表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
採寸狂のお針子は、最高の一着しか縫わない  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/8

第4話: 王様として立てる服(後)

 しつけ糸だらけの上着は、まだ服とも呼べない。


 粗く縫い合わせただけの仮縫いだ。本縫いの前に形だけを確かめる、仮の一着。白い糸が縦に横に走っている。それを着せられて、レウベンは姿見の前に立っていた。


 猫背のまま。


 仮縫いの間には、年配の侍従と旧臣が数人控えていた。みな腕を組んで、冷えた目で鏡を見ている。市井のお針子が何をしたところで、という顔だ。


「……やっぱり、変だね」


 レウベンが、鏡のなかの自分から目を逸らした。


「肩のところが、こう……前に丸まって。父上は、もっと胸を張って——」


 語尾が、いつものように消えていく。


 ミラは答えなかった。レウベンの背中側に回って、しつけ糸の肩を指でなぞっている。布の下の毛芯の張り。肩の骨の角度。仮縫いの段階で確かめたいのは、寸法より先にここだ。


「……ん。やっぱり前に流れてる」


 誰に言うともなく、口が動く。


「この毛芯。肩や胸に仕込む、張りのことなんですけど。これが前に張ってるから、肩を後ろに引かないと服が落ち着かない。だから無理に胸を張ることになる。借り物の姿勢です」


 指が肩から肩甲骨へ滑った。


「逆にすればいいんだ。張りを前じゃなくて、後ろへ」


 その言葉を、レウベンは別の意味に取ったらしい。言われたとおりにしようと背筋を伸ばし、胸を張って肩を後ろへ引いた。


 とたんに、仮縫いの上着が肩で突っぱった。布が首の後ろで浮き、襟が片側だけ持ち上がる。鏡のなかの姿は、さっきよりよほど不格好だった。


「……ほら」


 旧臣の一人が、聞こえよがしに息を吐いた。


「結局、こうなる。能書きをいくら並べたところで、まっすぐにならんものは、ならんのだ」


 レウベンが、はじかれたように胸を緩めた。緩めればまた猫背に戻る。伸ばせば浮く。戻せば丸まる。逃げ場のない体だった。


 その肩がまた小さく縮こまる。叱られると思って身構える、いつものあの動きだ。ミラの指が、それを拾う。


「……いいんだ、ミラ」


 レウベンが、力なく笑った。


「無理を言ってるのは、わかってる。猫背は隠せないよね。こんな背中じゃ、王らしくは立てない」


 旧臣の誰かが、鼻で笑った。同意の笑いだった。


 ミラは、口にくわえていた待ち針を布の端へ一本打った。


 顔は上げない。


「お作りするのは、王様に見せる服じゃありません」


 もう一本、打つ。


「——あなたが、王様として立てる服です」


 部屋が静かになった。


 ミラはそれきり何も説明しなかった。説明することなんて何もない。布があとで全部喋る。




 くせ取りには、何日もかかる。


 三日目の昼だった。工房の戸が、遠慮がちに叩かれた。


 レウベンだった。供も連れず、地味な上着を一枚羽織っただけの姿で。


「……邪魔、かな」


「邪魔です」


 ミラは手を止めずに答えた。こての蒸気が、しゅう、と低く鳴る。


「でも立ってるぶんには、かまいません。そこ、座れますよ」


 レウベンは隅の丸椅子に、小さく腰かけた。ミラがこてを当てるたび、平らだった布の肩がゆっくり丸みを帯びていく。それをめずらしそうに見ている。


「……それ、何をしてるの」


「くせ取りです」


 ミラはこてを置き、布の肩を指で押した。さっきまで平らだったところが、人の肩みたいにふっくらと盛り上がっている。


「布はまっすぐ織られてます。でも人の体は、まっすぐじゃない。肩は丸いし、背は反ってる。だから、まっすぐな布のほうを、あなたの体に合わせて曲げてやるんです。羊の毛は、熱と水で押された形を覚えるので」


「……布が、僕の形を、覚える」


「そうです」


 レウベンが、自分の肩に手をやった。それから、ぽつりと言った。


「……どうして、僕の背中を伸ばそうとしないの。みんな、伸ばせって言うのに」


 ミラは少し考えて、布の肩をもう一度なでた。


「伸ばしたら、別の人の背中になるからです」


 こてを持ち直す。


「あなたの背中は、長いことかけて、その形になったんでしょう。一日や二日じゃ、ああはならない。それを無理にまっすぐにするのは、嘘の体を作るのと同じです。嘘の体に合わせた服は、嘘の服になる」


 しばらく、こての音だけが続いた。


「……父上は、英雄だった」


 やがて、レウベンが言った。


「剣で国を守って、みんなが讃えた。僕には剣は振れない。武勲も立てられない。だから誰も、僕が王になることを喜んでいないんだ。……たぶん、僕自身も」


 ミラは、手を止めなかった。慰めの言葉は出てこない。世辞が言えないのと同じで、こういうときに掛ける言葉を、ミラは持っていない。


 代わりに、覚えたことを口にした。


「あたしは、王様のことはわかりません。剣のことも」


 こての蒸気が、ひと筋立ちのぼる。


「でも、この前あなたを採寸したとき。背中が伸びた瞬間が、一度だけありました。北の村の話をしたときです。体は、嘘をつかない。あなたが本当にまっすぐ立てるのは、たぶん、そっちなんだと思います」


