第5話: 欠けた袖を、主役にする
その客は戸口で一度、肩を入れ替えた。
右の肩から先に部屋へ入る。ほんのわずかな動きだ。けれどミラの目は、それを布の継ぎ目を見るのと同じ正確さで拾った。左を、後ろへ庇った。庇われた左の袖は肘の少し上で折り畳まれ、胸の前で銀の留め具に留められている。中身のない袖だった。
「お針子は、あんたか」
低い声だった。白髪まじりの短髪の、長身の武人。鋭い目が、ミラと一拍だけ遅れて合う。
「叙勲の礼装を頼みたい。——ただし」
男は留め具に留めた左の袖へちらりと目を落とした。
「この袖が、目立たんように。なるべく地味に、仕立ててくれ。それだけだ」
「かしこまりました。お掛けください」
ミラは丸椅子を勧めた。男は座ったが、背は壁につけない。背筋がまっすぐ立っている。礼装の話をしに来たというより、用件を済ませに来た顔だった。
「お名前を、伺っても?」
「ガレス。叙勲の名簿に載るそうだ。——式は、半月後だ」
ミラは首の巻尺を外した。
巻尺を手にした瞬間、いつものように頭のなかの世辞や気遣いがすっと後ろへ退いていく。残るのは布と体のことだけだ。ガレスの後ろへ回り、肩の線に巻尺をあてた。
布越しに、右肩が伝わってくる。
——固い。
ミラの指が止まった。剣を振る肩は誰でも発達する。だがこの右肩は、そういう次元ではなかった。骨の上に、想像していたよりずっと厚く筋が乗っている。盾を持つはずの左がないぶん、この右だけで剣も盾も担ってきた肩だ。片側だけで、二人ぶんを引き受けてきた肩。
「……すごい肩」
誰に言うともなく、口が動いた。
「右だけで、ぜんぶ。盾も剣も、この一本で。だから前へ張り出して、後ろの肩甲骨がぐっと引き寄せられて——ああ、ずっと力が入ってる。眠ってるときも、たぶん抜けてない」
巻尺が肩から腕へ滑る。ミラは数を木札に刻みながら、もう半分ひとりごとの世界に入っていた。
「左の袖の落ち感。中身がないから、肩の縫い目からただ垂れる。落ち感っていうのは、布が垂れたときの流れ方なんだけど。これが——」
ミラは留め具に留められた左の空袖の布を指で軽くつまんだ。折り畳まれて、胸に押しつけられた布。そのせいで、布の流れが途中で殺されている。
「……もったいない」
ぽつりと、それが出た。
ガレスの右肩が、ぴくりと動いた。
「……何が、だ」
声が低く固くなった。さっきまでの淡々とした響きとは違う。
ミラはつまんだ布から指を離さないまま、首をかしげた。
「この布です。せっかくきれいに落ちる位置にあるのに、無理やり折って留めて、隠してる。布が泣いてます」
「……お針子さん」
ガレスが、椅子の上でゆっくりと振り返った。
目が、刃のように冷えていた。
「言っておくが。俺は、慰めを買いに来たんじゃない。憐れむなら帰ってくれ。俺はまだ、施しを着るほど落ちぶれちゃいない」
部屋の空気が、ひと回り重くなった。
壁際で書類を繰っていたシリルが顔を上げる。場をなだめようと口を開きかけて——けれどミラの様子を見て、その口を閉じた。
ミラは、慰めていなかった。
憐れんでもいなかった。
ミラはガレスの言葉を半分も聞いていなかった。空袖の布をつまんだまま、その布が留め具で殺されている角度をただ職人の目で見ていた。
「……憐れむ?」
ミラは、本当に意味がわからないという顔で顔を上げた。
「あたしは、布の話をしてるんですけど」
ガレスが、虚を突かれたように黙った。
「この左袖、隠そうとするとかえって目立つんです。折って留めて押しつぶすと、そこにだけ布のかたまりができる。式の壇上で光が当たったら、人の目はまずその不自然なふくらみに行きます。——隠すって、そういうことなんで」
ミラは巻尺を首に戻し、ガレスの正面に立った。
「地味に目立たないように、っておっしゃいました。でもいちばん目立たない仕立てって、隠すことじゃないんですよ」
「……何だ、それは」
「堂々と、出すことです」
ガレスの眉が、ぐっと寄った。
「お針子さん。あんた、自分が何を言ってるかわかってるのか」
「わかってます。布の話です」
ミラは、まばたきもせずに言い切った。悪気は、かけらもなかった。
ミラは空の棚しかない小部屋の作業台に、ガレスの採寸の数を並べていった。
右肩の厚み。左肩の落ち。袖丈。腕の振りの角度。木札を順に置きながら頭のなかで布を組み立てていく。ガレスは帰らなかった。帰ると言いながら丸椅子に座ったまま、ミラの手元を見ている。
