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採寸狂のお針子は、最高の一着しか縫わない  作者: 歩人


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第1話: 採寸狂のお針子

 巻尺が肩の線をなぞった、その指先で、ミラの手が止まった。


 布越しに伝わってくる。骨の角度。筋の付き方。左右でわずかに違う、肩の据わり。


 ——この人、おかしい。


 ミラは客の背後にしゃがんだまま、もう一度、肩から腕へと巻尺を滑らせた。指の腹が上着の生地を撫でる。安い麻だ。打ち込み——織りの密の詰まり方が粗い、どこの市にも転がっている平織り。なのに縫い目だけが、やけに行儀よく揃っている。


 巻尺の冷たい目盛りが、布越しに肩甲骨の出っぱりへ触れた。ミラの指は、寸法を測りながら、寸法以外のものも一緒に拾っていく。骨と布のあいだに残る、わずかな空き。腕を上げたときに突っぱる位置。立っているだけなのに、右の肩だけがほんの少し前へ逃げる癖。


 布は嘘をつかない。体も、嘘をつかない。本人がどれだけ取り繕っても、肩の据わりや布の擦れ方は、その人がどう生きてきたかを、勝手に喋ってしまう。


「……どうかしたかな」


 客が首だけで振り返った。年は二十代の半ばあたり。背が高く、夕方の薄明かりの下でも、顔の作りがいいのがわかる。下町の仕立て屋には、まず来ない種類の客だ。


「……お客様。立ち入ったことを、訊いてもいいですか?」


 ミラは立ち上がりながら、巻尺を首にかけ直した。指には、まださっきの肩の感触が残っている。


「この肩、重い物を運んで働いた肩じゃありません。背中も、人に頭を下げ慣れていません。それから、この上着」


 指で袖口をつまむ。


「布はわざと安いのを選んでますよね。なのに縫い目だけ、どこかの上等な工房の仕事です。ご自分で針を握ったことも、ありませんね。……お客様、平民のふりをして、いらしてますね」


 しばらく、店のなかが静かになった。


 夕暮れの埃が窓から差す残り陽のなかを漂っている。ミラは、もう相手の返事を半分しか聞いていない。頭の半分が、この人の妙な肩をどう組めばいちばん映えるか、という問いに吸い込まれていく。


「……驚いたな」


 客がふっと息をこぼした。怒った様子はない。むしろ面白がっているような声だった。


「私の身分を、初対面で言い当てた人は、君が二人目だ」


「一人目は?」


「さあ。誰だったかな」


 はぐらかし方が滑らかだった。ミラはそれ以上追わなかった。


「先に言っておきますね。あたし、お客様の素性には興味がないんです。布と、お体にしか。……それで、今日は何を、お作りしましょう」


 客の片眉が、わずかに上がった。


「……それは、存外こたえるな。普通もう少し、私に興味を持つものだけど」


「持ちません」


「即答か」


 客は声を出して笑った。咎める気配はかけらもない。むしろ、弾かれたことそのものを楽しんでいるように見えた。


 ミラは作業台へ戻り、採寸の数を木札に刻んでいく。肩幅、首回り、腕の長さ、左右の差。指が動くあいだ、口は半ば勝手に喋っていた。


「お客様、右肩を少し前に落とす癖がありますね。……ああ、これは剣じゃありません。書き物か、人前で身構える癖。それを直そうと無理に胸を張るから、上着がいつも肩で浮くんです。——違いますか?」


 返事はなかった。札を刻む音だけが、しばらく続いた。


 顔を上げると、客はもう笑っていなかった。


 探るような、それでいてどこか痛いものを見るような目で、ミラを見ていた。


 ——なんで、そんな目をするんだろう。


 ふとそう思ったが、ミラは追わなかった。人の心のなかは、布とちがって、読んだところで仕立て直せない。




 ヴェラの店は、王都リンドホルムの下町、縫い通りのいちばん奥にある。


 間口の狭い、看板も出していない仕立て屋だ。育ての親であり師でもあったヴェラが死んで、もう一年になる。客の多くはヴェラを訪ねて来た人たちで、その半分は、店主が代替わりしたと知ると静かに足が遠のいた。


 残ったのは、ミラの腕を知っている数人と、迷い込みの一見だけだ。今日のこの男のような。


 店のなかには、まだヴェラの匂いが残っている。古い羊毛と、蜜蝋と、こての炭火の、混ざった匂い。棚に並んだ糸巻きも、壁の型紙も、ヴェラが触れた位置のまま動いていない。ミラは片づけるのが下手なのではなく、片づけたくないのだった。手を伸ばせば、まだそこに師がいるような気がするから。