「……そっち、って」


「剣の上じゃなくて」


 ミラは布の肩に、また蒸気をあてた。


「誰かの暮らしの、上に」


 レウベンは、何も言わなかった。


 ミラのほうも、もう次のことを考えていた。蒸気をあてた肩の丸みに鼻を近づけ、指で打ち込みを確かめ、「……ん、いい感じ」と誰にともなく呟いている。たった今、王の心に触れたことなど、すっかり頭から抜けている様子だった。


 その横顔を、レウベンはしばらく見ていた。やがて、ふ、と肩の力が抜けたように、小さく笑う。


「……君は、本当に、変わってるね」


「布のことしか、考えてませんから」


 ミラは、顔も上げずに答えた。


 それが、レウベンにはどこか救いであるようだった。


 丸椅子の上で、レウベンの背筋が、ほんの少しだけ伸びた。ミラはもう布に戻っていて、その背中を見てはいない。




 毛芯の張りを後ろへ流す仕立ては、思っていたよりずっと難しかった。


 肩の前を立てるのは、誰でもやる。教わったとおりにすればいい。けれど後ろへ流すとなると、手本がない。ミラは何度も仮縫いを解いては組み直した。蒸気で布を曲げ、指で確かめてはまた解く。夜が更けても手は止まらない。指の腹が、針の頭で赤くなった。


 一着が仕上がったのは、それから五日後の朝だった。


 深い藍の上着。飾りは、ほとんどない。


 レウベンが袖を通す。ミラは襟を整え、肩の収まりを一度だけ指で確かめた。そして、手を離した。


 レウベンは、猫背のままだった。背筋を伸ばしてもいない。胸も張っていない。


 けれど——肩の線が、首の付け根から、まっすぐ前へ伸びている。布が、彼の代わりに立っていた。


 鏡のなかの若い男は、うつむいているのに、うつむいて見えなかった。誰かのために身を低くしてきた、その姿勢のままで、まっすぐ前を見ていた。


 さっきまで鼻で笑っていた旧臣たちが、誰も何も言わなかった。笑える者は、一人もいなかった。


 侍従が、口を開けたまま、何も言えずにいる。


 旧臣たちの腕が、いつのまにかほどけていた。


 レウベンが、鏡に近づく。自分の肩にそっと触れた。それから——誰に言われたわけでもなく、ほんの少しだけ、自分からあごを上げた。


 ほんの少し。けれど、確かに。


「……これ、なら」


 レウベンの声が、震えていた。


「これなら、僕は。——北の村の話を、胸を張ってできる気がする」


 その声は、もう途切れなかった。あの日、採寸で拾ったまっすぐな声だった。背筋も、声も。




 ミラは、床に落ちたしつけ糸を拾い集めていた。


 顔は上げない。今のがどれだけのことなのか、ミラにはよくわからない。ただ、肩の収まりが思ったとおりになった。それだけだ。いい仕事をした、と思う。職人が思っていいのは、それくらいのことだ。


 部屋の隅で、シリルが壁にもたれて、こちらを見ていた。


 いつものからかいの顔ではない。何か、まぶしいものでも見るような——けれどミラが顔を上げたときには、もう、いつもの薄い笑みに戻っていた。


「……見事だ」


 シリルが静かに言った。


「陛下をまっすぐ立たせた仕立て師は、君が初めてだよ」


「立たせてません」


 ミラは、糸くずを手のひらに乗せたまま答えた。


「あたしは、肩を組んだだけです。立ったのは、陛下」


 シリルが、ふっと笑った。それから、なぜか少しだけ泣きそうな顔をして、すぐにそれを隠した。


 ミラには、その意味がわからなかった。


 ——わからないことは、追わない。


 ミラは立ち上がり、次の糸を拾った。頭の半分は、もう藍の上着の裾のことを考えている。あそこの始末を、もう一目だけ詰めておきたい。


 戴冠式まで、あと三月みつき


 この藍の一着は、その日のための、ほんの始まりにすぎなかった。


 ——この先もっと重い一着が、自分の肩にのしかかってくることを、ミラはまだ知らない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第四話、ミラが若き王レウベンの一着を仕上げる回でした。この物語でいちばん書きたかったのが、この「猫背を直さず、写し取る」という仕立てです。欠点を矯正するのではなく、その人がなぜそういう体になったのかを読んで、それごと美しく見える形に組む。レウベンの猫背は、彼がずっと誰かのために身を低くしてきた、優しさの名残でした。だからミラは、それを伸ばさなかった。


「あなたを王様に見せる服じゃない。あなたが、王様として立てる服を」——この一言を書くために、ここまでの三話があったような気がします。


そしてミラは、自分が立たせたとは思っていません。「肩を組んだだけ。立ったのは陛下」。立つのは、いつだって本人の足ですから。その不器用なストイックさが、私はとても好きです。


次回からは、ミラの仕立てる客が、一人ずつ増えていきます。どうか、お付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