第2話: 衣装宮の手抜き
王宮の布は、いい匂いがしなかった。
馬車を降りて衣装宮の大扉をくぐった瞬間、ミラの鼻はそれを嗅ぎ取った。下町の店に染みついた、古い羊毛と蜜蝋と炭火の匂い。あれがない。代わりに漂っているのは、新しい布の糊の匂いと、香を焚きしめた匂いだけだ。
布が、呼吸をしていない。
ミラは大広間を見回した。天井は高く、磨かれた窓から午後の光が斜めに差している。棚という棚に、色とりどりの反物が積まれている。下町の店の十倍、いや、百倍はある。奥では何十人もの職人が、うつむいて同じ手つきで針を動かしていた。
それなのに足が浮き立たなかった。
壁際に、仕立て上がった礼服がずらりと吊られている。ミラはそのうちの一着に、吸い寄せられるように近づいた。
深い臙脂の上着。金糸の縁取り。遠目には、立派だ。
指で襟をつまんだ瞬間に、わかった。
「……これ、誰の体にも合ってない」
ひとりごとのつもりだった。だが、すぐ後ろで声がした。
「ほう。市井のお針子さんは、吊るしの一着を見て、ずいぶんなことを言う」
振り返ると、白髪まじりの男が立っていた。年は五十の半ばあたり。仕立てのいい工房着を隙なく着こなしている。腕の太さは、若い頃に布を裁ち続けた職人のものだ。けれど今その手が握っているのは、鋏ではなく帳面と筆だった。
「ゴドーだ。衣装宮の、上級職人を束ねている」
「ミラ、と申します」
ぺこ、と頭を下げる。それから、手のなかの臙脂の襟を男のほうへ、少し持ち上げてみせた。世辞は下手でも、布のことなら、ちゃんと言葉が出てくる。
「この襟、毛芯——胸や襟に張りを持たせる芯地が、まっすぐ入りすぎています。人の体は平らじゃありません。胸はふくらんで、肩は丸い。なのにこの芯は、板みたいに通してある。だから着た人の胸で、布がここで浮くんです」
ミラは襟の一点を指で押した。
「型紙が決まっていて、誰が着るか決める前に縫ってある。だから、合いません。誰にも、ちょっとずつ合わないんです」
ゴドーの目が、すっと細くなった。
「嬢ちゃん。その一着で、何人が困った? 一人もいやしないよ」
帳面の角で、男は吊るされた礼服の列を示した。
「規格をいくつか決めて、裁ち係、縫い係、仕上げ係で分けて流す。見込みで縫い溜めて、注文が来たら当人に合わせて少し直す。それで、衣装宮は王都じゅうの貴族の式服をまかなえてる。一着に何日もかけてたら、宮廷の行事は回らんのだ」
「速いのは、わかります」
ミラは襟から手を離した。
「でも、それは誰の服でもありません」
しばらく、大広間が静かになった。
遠くで、縫い係の針が布をくぐる微かな音がいくつも重なって響いている。たくさんの手が、たくさんの布を、同じ型で縫っている音だ。ミラの耳には、それがどこか寂しい音に聞こえた。
「……威勢のいいことだ」
ゴドーは、ふっと鼻で笑った。怒ってはいない。ただ、相手にしていない笑い方だった。
「総監督が、市井からどんな逸材を連れてくるかと思えば。理想で飯が食えると思ってる、子どもじゃないか」
男は帳面を小脇に挟んだ。そのとき、吊るされた臙脂の上着の袖に指先が触れた。布の良し悪しを確かめる、職人の手つきだった。ほんの一瞬。それから男は、もう用は済んだとばかりに背を向けた。
「いいか、嬢ちゃん。理想は結構。だが理想は、いずれ皆を巻き込んで沈むぞ」
その背中が、縫い係の並ぶ奥へ消えていく。
ミラは、別に腹を立てなかった。言われたことの半分は、たぶん正しい。一着に何日もかけるミラのやり方では、この広間を埋める数の服は、とても縫えない。
ミラは腰帯の鋏に無意識に手をやった。冷たい鋼の感触が、指に馴染んでいる。それだけで少し自分の足元が戻ってきた気がした。
