第6話: 彼女のまま、侮られない
「動かないでください。——いま、あなたの肩が嘘をついた」
巻尺を肩へ回した瞬間、ミラの指がぴたりと止まった。布越しに伝わってきたのは、骨の幅と——その上に乗った別の幅だった。二つの幅が合っていない。
「お針子さん」
冷たい声が、頭の上から落ちてきた。
「動いていません。わたしは、立っているだけです」
ミラは顔を上げた。
女が一人、姿見の前にまっすぐ立っていた。黒髪をひと筋も乱さず結い上げ、味気ない灰の官服を着ている。男物に近い、骨ばった仕立ての官服だ。けれどミラの指は、その大きすぎる肩のなかに本当の肩がもっと内側にあることを、たった今読み取ったところだった。
女は、主計官のイレーネと名乗った。
宮廷の財政を一手に握る官吏だという。シリルが連れてきた。男ばかりの宮廷で女が一人、数字の頂点に立っている。それがどれほど珍しいことか、政治に疎いミラにも察しはついた。
「叙任の式が、半月後にあります」
イレーネは丸椅子を勧められても座らず、立ったまま用件を言った。背をいつもより高く見せようとしている。顎を引き、首をまっすぐ立てて。
「その礼装を、誂えたい。注文は一つだけです」
彼女は自分の灰の官服の襟へ、指を当てた。
「男物に近い、隙のない仕立てを。女に見える線は一つも要りません」
「かしこまりました」
ミラは首から巻尺を外した。それを手にした瞬間、いつものように世辞や気遣いが頭の後ろへ退いていく。残るのは布と体のことだけだ。
「では、採寸します。少し、触れますね」
イレーネの背中へ回った。
巻尺を肩の線へあてる。とたんに、指がつまずいた。
布の肩は四角く張っている。男物の官服の肩だ。けれどその内側に巻尺を滑り込ませると、本物の肩はずっと内にあった。なで肩だ。それも、かなりの。布が外で四角を作り、本物の肩がそのなかで小さく縮こまっている。布と体が、まるで別々のものだ。
「……合ってない」
誰に言うともなく、口が動いた。
「この官服、肩が体の二寸くらい外で張ってる。なかで肩が泳いでます。布が肩の形をぜんぶ覆い隠して……ああ、わざとだ。わざと大きいのを着てる。線を消すために」
巻尺が肩から胸へ滑る。そこでもまた布が体から浮いていた。胸の前を、布がまっすぐ板みたいに落としている。本当の体の線を布の板で殺している。
「腰も。腰の線を布でまっすぐ落として消してる。——全部、消してる」
ミラは木札に数を刻みながら、半分ひとりごとの世界に沈んでいった。
「本当の肩は、ここ。本当の腰は、ここ。すごく細い。なのに、それを全部、大きな布で塗りつぶして……もったいない。せっかくきれいな線があるのに」
その「もったいない」が、口からこぼれた。
イレーネの背筋が、わずかに固くなった。
ミラは、それに気づかなかった。
むしろ、いいことを思いついたという顔をしていた。採寸の数を見れば見るほど、頭のなかで一着が組み上がっていく。この人の本当の体は、布で隠されているよりずっと美しい線をしている。それを生かさない手はない。ミラの信条はいつだってそれだった。欠点を隠す服じゃなく、その人の本当の線を生かす服を。
ミラは巻尺を首に戻し、イレーネの正面へ回った。
「イレーネさん。注文と、違うことを言ってもいいですか」
「……何でしょう」
「あなた、本当は、隠さなくていいんです」
ミラは、自分の組み上げた案をまっすぐに差し出した。
「男物の大きい官服で、肩も腰も全部塗りつぶしてますけど。あなたの本当の体は、すごくきれいな線をしてるんです。なで肩で、腰が細くて。それを生かす仕立てにしたら、もっと——」
「やめて」
短く、刃のような声だった。
ミラの言葉が、途中で切れた。
「あなたも、わたしを『女らしく』したいの?」
イレーネがゆっくりとミラを見た。さっきまで低かった声の温度が、今は氷のように冷えていた。
「あなたまで、それを言うの」
「……え」
「線がきれい。女である自分を出していい。——いい仕立て屋ね。あなたも、結局はそこへ戻すのね」