 ただ一つ、ミラが毎日握るものだけは、ヴェラのものではなくなっていた。ヴェラが最後まで使っていた、すり減った木のへら。十年以上、たった一人の手のひらの形を覚えてしまった柄。それを握ると、自分の手が、まだ師の手の続きをしているような心地がした。


 壁の型紙のなかに、一枚だけ、仲間はずれがある。ヴェラが最後まで手元に置いて、けれど一度も裁たれることのなかった、未完の型紙だ。誰のための一着だったのか、ミラは知らない。寸法を取った相手の名前も、どこにも書かれていない。ヴェラはそれを、誰にも渡さないまま逝った。


 ときどき、ミラはその線を指でなぞる。隅々まで神経の通った、惚れ惚れするような型だ。なのに、襟も肩も、途中で止まっている。まるで、最後の一針を入れる相手を、いまも待っているみたいに。


 ヴェラが遺した言葉を、ミラは毎日、針を持つ手の奥で唱える。けれど時々わからなくなる。自分はその言葉を本当に受け継いだのか。それとも、ただ口真似をしているだけなのか。確かめたい相手は、もういない。


 ミラは壁際の棚から、布の見本を一束抱えてきた。


「ご予算は?」


「上限は、ない」


「うわっ、上限なしって!?」


 思わず声が裏返った。ミラは束のいちばん上の一反を引き抜いて、窓の残り陽にかざす。深い灰青の、滑らかな毛織。指で挟むと、わずかに沈んで、ゆっくり戻る。落ち感——垂れたときの流れ方が、うっとりするほどいい。


「……ねえ、これ見て。北の織りだ、本物の。ほら、この垂れ方。この目方で、こんなにとろっと落ちるんだよ? よっぽどいい羊の冬毛じゃないと、こうはならない」


 ミラの目は、もう子供のそれになっていた。止まらない。


「北の羊飼いはね、刈った毛の脂を、わざと抜かずに織らせるの。だから北の外套は、雨に降られても芯まで濡れない。あっちは、雨と霧ばっかりの土地だから。——布って、生まれた土地の天気を、ちゃんと覚えてるんだよ。撚りも、そのへんの工房とは、もう別物で……」


 言いながら、ミラは布に鼻を寄せ、頬を寄せ、しまいには両手で包んで光に透かしていた。客にどう見えているかなんて、もう、すっかり頭から抜けている。


「……この子と、三日くらい、一緒にいたい」


「三日後には、私の用事は終わっているんだが」


「じゃあ、二日」


「君ね」


 客が、額を片手で押さえた。長い息をつく。怒ってはいない。困って、笑っている。


「噂以上だな。布のことになると、人が変わる」


「噂、ですか?」


 ミラはようやく布から顔を上げた。頬がほんのり熱い。今、自分がどんな顔で布に頬ずりしていたか思い出して、急に気まずくなる。


「……あたしの噂を、お客様が?」


「縫い通りの奥に、客の隠しごとを採寸ひとつで言い当てる、変わり者のお針子がいる。——そう聞いて、確かめに来た」


 客は椅子から立ち上がり、店のなかをゆっくり見回した。壁にかかった型紙の束。使い込まれた裁ち鋏。ヴェラが遺した、すり減った木のへら。


「だから、安い身なりで来た。本物かどうか、試すために」


「それで、本物だったんですね」


「ああ。期待以上に」


 ミラは肩をすくめた。試されたことは、不思議と、嫌な気はしなかった。布が本物かどうかを確かめるのに、ミラだって何度も指で擦り、光にかざし、ときには口にくわえる。人が人を確かめるのも、たぶん、同じようなものだ。


「それで、結局お客様は何をお作りに? 礼服ですか、旅装? それとも——」


「君を、連れて帰りたい」


 ミラは、手のなかの灰青の毛織を取り落としそうになった。指が布の端を握り直す。礼服でも旅装でもない答えが返ってくるとは、さすがに思っていなかった。




「衣装宮、というのは聞いたことが」


「ありますよ。王宮の、御用仕立ての工房ですよね。王様や貴族の礼服を作る」


「そこの総監督をしている。シリルだ」


 客——シリルは、ようやく名乗った。安い麻の上着のまま、けれど名乗った瞬間の背筋の伸び方は、もう平民のそれではなかった。


 ミラは灰青の布を畳み直しながら、内心で、あーあ、と肩を落とした。さっき肩で見抜いたとおりだ。やっぱり、上の人だった。


「衣装宮は、長く本物の仕立てをする工房だった。今は違う。数を捌くのがうまい連中が幅をきかせて、誰の体にも適当に合う服を、見込みで縫い溜めている」


 シリルの声から、からかいが消えていた。


「悪いとは言わない。速いし、安いし、そこそこ着られる。だが、それは誰のための服でもない」


「——みんなに合う服は、誰のものでもない」


 ミラは、ほとんど反射で言葉を継いでいた。


 シリルが、こちらを見た。


「ヴェラの口癖です」ミラは続けた。「あたしの師匠の。みんなに合う服なんて、本当は誰のものでもないって。たった一人のために測って、その人の体だけに合わせた一着だけが、その人の味方になるんだって」


