第12話: 名乗りと、影
上の間に、布が一反、広げて置かれていた。
ミラは戸口で足を止めた。床に伸ばされた紺の毛織。一目で、ただの布ではないとわかる。打ち込みの密度が尋常でない。指で触れずとも、目だけで布の重みが読めた。これは王の正装に使う布だ。
部屋の奥に、長机がひとつ。儀典長ヴァルターが中央に座り、その脇にゴドーが控えていた。隙のない上級職人の制服。腕に抱えた帳面の束は、いつもより分厚かった。
「来たか」
シリルが窓際の椅子から軽く手を挙げた。いつもの食えない笑みのまま、ミラを手招きする。
「呼んでおいて、立たせたままも悪い。座るといい」
ミラは座らなかった。床の紺の毛織から、目が離せなかったからだ。
「……この布」
「ミラ」
「打ち込みがすごい。これ、緯糸を二本どりで詰めてある。普通の倍は織り込んでます。重いけど、その重さが垂れずに立つ。王様が一日立ち続けても、肩が落ちない布だ。すごい……どこの——」
「ミラ」
シリルの二度目の声で、ミラはやっと我に返った。儀典長ヴァルターが、苦虫を噛んだ顔でこちらを見ている。
「……あ。すみません」
ミラは布から一歩離れた。けれど、目はまだ名残惜しそうに紺の毛織を追っていた。
「話を戻す」
ヴァルターが、帳面で机を軽く叩いた。
「戴冠式の正装一式。王の正装を筆頭に、儀仗の兵、侍従、式典官——式に立つ者すべての装束だ。総勢で数十着。これを衣装宮として、どこに任せるか。今日はそれを決める」
ヴァルターの目が、ゴドーへ向いた。
「ゴドー。お前の段取りを聞こう」
ゴドーが帳面の一冊を開いた。よどみのない声だった。
「数十着を、三つの型に分けて流します。背の高い者、中背の者、低い者。それぞれ規格の型紙を起こして、裁ち係、縫い係、仕上げ係で分業する」
ゴドーは、帳面の数字を指でなぞった。
「式までの日数から逆算して、いつ何着を縫い上げるかは、すべてここに組んであります」
ゴドーは帳面を一枚めくった。
「納期に、一日の狂いも出しません。寸法は規格どおりに揃います。式に立つ数十人が、寸分違わぬ装束で並ぶ。——戴冠の威儀ってのは、揃ってることです。一人ひとり違う襟をしていたら、それは威儀になりません」
ヴァルターが満足げに頷いた。
「揃う、か。式典には、それがいちばんだ」
ヴァルターの口ぶりは、もう決まっているようなものだった。数十着を期日に揃える。一日の狂いもなく。それができるのは、衣装宮でゴドーの量産だけだ。ミラには、できない。ミラの一着主義では、数十着は逆立ちしても縫えない。それは、ゴドーの言うとおりだった。
ミラは何も言わなかった。
布の話なら、いくらでも言葉が出る。けれど数の話になると、ミラには一つも返す言葉がなかった。前に、もう思い知ったことだ。一着に三日かける自分は、数十着を期日に揃える力を持っていない。
「では、戴冠の一式は——」
「ひとつ、いいですか」
ミラは、口を開いていた。
自分でも、なぜ手が挙がったのか、わからなかった。ただ、床の紺の毛織が——王の肩を一日支えるために、緯糸を倍に詰めて織られたあの布が——目の端で、ずっと光っていた。
「あたしには、数十着は縫えません」
ヴァルターの眉が、不快げに寄った。
「縫えないなら、口を挟む筋はなかろう」
「縫えないのは、本当です。儀仗の兵も、侍従も、式典官も、あたしには数を揃えられない。そこは、親方の量産に敵いません」
ミラは、一歩前に出た。床の紺の毛織のそばへ。
「でも、王様の一着だけは」
ミラは、布の上にしゃがんだ。指先を、紺の毛織にそっと触れさせる。倍に詰めた緯糸の、その立ち上がる重みを確かめるように。
「これは、揃えちゃいけない布です」
「なんだと」