イレーネの目が、刃そのものだった。
「いいですか。わたしが女に見える線を一つでも出した瞬間、宮廷のあの男たちは、わたしを一段下に置く。『女だてらに』。『女のくせに』」
彼女の声が、低く、鋭くなった。
「その一言を引き出す隙を、わたしは一つも作らない。十年、そうやって生きてきた」
彼女は自分の大きすぎる官服の襟を、ぐっと握った。
「女らしく見せた瞬間、わたしは官吏から女に格下げされる。数字でどれだけ言い負かしても、たった一本の腰の線で台無しになる。——あなたに、それがわかる?」
部屋の空気が、ひと回り重くなった。
壁際で書類を繰っていたシリルが顔を上げた。場をなだめようと口を開きかけて——けれど何も言わずに、それを閉じた。
ミラは立ち尽くしていた。
口のなかが、からからに乾いていた。今までこういう場面が何度もあった。ガレスのときも、レウベンのときも。布の話をしているだけで相手が勝手に救われていった。だから今回も同じだと思った。本当の線を生かせば、この人も。
でも、違った。
今、目の前の人は救われていない。怒っていた。傷つけられたという顔をしていた。
ミラの差し出した案は——この人にとっていちばん刺さってはならない場所を、まっすぐ突いていた。
「……あ」
声が、小さく漏れた。
「あたし、いま」
ミラは、自分の手のなかの木札を見た。さっき得意げに組み上げた、あの一着の案。本当の線を生かした美しい仕立て。それを、ミラは「いいことを思いついた」と思っていた。
思っていた。
でも、イレーネは一度もそれを望んでいなかった。
採寸で読めたのは、体の線だった。なで肩。細い腰。布で隠された本当の体。それは確かに読めた。けれど——この人がその体をどうしたいのか。それは、体には書いていなかった。ミラが勝手に決めつけていた。
「……すみません」
ミラは、頭を下げた。
「あたし、勝手に決めつけました。あなたの体は読めたのに……あなたが何を望んでるかは、聞いてもいないのに、決めつけて」
顔を上げられなかった。
いつもの「布の話です」が、出てこなかった。これは布の話じゃなかった。ミラの読み違えだった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
こての炭火が、しゅう、と低く鳴る。その音だけが部屋にあった。
「……お針子さん」
やがて、イレーネが言った。声から刃が少しだけ抜けていた。
「わたしを女らしく見せようとした人は、あなたで何人目か知れません。みんな、善意でそうするの。『隠すなんてもったいない』『せっかく女に生まれたのに』」
彼女は、ふっと息を吐いた。
「——だから、わたしは仕立て屋が嫌いです」
ミラは、顔を上げた。
「……でも、注文してくださった」
「ええ。総監督どのが、強く勧めるから」
イレーネは壁際のシリルを一瞥した。それから、ふっと息を吐いた。
「どうせ同じだろうと思って来ました。男物に近い隙のない仕立てを、と先に釘を刺せば、余計なことは言われずに済むと。——なのに、あなたは、いちばん言われたくないことを言った」
「……はい」
「最悪です」
「……はい。すみません」
ミラは、もう一度頭を下げた。
それから巻尺を、また首から外した。
「もう一度、採寸させてもらえますか」
イレーネが、わずかに眉を寄せた。
「同じことを?」
「いえ。さっきは、体だけ読んで勝手に決めました。今度は……聞きます。あたしの目だけじゃ、足りないので」
ミラは巻尺を両手で持ったまま、まっすぐにイレーネを見た。
「あなたが、その式の場でどう立ちたいのか。それは、体には書いてないんです。聞かないと、わからない」
イレーネは、しばらくミラを見ていた。値踏みするような目だった。隙を探すような。
それから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……いいでしょう」
