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採寸狂のお針子は、最高の一着しか縫わない  作者: 歩人


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第3話: 王様に見せる服はいらない(前)

 その背中は、十九年ぶん下を向いていた。


 部屋に通された瞬間に、ミラはそれを見て取った。窓を背にして立つ若い男。仕立てのいい王太子の正装を着ているのに、服に着られている。肩がうちへ巻いている。首が前へ落ちて、背骨はずっと何かに耐えるような形で固まっていた。


 一日や二日で、ああはならない。長い年月をかけて少しずつ、下を向く癖が骨に染み込んだ体だ。


「……お連れしました、陛下。例の仕立て師です」


 シリルがミラの背をそっと押した。ここまで案内してきた彼は、もう総監督の顔をしている。部屋の隅には、年配の侍従が二人控えていた。値踏みするような目で、ミラを見ている。


 若い男——この国の次の王が、おずおずと顔を上げた。


「……はじめまして。レウベン、です。あなたが、僕の服を」


 語尾が消えていく。自信のない声だった。


 ミラはきちんと頭を下げてから、首にかけた巻尺を外した。ガチガチに固まっている肩を見ると、早く楽にしてあげたくなる。


「採寸します。少しだけ、触りますね。——力を抜いて、立ってるだけで大丈夫ですから」


「……は、はい」


 ミラはレウベンの背後に回り、肩から採寸を始めた。巻尺を当てるまでもなく、指が先に答えを拾っていく。布越しに、肩の骨の角度が伝わる。胸のあたりで上着がわずかに浮いていた。誰かの体に合わせた既製の正装を、無理に着ているのだ。右の肩が左より落ちている。利き手のせいではない。これは人前で身を縮める癖だ。誰かに叱られるのを待っている、そういう肩の据わりだった。


 指の下で、若い王の体がわずかにこわばった。叱られると思って身構える、小さな動き。それが伝わってきて、ミラの胸の奥が、ちくりとした。




「……ああ、これ。ずっと、誰かと比べられてきた背中だ」


 半分、ひとりごとだった。


 採寸に入ると、ミラの頭は相手の体のことでいっぱいになって、まわりがすっかり見えなくなる。気づいたことが、考えるより先に、口からこぼれ出ていく。


「立派な人の隣に並ばされて、いつも自分のほうが小さいって、思い続けた肩。背骨の固まり方が、そう言ってる。……たぶん、お父さんと、比べられて」


 布越しに骨の角度をなぞりながら、ミラはもう、自分が王宮にいることも、目の前の人が誰なのかも、忘れていた。


 部屋の空気が、凍った。


「——無礼者っ」


 侍従の一人が声を荒げた。


「陛下に向かって、なんという口を! 下町の針子ふぜいが、亡き陛下を引き合いに出すなど——」


 その声で、ミラはようやく我に返った。


 あ。


 いま自分が何を言ったのか。ここがどこで、目の前の人が誰なのか。布のことに気を取られると、いつもこれだ。下町なら笑って済んだことが、ここでは済まない。


「……あ。すみません」


 ミラはぎこちなく頭を下げた。それから何か取り繕おうとして、口を開いた。


「えっと……でも、陛下、骨はいいです。すごく、いい骨だと思います」


「……骨」


「うん。まっすぐな、いい骨です」


 侍従が額に手を当てた。シリルが部屋の隅で小さく噴き出すのを、ミラは横目で見た。フォローになっていない。自分でも、わかっていた。


 ところが。


「……ふ」


 レウベン本人が、小さく笑っていた。目元がふっとやわらぐ。緊張で強張っていた頬が、初めてほどけたように見えた。


「いいんだ、ハンス。怒らないで」


 若い王は、窘めた侍従をやわらかく制した。


「久しぶりだ。僕の前でこんなに正直に喋る人は。——骨は、いいか。父上にも言われたことのない褒め方だ」


 その声に、咎める色はなかった。むしろ、どこかほっとした響きがあった。ミラは少し、肩の力を抜いた。この王様はたぶん、怒るのが下手な人なのだ。




「ねえ」


 ミラは採寸を続けながら尋ねた。今度は、言葉を選んだ。選んだつもりだった。


「陛下は、何か、夢中になれることはありますか? 怒られるのが、怖くないこと」


 レウベンは、しばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「……民の、暮らし」


 その瞬間だった。


 ミラの指の下で、体が変わった。首の後ろの筋が、ほんの数呼吸ぶんゆるむ。落ちていた右の肩が、わずかに左へ揃おうとする。若い王の背中が、自分の意思とは関係なく、ほんの少し伸びた。


「北の村が、去年の不作からまだ立ち直っていない。報告を読むたびに、いてもたってもいられなくなる。税を軽くして、麦の種を配って、井戸を直して……北のある集落では、井戸がひとつ涸れただけで、去年の冬に三人が亡くなった。報告書のその一行が、頭から離れないんだ。父上のように剣で国を守ることは、僕にはできない。でも、それくらいなら、僕にもできる」


