第4話: 王様として立てる服(後)
しつけ糸だらけの上着は、まだ服とも呼べない。
粗く縫い合わせただけの仮縫いだ。本縫いの前に形だけを確かめる、仮の一着。白い糸が縦に横に走っている。それを着せられて、レウベンは姿見の前に立っていた。
猫背のまま。
仮縫いの間には、年配の侍従と旧臣が数人控えていた。みな腕を組んで、冷えた目で鏡を見ている。市井のお針子が何をしたところで、という顔だ。
「……やっぱり、変だね」
レウベンが、鏡のなかの自分から目を逸らした。
「肩のところが、こう……前に丸まって。父上は、もっと胸を張って——」
語尾が、いつものように消えていく。
ミラは答えなかった。レウベンの背中側に回って、しつけ糸の肩を指でなぞっている。布の下の毛芯の張り。肩の骨の角度。仮縫いの段階で確かめたいのは、寸法より先にここだ。
「……ん。やっぱり前に流れてる」
誰に言うともなく、口が動く。
「この毛芯。肩や胸に仕込む、張りのことなんですけど。これが前に張ってるから、肩を後ろに引かないと服が落ち着かない。だから無理に胸を張ることになる。借り物の姿勢です」
指が肩から肩甲骨へ滑った。
「逆にすればいいんだ。張りを前じゃなくて、後ろへ」
その言葉を、レウベンは別の意味に取ったらしい。言われたとおりにしようと背筋を伸ばし、胸を張って肩を後ろへ引いた。
とたんに、仮縫いの上着が肩で突っぱった。布が首の後ろで浮き、襟が片側だけ持ち上がる。鏡のなかの姿は、さっきよりよほど不格好だった。
「……ほら」
旧臣の一人が、聞こえよがしに息を吐いた。
「結局、こうなる。能書きをいくら並べたところで、まっすぐにならんものは、ならんのだ」
レウベンが、はじかれたように胸を緩めた。緩めればまた猫背に戻る。伸ばせば浮く。戻せば丸まる。逃げ場のない体だった。
その肩がまた小さく縮こまる。叱られると思って身構える、いつものあの動きだ。ミラの指が、それを拾う。
「……いいんだ、ミラ」
レウベンが、力なく笑った。
「無理を言ってるのは、わかってる。猫背は隠せないよね。こんな背中じゃ、王らしくは立てない」
旧臣の誰かが、鼻で笑った。同意の笑いだった。
ミラは、口にくわえていた待ち針を布の端へ一本打った。
顔は上げない。
「お作りするのは、王様に見せる服じゃありません」
もう一本、打つ。
「——あなたが、王様として立てる服です」
部屋が静かになった。
ミラはそれきり何も説明しなかった。説明することなんて何もない。布があとで全部喋る。
くせ取りには、何日もかかる。
三日目の昼だった。工房の戸が、遠慮がちに叩かれた。
レウベンだった。供も連れず、地味な上着を一枚羽織っただけの姿で。
「……邪魔、かな」
「邪魔です」
ミラは手を止めずに答えた。こての蒸気が、しゅう、と低く鳴る。
「でも立ってるぶんには、かまいません。そこ、座れますよ」
レウベンは隅の丸椅子に、小さく腰かけた。ミラがこてを当てるたび、平らだった布の肩がゆっくり丸みを帯びていく。それをめずらしそうに見ている。
「……それ、何をしてるの」
「くせ取りです」
ミラはこてを置き、布の肩を指で押した。さっきまで平らだったところが、人の肩みたいにふっくらと盛り上がっている。
「布はまっすぐ織られてます。でも人の体は、まっすぐじゃない。肩は丸いし、背は反ってる。だから、まっすぐな布のほうを、あなたの体に合わせて曲げてやるんです。羊の毛は、熱と水で押された形を覚えるので」
「……布が、僕の形を、覚える」
「そうです」
レウベンが、自分の肩に手をやった。それから、ぽつりと言った。
「……どうして、僕の背中を伸ばそうとしないの。みんな、伸ばせって言うのに」
ミラは少し考えて、布の肩をもう一度なでた。
「伸ばしたら、別の人の背中になるからです」
こてを持ち直す。
「あなたの背中は、長いことかけて、その形になったんでしょう。一日や二日じゃ、ああはならない。それを無理にまっすぐにするのは、嘘の体を作るのと同じです。嘘の体に合わせた服は、嘘の服になる」
しばらく、こての音だけが続いた。
「……父上は、英雄だった」
やがて、レウベンが言った。
「剣で国を守って、みんなが讃えた。僕には剣は振れない。武勲も立てられない。だから誰も、僕が王になることを喜んでいないんだ。……たぶん、僕自身も」
ミラは、手を止めなかった。慰めの言葉は出てこない。世辞が言えないのと同じで、こういうときに掛ける言葉を、ミラは持っていない。
代わりに、覚えたことを口にした。
「あたしは、王様のことはわかりません。剣のことも」
こての蒸気が、ひと筋立ちのぼる。
「でも、この前あなたを採寸したとき。背中が伸びた瞬間が、一度だけありました。北の村の話をしたときです。体は、嘘をつかない。あなたが本当にまっすぐ立てるのは、たぶん、そっちなんだと思います」