ミラはもう一度、イレーネの背中へ回った。
今度は、すぐには巻尺をあてなかった。手のなかで巻尺を遊ばせながら、ただ聞いた。
「イレーネさん。式の場って、どんな場所なんですか」
「広間です。叙任を受ける者が並んで、王から官位を授かる。——男ばかりが、ずらりと並びます」
「あなたは、そのなかに一人」
「ええ。一人です」
「そこに立つとき。いちばん嫌なのは、何ですか」
イレーネは、少し黙った。
「……値踏みされること、です」
声が、低くなった。
「広間に入った瞬間、男たちの目が、わたしの全身を上から下へ撫でる。仕事の中身じゃない。女か、女じゃないか。値打ちがあるか、ないか」
イレーネの指が、自分の襟をぐっと握った。
「——たった一瞥で、わたしは『女主計官』という見世物にされます。数字の話を始める前に、もう」
「女らしい線があると、その値踏みが強くなる」
「強くなります。だから消す。胸も腰も肩も全部、布で塗りつぶして男のなりに寄せる。そうすれば、せめて値踏みの目を少しは逸らせる」
ミラは巻尺を肩へあてた。
四角い布の肩。その内側の、小さななで肩。さっきと同じ採寸だ。けれど読み取るものが違っていた。
「……でも、男のなりに寄せても。完全には、寄りきれてないですよね」
「……何が言いたいの」
「この官服、男物の肩を借りてるけど。借り物だから、なかで体が泳いでるんです。肩が二寸、外で張ってて、本物の肩がそのなかで縮こまってる。借り物の鎧を、無理に着てるみたいに」
ミラの指が、その浮いた布をつまんだ。
「借り物の鎧って、隙だらけなんです。サイズが合ってないから」
ミラは、浮いた布をつまんだまま続けた。
「だから……たぶん、あの男たちも、本当はわかってるんじゃないですか。『無理して男のなりをしてる女だ』って。隠そうとしてるのが、透けて見えてる」
イレーネの背中が、ぴくりと動いた。
ミラは、それに気づいた。今度はちゃんと気づいた。
「……あなたが本当に望んでるのは。女らしく見えることでも、男みたいに見えることでもなくて」
ミラは、ゆっくりと言った。
「女か男か、を見られる前に。ただの主計官として、見られたい。——違いますか」
イレーネは、答えなかった。
長い沈黙だった。
やがて彼女が、しばらく黙ったまま低く言った。
「……わたしを。女でも男でもなく。ただの主計官に、見せられると?」
その声は、さっきまでの刃ではなかった。問いだった。半分は信じていない問いだった。
「組めると思います」
ミラは、巻尺を首に戻した。
「あなたの体に、合わせて組めば」
翌日から、ミラは布を選んだ。
布蔵の棚から引き抜いてきたのは、深い鉄色の毛織だった。礼装用に薄く織られた一反で、初夏でも重たくない。指で挟むと、薄いのにしっかりとした手応えがある。光をほとんど返さない布だ。
「ハリのある布です」
ミラは戸口のイレーネに、布をかざして見せた。
「ハリっていうのは、布の張りの強さのことで。やわらかい布は、体の線にぴたっと沿います。でも、このハリのある布は、沿わずに自分でまっすぐ立つ」
ミラは、布の端を指で弾いた。ぴん、と硬い音がした。
「体の丸みを拾わないんです。だから——胸の線も腰の線も、布が勝手に殺してくれます」
「……女の線を、消すのね」
「いえ」
ミラは首を振った。
「消すんじゃないです。出さないだけ。隠すのとは、ちょっと違うんです」
ミラは布を作業台に広げた。
「イレーネさん。今まで着てた官服は、男物の肩を『借りて』ました。あなたの体じゃない、誰かの肩の形を、上からかぶせてた。だから、なかで体が泳いだ」
ミラはその鉄色の布を、イレーネの肩へあてがった。今度は二寸も外で張らせない。本物の肩のすぐ上に。
「あたしの仕立ては、逆です。男物の肩の『格』だけ借りて、形はあなたの肩に合わせます」
「……格?」
「肩の四角さ、です」
ミラは、自分の肩を手で四角く区切ってみせた。
