第11話: 師の遺した型紙
金糸が届いたのは、朝いちばんだった。
木箱の蓋を開けた瞬間、ミラの手が止まった。藁のあいだから覗いた糸巻きの、その撚りの細かさ。指先で一巻きつまみ上げると、糸はひやりと冷たく、そのくせ光だけは温かく弾いた。
「……うわ」
ミラは誰にともなく呟き、窓辺へ持っていった。夏の朝の光に透かす。金の引き方が、この国のものではなかった。叩いて薄く延ばした箔を、芯の絹に撚りつけてある。一本の糸のなかで、絹の柔らかさと金の硬さが喧嘩もせずに同居していた。
「叩き金だ。箔を糸に巻きつけてあるから、折れない。曲げても光が死なない。海の向こうの撚り……三日は触ってたい」
糸巻きを頬に当てたところで、背中に咳払いが落ちてきた。
「朝から何をしている」
ミラは糸巻きを頬から離して振り返った。戸口にゴドーが立っている。隙なく着こなした上級職人の制服。腕の太さだけが、若い頃に布を裁ち続けた職人の名残を伝えていた。
「親方。これ、見てください。金糸なのに折れないんです。芯が絹で——」
「戴冠の一式に使う糸だ」
ゴドーは、ミラの言葉を途中で断った。
「王の正装の縫い取りに使う。儀仗の兵から式典官まで、式に立つ者の装束ぜんぶに、これが入る。だから一国ぶんを取り寄せた。——お前さんが頬ずりする用じゃない」
「……あ。すみません」
ミラは糸巻きを木箱に戻した。けれど指は、まだ名残惜しそうに巻きの縁をなぞっていた。
戴冠式の準備は、もう衣装宮じゅうを動かしはじめていた。
大広間では、いつもの量産の音に別の音が混じっている。上等な布が運び込まれ、職人たちが寸法帳をめくり、図面を広げて声をひそめている。空気そのものが、少し張りつめていた。
ミラは金糸の木箱を抱えて、その喧騒のなかを通り抜けようとした。
布棚の陰で、年かさの職人が二人、額を寄せていた。聞くつもりはなかった。ただ、ミラの耳は布鳴りと同じくらい、低い声を拾ってしまう。
「……戴冠の一式なんざ、何年ぶりだ」
「先の御代替わり以来だろう。あのときも、この宮で一式を仕立てた」
「よせ。その話は」
片方の職人が、急に声を落とした。
「縁起でもない。戴冠を前にして、あの一着の話をするもんじゃない」
あの一着。
ミラの足がひとりでに止まった。
「あの一着、って」
二人の職人が、ぎくりと顔を上げた。ミラを見て、それから素早く目を見交わす。きまり悪そうに、口をつぐんだ。
「……なんでもない。市井から来たお前さんには、関わりのない話だ」
職人たちは布棚の向こうへ逃げるように去っていった。あとには、言いさされた言葉だけが残った。
「気にするな」
声に振り返ると、ゴドーがすぐ後ろに立っていた。いつのまにかついてきていたらしい。
「親方。あの一着って、何のことですか」
「……」
ゴドーはすぐには答えなかった。大広間の張りつめた空気を、目だけで一度なぞる。それから、ミラを廊下のほうへ顎で促した。喧騒から、少しだけ離れた場所へ。
「古い話だ」
ゴドーは、低く言った。
「先の御代替わりのとき——今からもう十年余り前だ。この衣装宮で、戴冠の一着を仕立てた。新しい王の、戴冠の正装をな。だが、その一着が、できあがる前に宮から消えた」
「消えた?」
「消えた、としか言いようがない。焼けたわけでも盗まれたわけでもない。ただ、ある日を境に、宮のどこにもなくなった。誰がどうしたのか、誰も語らん。語っちゃならんことになってる」
ゴドーの声は、いつもの采配を振る声とは違っていた。低く、用心深い。布の良し悪しを語るときの確信が、そこにはなかった。
「以来、この宮じゃ縁起をかつぐ。戴冠を前に、消えた一着の話はするな、とな。馬鹿げてると思うか。だが、職人ってのは縁起で生きてる。針が折れた、糸が切れた——そのたびに意味を読む。——消えた一着は、この宮でいちばん大きな『縁起でもない』だ」
ミラは金糸の木箱を抱え直した。腕のなかで、糸巻きが小さく鳴った。
「その一着を縫ったのは、誰なんですか」
ゴドーの眉が、わずかに動いた。
「……縫いかけてたのは、女の名工だ」
ゴドーは、ミラから少し目を逸らした。
「俺がまだ裁ち板にかじりついてた頃の話だ。この宮にひとり、化け物みたいな手の女がいた。立体裁断——布を体の丸みに合わせて立たせる、あの技だ。あれにかけちゃ、後にも先にもあの女の右に出る者を見たことがない。客の肩に布を一度当てただけで、もう完成した形が見えてるような手つきをした」
ミラの指先が木箱の縁で止まった。
「その人は、平らな型紙を使わなかった。客一人ひとりの体から、世に一枚きりの型を起こした。——その女が、消えた一着を縫いかけて、そして」