「……そっち、って」
「剣の上じゃなくて」
ミラは布の肩に、また蒸気をあてた。
「誰かの暮らしの、上に」
レウベンは、何も言わなかった。
ミラのほうも、もう次のことを考えていた。蒸気をあてた肩の丸みに鼻を近づけ、指で打ち込みを確かめ、「……ん、いい感じ」と誰にともなく呟いている。たった今、王の心に触れたことなど、すっかり頭から抜けている様子だった。
その横顔を、レウベンはしばらく見ていた。やがて、ふ、と肩の力が抜けたように、小さく笑う。
「……君は、本当に、変わってるね」
「布のことしか、考えてませんから」
ミラは、顔も上げずに答えた。
それが、レウベンにはどこか救いであるようだった。
丸椅子の上で、レウベンの背筋が、ほんの少しだけ伸びた。ミラはもう布に戻っていて、その背中を見てはいない。
毛芯の張りを後ろへ流す仕立ては、思っていたよりずっと難しかった。
肩の前を立てるのは、誰でもやる。教わったとおりにすればいい。けれど後ろへ流すとなると、手本がない。ミラは何度も仮縫いを解いては組み直した。蒸気で布を曲げ、指で確かめてはまた解く。夜が更けても手は止まらない。指の腹が、針の頭で赤くなった。
一着が仕上がったのは、それから五日後の朝だった。
深い藍の上着。飾りは、ほとんどない。
レウベンが袖を通す。ミラは襟を整え、肩の収まりを一度だけ指で確かめた。そして、手を離した。
レウベンは、猫背のままだった。背筋を伸ばしてもいない。胸も張っていない。
けれど——肩の線が、首の付け根から、まっすぐ前へ伸びている。布が、彼の代わりに立っていた。
鏡のなかの若い男は、うつむいているのに、うつむいて見えなかった。誰かのために身を低くしてきた、その姿勢のままで、まっすぐ前を見ていた。
さっきまで鼻で笑っていた旧臣たちが、誰も何も言わなかった。笑える者は、一人もいなかった。
侍従が、口を開けたまま、何も言えずにいる。
旧臣たちの腕が、いつのまにかほどけていた。
レウベンが、鏡に近づく。自分の肩にそっと触れた。それから——誰に言われたわけでもなく、ほんの少しだけ、自分から顎を上げた。
ほんの少し。けれど、確かに。
「……これ、なら」
レウベンの声が、震えていた。
「これなら、僕は。——北の村の話を、胸を張ってできる気がする」
その声は、もう途切れなかった。あの日、採寸で拾ったまっすぐな声だった。背筋も、声も。
ミラは、床に落ちたしつけ糸を拾い集めていた。
顔は上げない。今のがどれだけのことなのか、ミラにはよくわからない。ただ、肩の収まりが思ったとおりになった。それだけだ。いい仕事をした、と思う。職人が思っていいのは、それくらいのことだ。
部屋の隅で、シリルが壁にもたれて、こちらを見ていた。
いつものからかいの顔ではない。何か、まぶしいものでも見るような——けれどミラが顔を上げたときには、もう、いつもの薄い笑みに戻っていた。
「……見事だ」
シリルが静かに言った。
「陛下をまっすぐ立たせた仕立て師は、君が初めてだよ」
「立たせてません」
ミラは、糸くずを手のひらに乗せたまま答えた。
「あたしは、肩を組んだだけです。立ったのは、陛下」
シリルが、ふっと笑った。それから、なぜか少しだけ泣きそうな顔をして、すぐにそれを隠した。
ミラには、その意味がわからなかった。
——わからないことは、追わない。
ミラは立ち上がり、次の糸を拾った。頭の半分は、もう藍の上着の裾のことを考えている。あそこの始末を、もう一目だけ詰めておきたい。
戴冠式まで、あと三月。
この藍の一着は、その日のための、ほんの始まりにすぎなかった。
——この先もっと重い一着が、自分の肩にのしかかってくることを、ミラはまだ知らない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第四話、ミラが若き王レウベンの一着を仕上げる回でした。この物語でいちばん書きたかったのが、この「猫背を直さず、写し取る」という仕立てです。欠点を矯正するのではなく、その人がなぜそういう体になったのかを読んで、それごと美しく見える形に組む。レウベンの猫背は、彼がずっと誰かのために身を低くしてきた、優しさの名残でした。だからミラは、それを伸ばさなかった。
「あなたを王様に見せる服じゃない。あなたが、王様として立てる服を」——この一言を書くために、ここまでの三話があったような気がします。
そしてミラは、自分が立たせたとは思っていません。「肩を組んだだけ。立ったのは陛下」。立つのは、いつだって本人の足ですから。その不器用なストイックさが、私はとても好きです。
次回からは、ミラの仕立てる客が、一人ずつ増えていきます。どうか、お付き合いください。