「……お針子さん」
しばらくしてガレスが固い声で口を開いた。
「俺の腕は、戦で落とした。北の国境だ。退路を断たれた若い兵が、何人か後ろにいた。——それだけだ。手柄でもなんでもない。庇って、片腕で生き延びた。それだけのことを、いまさら式典で褒められる」
ガレスは留め具の左袖に視線を落とした。
「情けの褒美だ。欠けた騎士に、これでも持っておけ、という。だから、せめて目立たず終わらせたい。それの、何がいけない」
ミラは、木札を並べる手を止めなかった。
慰めの言葉は、出てこない。レウベンのときも、そうだった。こういうとき人が何を言ってほしいのか、ミラにはわからない。世辞が言えないのと同じことだ。
代わりに、覚えたことを口にした。
「ガレスさん。さっき採寸したとき、ひとつ嘘をついてる場所がありました」
「嘘?」
「右肩です」
ミラは、自分の右肩に手を当てて見せた。
「あの肩は、剣を振っただけじゃ、ああはなりません。剣だけなら、左にも筋が残るはずなんです。でもガレスさんの左肩は、ほとんど何も担ってきてない。つまりぜんぶ右に寄せて片側だけで——盾を持って、誰かの前に立ってた肩です。あれは、守る側の肩の付き方なんです」
ガレスの右肩が、またわずかに動いた。
「体は、嘘をつかないんです」
ミラは、木札の一枚を指でなぞった。
「ガレスさんが何を思ってるかは、あたしにはわかりません。情けの褒美だって思ってるなら、それはそれでいいんだと思います。でも、あなたの右肩は、そんなふうに付いてないんです。あの肩は——誰かを庇って、片側ぜんぶで二人ぶん担いだ肩の付き方なんです」
部屋が、静かになった。
こての炭火が、しゅうと低く鳴った。
「……あんた」
ガレスが、ようやくぽつりと言った。
「妙な、針子だな」
声から、刃が抜けていた。
翌日から、ミラは布を選んだ。
布蔵の棚から引き抜いてきたのは、深い濃紺の毛織だった。指で挟むと、ずしりと重い。
「目方が、ある布です」
ミラは戸口に立つガレスに布をかざして見せた。
「目方っていうのは、生地の重さのことで。軽い布は、ひらひら泳いで落ち着かない。でもこの布は、重いぶん、垂れたときにまっすぐ下へ落ちます。揺れない。武人の体に、いちばん合う落ち方なんです」
ガレスは布には詳しくないという顔で、それでも黙って聞いていた。
「で、ここからが本題なんですけど」
ミラは布を作業台に広げた。それからガレスの左の——空いた側の肩に布をあてがう。
「ガレスさん。普通の仕立て屋なら、こうします」
ミラは、左の空袖のぶんの布を肩の縫い目のところで詰めて内側へ折り込んだ。布が、肩のすぐ下で途切れ、不格好な段ができる。
「袖を短く詰めて、欠けを隠す。残った袖の中に腕がないのを、なるべく見せない仕立て。——でも、これだと」
ミラはその折り込んだ布を指でぱさりと弾いた。
「そこにだけ、布の段ができるでしょう。光が当たると、影が落ちる。人の目は、整ったものより欠けたものに行くんです。隠せば隠すほど、そこを見られます」
「……ああ」
ガレスが自分の左肩をちらりと見た。
「だから、地味にしてくれと言っても、目立つわけか」
「目立ちます。隠す仕立てっていうのは、本当はいちばん欠けを叫ぶ仕立てなんです」
ミラは折り込んだ布をもう一度まっすぐに直した。
そして空いた左肩から布を——詰めずに長いまま、すらりと垂らした。
「あたしの仕立ては、逆です」
空の袖を、隠さない。
肘の上から下へ、布をまっすぐ落とす。重い濃紺の毛織が、揺れもせずすとんと垂れた。中身がないのに、布の落ち感だけがきれいな一本の線を引いている。
「中身がないのを、長所にします。腕がある側は、布が腕の動きでよじれたりしわが寄ったりする。でも、この左は、何も入ってないから——いちばん布が美しく落ちる。揺れない。崩れない。まっすぐな、一本の線」
ミラの指が、垂れた布の縁をすうっとなぞった。
「あたし、こんなにきれいに落ちる袖を見たことないんです」
ガレスはその垂れた布を、じっと見ていた。
胸の前でずっと折り畳まれ、留め具で押しつぶされていた布。それがようやく、まっすぐに伸びていた。
「これを、見えないように隠すなんて、もったいなさすぎます」
ミラは、布から目を離さずに言った。
「壇上で光が当たったら、この線がいちばんきれいに見えるように組みます。ガレスさんの右の所作——叙勲って、右手で何か受け取るんですよね。剣を返してもらうとか、印を授かるとか。そっちの動きを、いちばん映える形にして。左は、動かない一本の線として横に置く。動く右と、動かない左で、釣り合いを取るんです」