 言ってから、ミラは少し気まずくなって、布の角を揃え直した。こういう話を、初対面の客にするものではない。たぶん、しないほうがいいのだろう。世辞も、心の内を上手にしまっておくことも、ミラはいつまでたっても下手なままだ。


 だがシリルは、気を悪くした様子もなく、ただ静かにその言葉を受け取っていた。


「……その口癖を、もう一度、宮廷で聞けるとは思わなかった」


 ぽつりと、そう言った。


 その横顔に、一瞬だけ、さっき採寸の最中に見たのと同じ目がよぎった。探るような、痛いものを見るような。だがそれは、ミラがまばたきをする間に消えた。


「条件は」シリルは、すぐにいつもの軽さに戻った。「衣装宮で君の仕立てをしてもらいたい。布も、道具も、好きに使っていい。北の毛織でも、海の向こうの絹でも、君が欲しがるだけ」


「……ずるいです」


「ずるいかな」


「布で釣るなんて、ずるいですよ」


 シリルが笑った。今度は、心からおかしそうに。


 ミラは灰青の毛織をもう一度だけ指でなぞった。冬の羊の、深く沈んでから戻る感触。こんな布に好きなだけ触れられる場所。その一点だけで、頭のなかの天秤がもう傾きかけているのがわかった。


 けれど。


 ミラは、ヴェラの遺したへらに目をやった。すり減って、丸くなった先。この手は今日まで、師の手の続きをなぞるだけだった。明日からは、師の知らない場所へ、師の知らない客のもとへ向かう。


「ひとつだけ、先に言っておく」


 ミラはシリルに向き直った。


「あたしは、人を立派に見せる服は作りません。その人が、その人のまま立てる服しか、作らないんです。数は捌けません。一着に何日もかけます。宮廷のやり方とは、たぶん、合いません」


「知ってる」


「……それでも、いいんですか?」


「それがいいんだ」


 シリルは、店の戸口へ歩きながら、振り返らずに言った。


「合う服を、もう一着ほしいんじゃない。誰のものでもない服に、私はもう飽きた」


 戸が開いて、初夏の夕暮れの匂いが、土と草の青さごと流れ込んできた。


「明日、迎えをよこす。——ああ、そうだ」


 シリルが、戸口で足を止めた。


「さっき君が見抜いた、私の右肩の癖。あれを直さずに、活かす仕立てができる職人は、この国にもう何人もいない。だから来てほしい」


「直しません」ミラは言った。「癖は、その人ですから。直したら、別人の服になります」


 シリルは少しのあいだ、黙ってミラを見ていた。


 それから、ひどく穏やかな声で言った。


「……うん。君がいい」


 戸が閉まった。


 店のなかに、ミラと、畳まれた灰青の毛織と、すり減ったへらだけが残った。


 ミラはしばらく、その場に立っていた。頭のなかは、もう一つのことでいっぱいになりかけている。


 ——衣装宮の布蔵には、いったいどれだけの種類の布があるんだろう。


 北の毛織。海の向こうの絹。見たことも触ったこともない反物が、棚の奥で出番を待っている。考えただけで、指の先がうずうずした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


新シリーズ第一話です。「オーダーメイドの服」を異世界でやりたい、という一点から始まった物語で、主人公のミラは、布と採寸のことしか頭にない、ちょっと困った変人として生まれました。


実はミラの「採寸ひとつで隠しごとを言い当てる」力は、超能力ではなく、ただの観察と経験の積み重ね、という設定にしています。体は、本人が思っているより正直なんですよね。庇った古傷も、人に頭を下げ慣れているかどうかも、肩の据わりに出てしまう。書いていて、服って結局その人の生き方を記録しているのかもしれない、と自分でも思いました。


そしてシリル。彼の余裕がミラにまったく通じない、というやり取りを書くのがとにかく楽しかったです。武器を全部弾かれて、つい構ってしまう男。これから二人がどうなるかは、どうか気長に見守っていただけたら。


「みんなに合う服は、誰のものでもない」——この一言が、この物語の背骨です。


評価やブックマーク、感想をいただけると、次を書く手が速くなります。よろしければお付き合いください。

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