ゴドーは、そこで言葉を切った。
「あの一着が消えたのと同じ頃、宮から辞めた。理由は言わずにな。それきり、二度と宮には戻らなかった」
大広間の量産の音が、急に遠くなった気がした。
立体裁断の、化け物みたいな手の女。客の体から、世に一枚きりの型を起こす人。十年余り前に、ある一着を最後に、衣装宮を去った名工。
ミラは、その人を知っていた。
「……それ」
声が、少しかすれた。
「それ、あたしの師匠です」
ゴドーが、ミラを見た。今度は、目を逸らさなかった。
「ヴェラ、っていいます。あたしを拾って、針を仕込んでくれた人。十年余り前に衣装宮を辞めて、市井の縫い通りで、ずっと一人で仕立て屋をしてました。——あたしの立体裁断は、ぜんぶ、その人から教わったんです」
ゴドーはしばらく黙っていた。それから、ミラの抱えた金糸の木箱を、その腕を、首から提げた手製の巻尺を、順に見た。化け物みたいな手の女の技を継いだ者を、初めてそこに認めるような目だった。
「……道理で」
ゴドーは、それだけ言った。
「監督がどこから連れてきた減らず口かと思えば。あの女の、弟子か」
「親方は、ヴェラを知ってたんですか」
「同じ頃に、同じ宮にいた。それだけだ。口をきいた覚えもない。——あっちは雲の上の名工で、こっちは裁ち板の下働きだったからな」
ゴドーは、ふっと自嘲めいた笑いを漏らした。それから、すぐに表情を引き締めた。
「だが、嬢ちゃん。だからこそ言っておく」
ゴドーの声に、また用心深い重みが戻った。
「お前さんの師匠が、消えた一着とどう関わってたのか、俺は知らん。知ろうとも思わん。——だが、これだけは確かだ。あの一着のことを縫った者は、宮から消えるか、口をつぐむかした。お前さんの師匠は何も言わずに辞めて、市井に引っ込んで、二度と戻らなかった。それが、答えだ」
「答え、って」
「触るな、ってことだ」
ゴドーは、廊下の先——大広間の喧騒のほうを、帳面の角で示した。
「戴冠を前にして、消えた一着の話を蒸し返す者を、この宮は嫌う。縁起の問題じゃない。もっと、生臭い何かだ。お前さんが踏み込めば、せっかくの一式の話まで、けちがつくぞ」
ゴドーは、それきり背を向けた。框を出るとき、その左肩がまた一度布につっかえた。けれど今日のミラの目は、それを追わなかった。
ミラの頭のなかには、別のものがいっぱいに広がりはじめていた。
その日の仕事を終え、ミラは縫い通りへ帰った。
ヴェラの店は、師が逝った日のままだった。棚に並んだ糸巻きも、壁にかかった型紙の束も、ヴェラが触れた位置から動いていない。戸を開けると、古い羊毛と蜜蝋、こての炭火の混じった匂いが、いつものように出迎えた。ミラは片づけるのが下手なのではなく、片づけたくないのだった。手を伸ばせば、まだそこに師がいるような気がするから。
作業台に、ヴェラの遺した木のへらが置いてある。ミラは指で、すり減った窪みをなぞった。十年かけて師の手が削った窪み。そこに自分の指を当てると、まだほんの少しだけ大きい。握れば手に馴染むのに、窪みそのものには、まだ届かない。
ミラは、壁の型紙の束を見上げた。
そのなかに、一枚だけ、仲間はずれがある。
ヴェラが最後まで手元に置いて、けれど一度も裁たれることのなかった、未完の型紙。これまで、ミラは何度もこれを見てきた。見てきたのに、ちゃんと見たことは一度もなかった気がした。
ミラは、それを壁から外した。作業台に広げ、こての火を入れた小さな灯りで照らす。
——指が、勝手に、線をなぞりはじめた。
襟の返り。肩の据わり。背の流れ。一本いっぽんの線を、指の腹で追っていく。そして、ミラの背筋が、ひやりと冷えた。
これは、ただの一着の型紙ではなかった。
この三月、ミラは衣装宮で戴冠の仕事に触れ続けてきた。王の一着を仕立て、その格と重さを手で覚えてきた。だからこそ、今のミラには見える。この型紙が起こそうとしていたのは、途方もなく格の高い、儀礼のための一着だ。胸から肩へ流れる線の張り。襟の立ち上がりの厳しさ。これは——人の前に立つどころではない。人の上に立つ者が、その身一つで国を背負って立つための、一着だ。
「戴冠の……」
ミラは、声に出してしまってから、口をつぐんだ。
襟も、肩も、途中で止まっていた。最後の一針を入れる相手を、ずっと待っているように。誰のために起こした型なのか、寸法を取った相手の名前も、どこにも書かれていない。ヴェラはそれを、誰にも渡さないまま逝った。