「……釣り合い」
「はい。欠けてるほうを、隠して帳消しにするんじゃなくて。動かない一本の線として、堂々と立たせる。そうすると、見る人の目には——」
ミラはそこで初めて、ガレスの顔を見た。
「腕が一本ないんじゃなくて、まっすぐな線が一本あるように見えます」
ガレスは、答えなかった。
答えなかったが、その右手が無意識に左の空袖の布へ伸びかけて——途中で止まった。いつも隠そうとして折り畳んでいた、その手だった。
その手が宙で迷っていた。
仮縫いの日が来た。
しつけ糸でざっと組んだだけの、まだ服とも呼べない仮の一着。ミラはそれをガレスに着せ、姿見の前に立たせた。
ガレスは、鏡を見ようとしなかった。
「ガレスさん。鏡、見てもらえますか」
「……いい。出来は、あんたに任せる」
「いえ、見てほしいんです。仕立ては、着る人の体で確かめるものなんで」
ガレスはしばらく動かなかった。それから観念したように、ゆっくりと鏡へ顔を向けた。
鏡のなかに、武人が立っていた。
濃紺の仮縫い。右肩はその厚みを殺さずに堂々と張り出している。そして左——空いた左の袖が、肘の上からすとんとまっすぐに垂れていた。隠されていなかった。折り畳まれても、押しつぶされてもいなかった。
ただ一本の線として、そこにあった。
ガレスの呼吸が、止まった。
ミラは、それを見ていなかった。ガレスの左肩の後ろに回り、しつけ糸の縫い目を指で確かめ、「……ん、ここの落ちがあと少し」とひとりごとを言っている。
「……これは」
ガレスの声が、かすれた。
「これは、俺の、腕が——ないように、見えない」
「ないですよ」ミラは、顔も上げずに答えた。「中身は、ありません」
「だが」
ガレスが鏡の左袖を見つめたまま言った。
「だが、これは……欠けて、見えない」
「欠けてません」
ミラは待ち針を一本、布の端に打った。
「線が、一本あるだけです」
ガレスはその鏡を、長いこと見ていた。
胸がゆっくりと上下していた。彼の右手がまた左の袖の布へ伸びる。今度は、折り畳むためではなかった。垂れた布の縁を確かめるようにそっと触れた。揺れない、まっすぐな布。
「……お針子さん」
しばらくしてガレスが低く言った。
「俺は、あの腕を落としてから、人前で左を隠すことばかり考えてきた。袖を折って留めて、できるだけ小さく見せて。憐れまれるのが、嫌でな」
ガレスの目が、鏡から離れなかった。
「だが、隠すほど人は俺の左を見た。あんたの言ったとおりだ。——隠すってのは、いちばん大きく叫ぶことだったんだな」
「布の話です」
ミラは、また同じことを言った。
ガレスが、ふと笑った。今日初めての笑いだった。
「ああ。布の、話だな」
一着が仕上がったのは、式の三日前の朝だった。
濃紺の叙勲礼装。装飾は、抑えてある。けれど、右肩の堂々とした張りと、左の——まっすぐ落ちる一本の線。その対比だけで、目を引いた。
ガレスが袖を通す。右腕を片側だけの動きでゆっくりと。ミラは襟を整え、右肩の収まりを指で一度だけ確かめてから手を離した。
ガレスが、鏡の前に立った。
昨日まで留め具で胸に押しつけられていた左袖は、もうそこにない。代わりに、肘の上から濃紺の布がすとんと一本の線を引いて垂れている。中身がないことを隠していない。むしろそれを、布のいちばん美しい場所にしていた。
ガレスは、背筋を伸ばした。
もともと、彼の背筋はまっすぐだった。武人の体だ。けれど今までは、その背筋の上にいつも左を庇う後ろめたい影が乗っていた。それが、消えていた。
彼は、隠すものをもう持っていなかった。
「……これで」
ガレスが鏡のなかの自分に低く言った。
「これで、壇上に立てる」
その声に、引け目はなかった。
彼は右手をすっと前へ出した。叙勲で印を授かる所作を、鏡の前で確かめるように。右が動くと、左の一本の線が静かにその場に留まる。動く右と、動かない左。ミラの言った釣り合いが、そこにあった。
欠けは、欠けに見えなかった。
一本のまっすぐな線が、そこにあった。
「……俺は」
ガレスが、言った。
「俺は、あの腕であいつらを庇った。手柄じゃないと、ずっと思ってきた。生き延びたことを、恥じてきた。——だが」
彼は左のまっすぐな布の線を、見た。
「この線を、隠さなくていいなら。俺は、これを胸を張って、人前に出せる」