「男物の官服の肩って、四角いでしょう。角張ってて、まっすぐで。あれが『権威』に見えるんです。ぴしっとした、隙のない、上に立つ人の肩」
ミラは、その四角を指でなぞった。
「——その四角い格は、借ります。あなたの礼装にも、その権威の肩を入れる」
「でも、それは男の肩でしょう」
「形は、あなたの肩です」
ミラは、布の肩を指で押した。
「四角い格を、あなたのなで肩の、本当の幅に合わせて組むんです。毛芯——肩や胸に仕込む、張りの芯地のことなんですけど」
ミラは、布の肩の内側を指で示した。
「それを、あなたの肩の本当の位置に四角く立てる。二寸外でぶかぶか張らせるんじゃなくて。あなたの肩の上に、ぴったりの権威を立てる」
ミラの指が、布の肩の角をすうっとなぞった。
「そうすると、肩は四角くて隙がないのに、なかで体が泳がない。借り物の鎧じゃなくて……あなたの体のための鎧になります」
イレーネは、その布の肩をじっと見ていた。
「胸も、腰も。ハリのある布で、まっすぐ落とします。女の線は出さない。でも、無理に板で殺すんじゃない。布の力で、自然にまっすぐにする」
ミラは、布を体の前に当てて落としてみせた。
「だから、苦しくない。突っ張らない。——あなたが、あなたの体のまま、隙なく立てます」
「……女には、見えない」
「見えません」
ミラは、はっきりと言った。
「でも、男にも見えません。借り物にも見えない。——四角い権威の肩を、あなたの体で立ててるだけ。だから、見る人の目には」
ミラは、そこで初めてイレーネの顔を見た。
「女か男か、の前に。『隙のない、有能な官吏』に見えます」
イレーネは、答えなかった。
答えなかったが、その指が無意識に、自分の大きすぎる古い官服の襟へ伸びて——途中で止まった。いつも、なかで体を泳がせていた襟だ。
仮縫いの日が来た。
しつけ糸でざっと組んだだけの、まだ服とも呼べない仮の一着。ミラはそれをイレーネに着せ、姿見の前に立たせた。
イレーネは、いつものように顎を引き、首をまっすぐ立てて背を高く見せようとした。
「……あの」
ミラが、後ろから声をかけた。
「顎、引かなくていいです。普通に立ってください」
「普通に立つと、背が低く見える」
「見えません。——肩が、立ってるので」
イレーネが、おそるおそる顎の力を抜いた。背を高く見せる作り物の姿勢をやめた。
そして、鏡を見た。
鏡のなかに、官吏が一人立っていた。
鉄色の礼装。肩は四角く立っている。隙のない、まっすぐな権威の肩だ。けれど、その肩は二寸も外で張ってはいなかった。彼女の本当の肩のすぐ上にあった。なかで体が泳いでいない。布と体が、初めて一つになっていた。
胸も腰も、ハリのある布がまっすぐに落ちている。女の線は、どこにもない。けれど、無理やり板で殺された不自然さもなかった。布が自分の力でまっすぐに立っているだけだった。
顎を引かなくても、背は低く見えなかった。立った肩が彼女の背を自然に高く見せていた。
イレーネの呼吸が、止まった。
「……これは」
声が、かすれた。
「これは……男物では、ない」
「違います」
ミラは、肩の後ろのしつけ糸を指で確かめながら答えた。
「あなたの肩で、組んでます」
「でも、女にも……見えない」
「見えません」
ミラは待ち針を一本、布の端へ打った。
「官吏に、見えます」
イレーネは、その鏡を長いこと見ていた。
胸が、ゆっくりと上下していた。彼女の指が、鏡のなかの四角い肩へそっと触れた。借り物ではない肩。彼女の体の上にぴったりと立った権威。十年、男物の官服のなかで泳がせてきた肩だった。
「……わたしは」
しばらくして、イレーネが低く言った。
「わたしは、ずっと自分を消すことしか考えてこなかった。女に見えないように。胸を隠して、腰を隠して、肩を借りて。隠せば隠すほど……息が苦しかった」
彼女の目は、鏡から離れなかった。
「でも、これは。消してない。隠してもいない。——わたしの体のまま、隙がない」
「布の話です」
ミラは、またいつものそれを言った。