ただ。
ミラはもう一度、吊るされた臙脂の上着に目をやった。立派で、金がかかっていて、誰の味方にもならない一着に。
——ヴェラなら、これを見て、なんて言っただろう。
考えても、答えてくれる人は、もういない。
「気に入ったかな。うちの工房は?」
声に振り返ると、シリルが立っていた。
昨日の安い麻の上着は、もうどこにもない。今日の彼は、衣装宮の総監督の装いだった。濃紺の長上着に、銀の留め金。背筋の伸びた立ち姿は、昨日ミラが肩の据わりで見抜いたとおり、どう見ても上の人のものだ。
「シリルさん、昨日とは別人みたいですね」
「服が違うからね。人は、服で変わる」
「変わりませんよ」
ミラはシリルの肩のあたりを、じっと見た。見て、つい、口が動いた。
「シリルさんの上着も、手抜きです」
シリルの片眉が、わずかに上がった。
「……ほう」
「肩の返り——肩から腕へ落ちる、布の折り返しのところ。ここ、シリルさんの肩の形に組んでません。既製の型のまま、無理に着てる。だから腕を上げると、ここで一回、布がつっかえるんです。総監督の服がこれって、どうなんですか?」
言ってしまってから、ミラは少しだけ口をつぐんだ。
これは、たぶん失礼にあたる。総監督の身なりに、初日のお針子が文句をつける。下町ならともかく、ここは王宮だ。
「……えっと」
ミラは、何か取り繕おうとした。
「……でも、布の色は、いいと思います。シリルさんに、お似合いです」
「フォローが下手だな」
シリルが、声を出して笑った。やはり、咎める気配はかけらもない。むしろ、ミラの不器用さそのものを面白がっているようだった。
「いいんだ。そのとおりだから。——私の服も、見込みで縫ったものを直しただけだ。この工房で、私一人のために組まれた服なんて、もう何年も袖を通していない」
その言い方に、ほんの少し引っかかるものがあった。
欲しくないのではなく、もう手に入らない。そんな響きだった。けれどミラは、それを深くは追わなかった。人の声の裏にあるものは、布の打ち込みみたいに指で確かめられるものではない。
ただ、首にかけた巻尺を、ミラの指が知らず知らずなぞっていた。
「直します」
代わりに、ミラはそう言った。
「シリルさんの、その肩の返り。あたしが組み直します。一回ほどいて、肩の形に縫い直す。そのほうが、ずっと楽に腕が上がりますよ」
シリルが、少しのあいだ、黙ってミラを見た。
それから、ふっと表情をやわらげた。
「……君は、本当に、布のことしか見ていないな」
「布と、体です」
「そうだったね」
仕事場へ向かう途中、シリルが廊下の扉をひとつ開けた。
「約束しただろう。布は、好きに使っていい」
その先を見て、ミラの足が止まった。
布蔵だった。天井まで届く棚に、反物が隙間なく詰まっている。北の毛織、光を吸う黒の天鵞絨。そして棚のいちばん上に、見たことのない艶の一反。
「……あれ、海の向こうの絹だ」
気づいたときには、もう梯子に手をかけていた。
「あれだけ、触らせて。——横糸の打ち込みが、こっち向きなの。わかる? こんな織り方する工房、海を渡った先にしか、ないんだよ……」
反物を抱えて頬ずりを始めたところで、ミラはようやく、自分が梯子の上にいることを思い出した。ここが王宮で、すぐ下に総監督が立っていることも。
耳が、熱くなる。
「……すみません。布があると、つい」
「知ってるよ」
シリルは、こらえきれないという顔で笑っていた。
工房の奥に、ミラの仕事場が用意されていた。
大広間の喧騒からは少し離れた、小さな一室。窓が一つあって、午後の光がよく入る。作業台と、裁ち板と、糸を掛ける棚。それだけの簡素な部屋だが、傾いた光が埃を浮かべて静かに満ちていた。