 語尾が、消えなかった。


 さっきまでおずおずと途切れていた声が、民の話になったとたん、最後までまっすぐ立っていた。背筋も、声も。


 ミラは、巻尺を持つ手を止めた。


 指の先が、勝手に動かなくなっていた。考えるより先に、体が「これだ」と言っている。職人の手が本物を拾ったとき、いつもそうなる。


 ——見つけた。


 この人の、立てる形を。


 猫背は欠点じゃない。この人がずっと、誰かのために身を低くして、人の痛みに耳を傾けてきた、その姿勢の名残だ。だったらそれを伸ばす必要はない。その背中のまま、まっすぐ前を向ける一着を作ればいい。


「……よし、決めました」


 ミラはレウベンの正面に回った。


「陛下の猫背は、直しません」


「……え?」


 レウベンが目を丸くした。侍従たちも、ぎょっとした顔をしている。戴冠式の正装で、王の猫背を直さないと職人が言ったのだ。当然だった。


「みんな、陛下を『まっすぐ立たせよう』とします。胸を張れ、堂々としろ、王らしくしろって。でも、無理にまっすぐにした背中は、よけい不格好になるんです。借り物の姿勢だから」


 ミラは自分の肩に手を当てて、わざと胸を反らしてみせた。ぎくしゃくと、不自然に。


「こうなります。陛下が今、宮廷でやってるみたいに」


 それから、手を下ろした。


「あたしがお作りするのは、陛下を王様に見せる服じゃありません」


 ミラはそこで一度、言葉を切った。


 いちばん大事なことは、まだ形になっていない。布も裁っていない。ただ頭のなかでは、毛芯の張りを肩の前ではなく後ろへ流す形が、もう半分だけ動きはじめている。だから今は、半分だけ言うことにした。


「陛下の背中を、敵にしない服です。それが何なのかは——出来上がってのお楽しみ」


 レウベンは、しばらくミラを見つめていた。それから、ほんの少しだけ、自分から顎を上げた。ほんの少しだけ。けれど確かに。




 採寸が終わると、シリルが部屋の外までミラを送った。


 長い廊下を歩きながら、彼はめずらしく、何も茶化さなかった。


「……驚いたな」


 やがて、そう言った。


「あの方が人前であんなに喋ったのを、私は初めて見た。歴代の仕立て師は皆、陛下をまっすぐ立たせることに必死だった。誰も、あの猫背を活かそうとは思いつかなかった」


「直すより、活かすほうが、難しいんです」


 ミラは首にかけた巻尺を指でなぞった。採寸した数字は、もう全部頭のなかにある。あとは、布だ。


「でも、難しいほうが、ちゃんとその人のものになります」


 シリルが足を止めた。


 その横顔に、また、あの目がよぎった。前にヴェラの名を出したとき見せたのと同じ——探るような、痛いものを見るような目が。


 けれどミラは、もう気づいていた。この男はこういう目をするとき、何かをこらえている。だから今度も、追わなかった。


三月みつき、でしたね」


 代わりに、ミラはそう言った。


「戴冠式まで。なら、急がないと。あの一着は、たぶんあたしが今まで縫った、どれより難しい。——でも、こういうの、嫌いじゃないんです」


 シリルは、何も言わなかった。ただ、ミラを見ている。


 ヴェラの名を出したときの、あの痛そうな目じゃない。もっとやわらかい、温かいものを見るような目だ。——なんだろう。あたし、布の話、また変だったかな。


 ミラは小さく首をかしげた。けれど、その答えを考えるより先に、頭はもう次のことでいっぱいになっていた。


 窓の外で、初夏の光が王宮の白い壁に跳ねていた。


 どの布を使うか。肩の前と後ろで、芯の張りをどう変えるか。ミラの頭のなかでは、まだ裁ってもいない一着が、もう半分組み上がりはじめていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第三話、ついに「いちばん自分の立ち方に自信のない人」——若き王レウベンの登場です。


この物語でずっと書きたかったのが、この「猫背を直さない」という考え方でした。欠点を矯正するのではなく、その人がなぜそういう体になったのかを読んで、それごと美しく見える形に組む。レウベンの猫背は、彼がずっと誰かのために身を低くしてきた、優しさの名残なんですよね。それを「伸ばせ」と言うのは、彼の生き方を否定することだと、ミラは考えたわけです。


ミラが王様相手に失言して侍従に怒られる場面、書いていて楽しかったです。彼女は決して無礼な人ではなくて、ただ布と体に夢中になると、まわりが見えなくなるだけ。怒られたらちゃんと「すみません」と言える。ただ、フォローは壊滅的に下手。「骨はいい」はないですよね。


そして、レウベンが民を語るときだけ背筋が伸びる——あの一瞬を、ミラの指が拾います。次回、その「立てる形」が、一着になります。どうか、お付き合いください。

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