ガレスはそれきり、何も言わなかった。
言葉にするのが、下手な男だった。けれど鏡のなかの彼の右手はもう、左の袖を折り畳もうとはしていなかった。それで十分だった。
ミラは、床に散らばったしつけ糸を拾い集めていた。
顔は、上げない。今のがガレスにとってどういうことなのか、ミラにはよくわからない。ただ左袖の落ち感が、思ったとおりの一本の線になった。揺れない、まっすぐな線。いい仕事をした、と思う。職人が思っていいのは、それくらいのことだ。
立つのは、ガレスの足だ。ミラは、布を組んだだけだった。
部屋の隅でシリルが壁にもたれて、こちらを見ていた。
「……また、やったな」
シリルが、静かに言った。
「あの騎士は、十年、誰の前でも左を隠してきた男だ。それを、あんなにまっすぐ立たせた。慰めも励ましもせずに」
「立たせてません」
ミラは、糸くずを手のひらに乗せたまま答えた。
「あたしは、袖を垂らしただけです。立ったのは、ガレスさんですよ」
シリルがふっと笑った。それから少しだけまぶしいものでも見るような目になって——けれどミラが顔を上げる前に、いつもの薄い笑みに戻していた。
「君は、本当に、自分の手柄にしないな」
「手柄じゃないですから。布の話です」
ミラは立ち上がり、次の糸を拾った。頭の半分はもうガレスの左袖の縁の始末のことを考えている。あそこの落ち際を、あと一目だけ整えておきたかった。
戸口で、ガレスが一度足を止めた。
振り返って、ミラを見る。何か言おうとして、けれど武骨な男にはちょうどいい言葉が見つからないようだった。彼は、左の袖の——まっすぐ落ちる布の線に右手で軽く触れた。それを、ミラに見せるように。
「式が終わったら」
ガレスは、それだけ言った。
「もう一度、ここへ来る。次の式典の礼装も、あんたに頼みたい」
それは、この武人にできる精一杯の礼だった。
ミラは糸くずを握ったまま、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。——あ、そのときは、布蔵の海の向こうの絹もぜひ触ってみてください。すごいんですよ、あれ。落ち方がもう、別格で——」
「……お針子さん」
ガレスが戸口で苦笑した。
「礼装の話を、しに来るんだがな」
「あ。……すみません」
ミラが、慌てて頭を下げ直す。
ガレスは低く短く笑った。そして、戸を開けて出ていった。背筋を伸ばし、左の一本の線をもう隠そうともせずに。
戸が閉まる。
ミラはしばらくその戸を見ていた。それから、ふと首をかしげた。
——半月後の式。壇上には、何人くらいの人が並ぶんだろう。
叙勲だけじゃない。あの広間には、いろんな立場の人が立つはずだ。男ばかりの宮廷に、女の身一つで立つ人だって、きっといる。そういう人の体は、ガレスとはまた別の読み方がいるだろう。
考えていると、また指の先がうずうずしてきた。
次の客は、どんな体をしているだろう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第五話は、片腕を失った老騎士ガレスの叙勲礼装でした。前話のレウベンが「これから立つ若者」だとしたら、ガレスは「一度立った者が、欠けても立ち直る」話にしたくて書きました。同じ「侮られた人が一着で前を向く」でも、その誇りの質を変えたかったんです。
この回の核は、「隠す仕立て」と「生かす仕立て」の対比でした。欠けた袖を詰めて目立たなくしようとすると、かえってそこに段ができて、人の目はそこに行ってしまう。隠すことは、いちばん大きな声で欠けを叫ぶことなんですよね。ミラの答えは逆で、中身のない袖を「いちばん布が美しく落ちる場所」として、まっすぐな一本の線にしてしまう。欠けを帳消しにするのではなく、堂々と主役に据える。これが、ミラの「欠点は隠すものじゃない。いちばん美しい線が、そこにある」という信条そのものでした。
そして大事にしたのは、ミラがガレスを一度も慰めないこと。憐れまない、励まさない。ガレスがいちばん嫌うのが同情だからこそ、ミラは布の話しかしません。「もったいない」「布が泣いてる」。それが、結果として、どんな慰めよりもガレスの誇りを立て直してしまう。立つのは、いつだって本人の足です。ミラは「袖を垂らしただけ」としか思っていません。
ガレスは、これきりのお客さんではありません。またどこかで、彼の背中に会えると思います。どうか気長に、お付き合いください。