十年余り前、衣装宮から消えた、戴冠の一着。同じ頃、ある一着を最後に宮を去った師。そして師が最後まで手元に置き、誰にも渡さなかった、戴冠の格を持つ未完の型紙。
三つの糸が、ミラのなかで初めて一本に撚り合わさろうとしていた。
ミラはそれを慌てて押し戻そうとした。布のことなら、滲みの正体まで読める。けれど、これは布の話ではなかった。生臭い何か、とゴドーは言った。触るな、とも。
それでも。
ミラは、型紙の上に手を置いた。
——師匠。これは、誰のための一着だったんですか。
問いは、宙に浮いたまま、行き場をなくした。答えてくれる人が、もういなかった。
ミラは、思い出していた。いつだったか、まだヴェラが生きていた頃。この型紙を指して、ミラが一度だけ訊いたことがある。これ、誰の型紙なの、と。子供の、何気ない問いだった。
ヴェラは、針の手を止めずに、ただ微笑んだ。
「この型紙は……いつか、わかる人のところへ。それまで、しまっておおき」
わかる人って、誰。そう重ねて訊いたミラに、師は静かに首を振った。
「……古い話さ」
それきり、師は二度とその話をしなかった。ミラもまた、訊かなかった。あの頃のミラには、目の前の布のほうが、よっぽど大事だったからだ。珍しい糸が一巻きあれば、消えた一着のことなんて、すぐに頭から抜け落ちた。
訊くなら、いくらでも機会はあった。師は、すぐそこにいたのだから。
ミラは型紙の縁を、指でそっと押さえた。
——あたしは、布ばっかり見てた。師匠の手のことも、技のことも、誰より見てたつもりで。なのに師匠が、何を抱えてここに座ってたのかは一度も見ようとしなかった。
へらの窪みに、指が届かない。それと同じだ。馴染んでいるつもりで、いちばん深いところには、まだ手が届いていない。
ミラは生まれて初めて、布以外のことを本気で知りたいと思った。
この型紙は何なのか。師は何を縫いかけ、何を諦めて市井へ降りたのか。消えた一着と、これは繋がっているのか。
知りたい。けれど、それを問える人は、もういない。
ミラはゆっくりと型紙を巻き取った。けれど、もとの壁には戻さなかった。きれいに巻いて、布にくるんで、自分の鞄の底に納めた。明日からは、衣装宮へ持っていこうと思った。なぜそうしたいのか、自分でもうまく言えなかった。ただ、これを師の店の壁に掛けたまま、また忘れてしまうのが急に怖くなった。
灯りを消す前に、ミラはもう一度、壁の空いた場所を見た。型紙が一枚抜けた壁は、急に、間が抜けて見えた。
窓の外で、夏の夜風が店の戸を一度、ことりと鳴らした。
戴冠式は、もうすぐだ。あの金糸が、一国ぶん運び込まれている。王の正装一式を誰が縫うのか——その答えは、もうじきミラとゴドーの前に置かれる。
その同じ戴冠が、十年眠っていた一着を、ミラの鞄の底へ呼び戻したのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
これまでお客さんの一着を仕立ててきたミラが、今回は初めて、自分の足元にあった「一着」に目を向ける回です。お仕事ものの連作として、客回の積み重ねでミラの腕と価値観を見ていただいてきましたが、その裏でずっと壁に掛かっていた、師ヴェラの未完の型紙。ミラはこれを、何度も見ていたのに、一度もちゃんと見ていなかった。布のことなら誰より見えるのに、自分を育てた人が何を抱えていたかは、見ようとしなかった——この子の、布以外への徹底した無頓着が、ここでいちばん切なく出てしまいました。
書いていて手が止まったのは、ヴェラの「いつか、わかる人のところへ。それまで、しまっておおき」という台詞でした。師は、答えを遺さなかったのではなく、答えられる日が来るまで、託しただけなのかもしれません。そしてミラは、訊く機会をいくらでも持っていたのに、訊かなかった。失ってから知りたくなる——その遅さが、人間だなと思います。
ゴドーをまた出しました。前回ぶつかった二人ですが、彼が「あの女の、弟子か」と呟くところは、書いていて少し胸が熱くなりました。同じ宮にいて、口もきけなかった雲の上の名工。その技を継いだ娘が、いま自分の目の前にいる。彼の量産への割り切りの裏にも、たぶん、あの頃の何かが沈んでいます。
消えた一着が何なのか、ミラの型紙とどう繋がるのか——その謎は、まだ伏せたまま進みます。次回、戴冠式正装一式の受注が、いよいよミラとゴドーの前に置かれます。縫えないのに、取り合う。シリルの言ったその言葉が、動きだします。
評価やブックマーク、感想をいただけると、次を書く手がほんとうに速くなります。どうかお付き合いください。