けれど、今度は少しだけ間があった。さっきの読み違えが、まだ胸に残っていた。
「……でも。あたしが言えるのは、それだけなんです。あなたがその肩で、あの広間で何をするかは……あたしには、わからない。それは、あなたの仕事なので」
イレーネが、鏡からミラへ目を移した。
初めて、彼女の口元がわずかにゆるんだ。
「ええ。それは、わたしの仕事です」
一着が仕上がったのは、式の三日前の朝だった。
鉄色の叙任礼装。飾りは、ほとんどない。けれど、四角く立った肩と、まっすぐに落ちる布の線。その隙のなさだけで目を引いた。
イレーネが袖を通す。ミラは襟を整え、肩の角の収まりを指で一度だけ確かめてから手を離した。
イレーネが、鏡の前に立った。
顎を、引かなかった。背を高く見せる、あの作り物の姿勢を、もうしなかった。ただ、普通に立っている。それなのに——いや、それだからこそ、彼女は隙なく立っていた。
四角い肩が、彼女の背をまっすぐに支えていた。鉄色の布が、胸も腰も、女の線を出さずに落ちている。けれど、苦しそうではなかった。借り物の鎧のなかで縮こまってもいなかった。
彼女は、彼女の体のまま、そこに立っていた。
「……お針子さん」
イレーネが鏡を見たまま言った。
「あの広間に入ったとき、男たちの目が、わたしを上から下へ撫でるでしょう。いつものように。女か、女じゃないか。——でも、今度は」
彼女は、自分の四角い肩へ指を当てた。
「今度は、その目が迷う。女に分類しようとして、できない。男に分類しようとしても、できない。——分類できないまま、わたしは数字の話を始める。値踏みが終わる前に、仕事を始める」
イレーネの声には、もう刃も警戒もなかった。
あったのは、静かな反撃の構えだった。
「十年、隠して戦ってきました。今度は、隠さずに戦えます。——隠してないというだけで、こんなに息がしやすいのね」
ミラは、その言葉を半分しか聞いていなかった。
もう、肩の角の落ち際のことを考えていた。あそこの芯の立ち方を、あと一目だけ整えておきたい。けれど、イレーネが「隠してない」と言ったところだけは、なぜか耳に残った。
——そうだ。隠してない。隠す仕立てじゃない。
でも、生かす仕立てでもなかった。
ミラは、ぼんやりと思った。この人の一着は、ガレスやレウベンとは少し違う。あの二人は、欠けや猫背を「生かして」立った。けれど、イレーネは何かを生かしたわけじゃない。ただ、借り物をやめて自分の体に合わせただけだ。それだけで、この人は戦う構えを取り戻した。
いい仕立てをした、と思う。
職人が思っていいのは、それくらいのことだ。立つのは、イレーネの足だった。
ミラは、床に散らばったしつけ糸を拾い集めていた。
部屋の隅で、シリルが壁にもたれてこちらを見ていた。
「……ひやひやしたよ」
シリルが、いつもの軽い口調で言った。
「君があの人に『女である自分を出していい』と言いだしたときは、本気で、間に割って入ろうかと思った。あの人を、いちばん怒らせる一言だったからね」
「……はい」
ミラは、糸くずを手のひらに乗せたまま答えた。
「あたし、読み違えました」
「珍しいね。君が」
シリルが、面白そうに片眉を上げた。
「いつも、採寸ひとつで人の本心まで言い当てる君が。今日は、外した」
「外しました」
ミラは、素直に認めた。
「体は、読めたんです。肩も、腰も。隠してるのも、わかった。でも……その人が、それをどうしたいのかは、体に書いてなかった」
ミラは、握った糸をもう一度握り直した。
「あたしが勝手に『隠してるなら出したいはずだ』って、決めつけてました」
ミラは、拾った糸をぎゅっと握った。
「採寸眼って、万能じゃないんですね。体は読めても、望みは……聞かないと、わからない」
シリルが、ふっと笑った。それから、なぜか少しだけまぶしいものでも見るような目になって——けれどミラが顔を上げる前に、いつもの薄い笑みに戻していた。
「君は、外しても、ちゃんと拾い直すんだな」