「儀仗の兵の装束は、揃ってていい。何十人が同じ形で並ぶ、その壁みたいな揃いが、たしかに威儀になります。親方の言うとおりです。——でも、その壁の真ん中に立つ、たった一人」
ミラは、顔を上げた。
「王様だけは、誰のものでもない一着を着ちゃいけないんです。背の高い王様用の型紙で、誰でもいい襟を巻いて、壁の一部みたいに立つ。それじゃ、王様が王様に見えません」
部屋が、静かになった。
ヴァルターはすぐには言い返さなかった。ゴドーは帳面を閉じたまま、ミラを見ていた。
「あたし、前に一度、あの方の一着を組ませてもらいました」
ミラは、静かに続けた。レウベンの、藍の一着のことだった。
「あの方の背中は、ずっと下を向く癖がついてました。骨にまで染みた猫背です。それを無理に直さず、その背中のまま前を向ける一着を組みました」
ミラの指が、紺の毛織の上で、ひとりでに線を描いた。
「あの方は、それを着て、自分の足で顎を上げたんです。戴冠の正装は、その続きです」
「規格の型紙じゃ、あの背中は立ちません。あの方の体から起こした、世に一枚きりの型じゃないと」
「だが、お前は数十着を縫えん」
ゴドーが、低く言った。怒ってはいなかった。ただ事実を置くような声だった。
「王の一着だけ誂えても、残りの数十着はどうする。式は王一人で立つわけじゃない。一式だ。お前の手は、一式を縫えるのか」
「……縫えません」
ミラは、正直に答えた。
「王様の一着で、あたしの手は精一杯です。残りの数十着は、あたしには、どうしても回らない」
「だろう。なら——」
「おもしろいじゃないか」
シリルだった。
いつのまにか窓際の椅子から立ち上がって、長机のそばまで来ていた。例の読めない笑みのまま、けれど目の奥には、ミラに読めない本気が混じっている。
「儀典長。私から、一つ案がある」
シリルは、床の紺の毛織を、靴の先で軽く示した。
「王の一着は、ミラに任せる。あの王が一度まっすぐ立った、その続きを縫える手は、この宮にこの娘しかいない。——残りの数十着は、ゴドーの量産で揃える。壁は壁で、寸分違わず」
「総監督」
ヴァルターが、渋い声を出した。
「市井から来たばかりの小娘に、王の戴冠の一着を。前例がありません。万一、納期に間に合わなければ——」
「間に合わせるさ。私が見ている」
シリルは、軽く言った。けれど、その軽さの下に、引かない硬さがあった。
「責は私が負う。総監督として。——それとも儀典長は、あの王を、誰でもいい襟で戴冠させたいか?」
ヴァルターは、口をつぐんだ。
しばらく、誰も口を開かなかった。やがてヴァルターが、苦々しげに帳面を閉じた。
「……総監督がそこまで言うなら。王の一着は、その娘に。残りの一式は、ゴドーの量産で。これでよいな」
「結構」
シリルが、頷いた。
ミラは、自分が任されたことに、まだ実感がなかった。ただ、床の紺の毛織を見ていた。これを、王様の一着に仕立てる。あの背中を、戴冠の日に、もう一度まっすぐ立たせる。その重さだけが、じわりと指先に降りてきた。
散会のあと、ミラが紺の毛織を抱えて運び出そうとすると、戸口でゴドーが待っていた。
「嬢ちゃん」
ゴドーの声は、上の間でのものとは違っていた。もっと低く、近かった。
「いい啖呵だった。王だけは誰のものでもない一着を着ちゃいけない、か。——あれは、正しい」
「親方」
「正しいから、危ういんだ」
ゴドーは、ミラの抱えた紺の毛織を、目で示した。
「お前さんは、王の一着を取った。だが、その裏で何が動くか、わかってるか」
ゴドーは、声を落とした。
「戴冠の一式は、衣装宮のこれから十年の格を決める仕事だ。その一番おいしいところを、ぽっと出の市井の小娘が攫った。それを面白く思わない者が、この宮にどれだけいると思う」