棚はまだ空っぽだった。これを自分の布で埋めていくのだと思うと、ミラはほんの少し楽しみになった。
ミラは荷物を解いた。持ってきたものは、多くない。自分の鋏。待ち針。巻尺。そして、ヴェラの遺した、すり減った木のへら。
へらを作業台に置く。指が、すり減った木目をなぞった。ヴェラの手が十年かけて削った窪み。そこに自分の指を当ててみると、ほんの少しだけ大きい。握れば手に馴染むのに、窪みそのものには、まだ届かない。
その窪みに触れていると、ふと訊いてみたくなった。
「ねえ、シリルさん。ヴェラを、知ってましたか?」
シリルの手が、書類をめくる途中で止まった。一拍おいて、何事もなかったようにまた紙が繰られる。けれどその指は、めくる必要のない一枚をわざわざもう一度ずらした。
ほんの一瞬だった。瞬きをするより短い、わずかな間。けれどミラの目は布の歪みを拾うのと同じように、その不自然な静止を拾ってしまった。
「……どうして」
「昨日、あたしがヴェラの口癖を言ったとき、シリルさん、変な顔をしました。『——その口癖を、もう一度、宮廷で聞けるとは思わなかった』って。あの言葉を、前にも、ここで聞いてるんでしょう? ヴェラが昔、この衣装宮にいたんじゃないかって」
シリルは書類に目を落としたまま、少しの間黙っていた。
「……昔の話だ」
やがて、そう言った。穏やかで、それ以上は触れさせない声だった。
「私が来るより、ずっと前にいた人だよ。腕のいい職人がいた、と聞いている。それだけだ」
嘘ではない。けれど、全部でもない。ミラには、そう感じられた。
だが、ミラは追わなかった。話したくないことを無理にほどけば、布の目を逆さに裁つようなものだ。誰の得にもならない。
「……そうですか」
ミラは、へらの位置をまっすぐ直した。それで、その話は終わった。
シリルは書類を整えると、戸口へ向かいながら思い出したように言った。
「ミラ。さっそく一つ、仕立ててほしい人がいる」
「お客様、ですか?」
「ああ。だが、ふつうの客じゃない」
戸口で、シリルは振り返った。その顔から、いつものからかいが半分だけ引いていた。
「この国でいちばん、自分の立ち方に自信のない人だ。——周りも、本人も、その人を『器じゃない』と思っている。三月のうちに、その人は戴冠する」
ミラは、巻尺を首にかけ直した。
三ヶ月しかない。会ったこともない相手の、戴冠の日まで。きっと大きな仕事だ。それなのに不思議と怖くはなかった。
窓の光のなかで、その人の肩をどう組めばいいのか。会ってもいない相手の輪郭を、指がもう勝手に探しはじめていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第二話は、ミラが王宮の工房へ来る回でした。きらびやかなのに、布が呼吸をしていない——という感覚から書きはじめました。たくさんの手が同じ型の服を縫う音を「寂しい音」と感じるミラは、たぶん、効率のいい世界がいちばん苦手な人なんだと思います。
ゴドーという職人を出しました。彼は決して悪人ではなくて、むしろ言っていることの半分は正しい。一着に何日もかけるミラのやり方では、宮廷の行事は回りません。理想だけでは、人は飯を食えない。この「正しさ」がある相手だからこそ、これからミラとぶつかると面白くなるはずです。
そして、ヴェラの名前にシリルが見せた、一瞬の沈黙。ここが、この物語の奥に流れているもう一本の糸です。ミラはそれを拾いながら、追いません。「人の心は、布とちがって仕立て直せない」——彼女のその不器用さが、私はわりと好きです。
次回、いよいよミラは「いちばん自分の立ち方に自信のない人」を採寸します。どうか、お付き合いください。