「拾い直さないと、いい一着が、作れないので」
ミラは立ち上がり、次の糸を拾った。頭の半分はもう鉄色の肩の角のことを考えている。
戸口で、イレーネが一度足を止めた。
振り返って、ミラを見る。何か言おうとして、けれど、この人もまた、ちょうどいい言葉を探しているようだった。
「お針子さん」
やがて、イレーネが言った。
「あなたは、わたしを一度、深く怒らせました。それは、忘れません」
「……はい」
「でも」
彼女は、自分の四角い肩へもう一度だけ指を当てた。
「外したあなたが、頭を下げて、もう一度わたしに『聞いた』ことも。——忘れません。あの仕立て屋たちは、誰一人、わたしに聞かなかった。みんな、勝手に決めて、勝手に消えていった」
イレーネの目が、わずかにやわらいだ。
「もし、いつか、あなたが宮廷で誰かに足を引っ張られるようなことがあれば。そのときは、わたしが数字で、あなたの側に立ちます。——これは、礼です」
「……はあ」
ミラは、よくわからない顔でぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。——あ、そのときは、布蔵の海の向こうの絹も、ぜひ触ってみてください。あれ、すごいんですよ。ハリと落ちが、両方あって——」
「……お針子さん」
イレーネが、戸口で初めて小さく笑った。
「礼の話を、しているのだけれど」
「あ。……すみません」
ミラが、慌てて頭を下げ直す。
イレーネは、ほんの少しだけ笑って、戸を開けて出ていった。顎を引かず、背を高く見せようともせず。四角い肩が、彼女の背をまっすぐに立たせていた。
戸が、閉まる。
ミラは、しばらくその戸を見ていた。それから握った糸くずを見下ろして呟いた。
「……聞かないと、わからないことも、あるんだなあ」
巻尺を首から外して、手のなかで遊ばせる。今まで、この巻尺一本で人の体の何もかもを読んできたつもりでいた。けれど今日、それだけじゃ足りない場所があることを知った。
それは、少しだけ悔しかった。
でも——次の客の体には、今度は何が書いてあるんだろう。書いてないものは、ちゃんと聞こう。
ミラの指の先が、またうずうずしてきた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第六話は、宮廷でただ一人の女性主計官イレーネの、叙任礼装でした。これまでの回と、いちばん大きく違うのは——ミラが、一度しくじることです。
ミラは採寸の天才です。巻尺一本で、その人の癖も、古傷も、本人さえ忘れた望みまで読んでしまう。これまでの回では、それが万能の武器でした。でも今回、ミラはその眼を過信して、「あなたは本当は隠している、女である自分を出していい」と、良かれと思って踏み込みます。そして、いちばん刺さってはならない場所を突いて、強く拒まれます。
イレーネにとって「女らしさ」は、肯定されるべき何かではなく、戦場で命取りになる隙でした。彼女は十年、女である自分を消すことで、男だらけの宮廷を生き抜いてきた人です。だから、善意の「出していい」は、彼女を一段下に引きずり下ろす言葉でしかない。ミラは、体は読めても、その人が自分の体をどうしたいのかまでは、聞かなければわからなかった。
完璧な人より、一度しくじって、頭を下げて、もう一度聞き直す人のほうが、私は好きです。採寸眼にも、限界がある。それを知ったミラが、今度は「聞く」ことから始める——そこを、いちばん書きたかったところでした。
ミラの答えは、「女らしく」でも「男装」でもありませんでした。男物の肩の“格”だけを借りて、形はイレーネの体に合わせる。借り物の鎧でも、自分を消す鎧でもない、彼女の体のための一着。隠さずに、戦える肩です。立つのは、いつだってイレーネ自身の足ですが。
イレーネも、これきりのお客さんではありません。またどこかで、彼女の数字の力に助けられる日が来るかもしれません。どうか気長に、お付き合いください。




