。でも今回、ミラはその眼を過信して、「あなたは本当は隠している、女である自分を出していい」と、良かれと思って踏み込みます。そして、いちばん刺さってはならない場所を突いて、強く拒まれます。


イレーネにとって「女らしさ」は、肯定されるべき何かではなく、戦場で命取りになる隙でした。彼女は十年、女である自分を消すことで、男だらけの宮廷を生き抜いてきた人です。だから、善意の「出していい」は、彼女を一段下に引きずり下ろす言葉でしかない。ミラは、体は読めても、その人が自分の体をどうしたいのかまでは、聞かなければわからなかった。


完璧な人より、一度しくじって、頭を下げて、もう一度聞き直す人のほうが、私は好きです。採寸眼にも、限界がある。それを知ったミラが、今度は「聞く」ことから始める——そこを、いちばん書きたかったところでした。


ミラの答えは、「女らしく」でも「男装」でもありませんでした。男物の肩の“格”だけを借りて、形はイレーネの体に合わせる。借り物の鎧でも、自分を消す鎧でもない、彼女の体のための一着。隠さずに、戦える肩です。立つのは、いつだってイレーネ自身の足ですが。


イレーネも、これきりのお客さんではありません。またどこかで、彼女の数字の力に助けられる日が来るかもしれません。どうか気長に、お付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