「……」
「儀典長の顔を見たか。あの人は、安全がいちばん大事な人だ。前例のないことを、何より嫌う。総監督が抑え込んだが、抑え込まれた不満は、消えやしない。地の下を、回るだけだ」
ゴドーは、それきり背を向けた。けれど二、三歩進んだところで、足を止めた。
「言っておく。妨害が来るとすれば、お前さんの腕にじゃない。お前さんの腕は、誰も否定できん。——来るとすれば、布だ。糸だ。納期だ。お前さんの手が届かないところから来る」
「親方は、その妨害をする側ですか」
ミラは、まっすぐ訊いた。ゴドーは、振り返らなかった。
「俺は、量産で残りの一式を縫う。それだけだ。——だが、俺の周りには、俺より量産に賭けてる連中がいる。そいつらが何をするかまでは、俺は知らん」
ゴドーは、大広間の量産の音の中へ、また消えていった。框を出るとき、その左肩が一度つっかえた。ミラの目は、今日もそれを見ていた。けれど、追いかける気力はなかった。
腕の中の紺の毛織が、急に重くなった気がした。
王の一着を、任された。けれど一式は数十着。あたしの手は、王様の一着で精一杯だ。残りはゴドーの量産が縫う。壁の真ん中に、たった一人。——本当に、それで一つの一式になるんだろうか。揃った壁と、誰かのための一着が、同じ式の中で喧嘩せずに立てるんだろうか。
ミラには、まだ答えがなかった。
ただ、鞄の底で、布にくるんだ師の型紙が、紺の毛織と並んで静かに重さを増していた。
ミラが布を抱えて去っていくのを、シリルは廊下の柱の陰から見ていた。
その腕の中の紺の毛織。世に二つとない一着になるはずの、王のための布。あの娘の手にかかれば、あれは間違いなく、レウベンを戴冠の日にまっすぐ立たせるだろう。シリルには、それがもう見えていた。
針を、握る者。
シリルは自分の右手を、何とはなしに見下ろした。長い指。爪の形まで整った、美しい手。けれど、この手は一度も針を握ったことがない。握れない、と言ったほうが正しい。布の良し悪しを見分ける目はある。布の前で言葉を失うほど、本物の仕立てに焦がれてもいる。なのに、自分では、ただの一針も縫えない。
作る者と、作れない者。
ミラは、布の前にしゃがんで、緯糸の重みを確かめていた。誰にともなく布を読み上げる、あの横顔。あれを見ると、シリルはいつも、笑みの裏で言葉を失う。羨望と呼ぶには、もっと静かな何かだった。
——いつか、誰かに、自分のための一着を縫ってもらう日が来るのだろうか。
ふと胸をよぎったその問いに、シリル自身が一番驚いた。慌てて、いつもの笑みの下へ押し込める。柄でもない。自分のための一着など、自分には許されていない。それは、もう、ずっと前に決めたことだった。
シリルは、柱から背を離した。
戴冠式が、近づいている。揃った壁と、たった一人のための一着。その二つが一つの式に立つとき、何が起きるのか。——ミラには見えていない火が、シリルには、もう見えはじめていた。
彼は、誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。
「さあ、おもしろくなる」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第十二話で、第一アーク「衣装宮のお針子」が幕を閉じます。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございます。
この回でいちばん書きたかったのは、ミラが「数では勝てない」と認めたうえで、それでも名乗りを上げるところでした。彼女は無敵の天才ではありません。前回ゴドーに数の論理で言い負かされて、ぐうの音も出なかった子です。その子が、王の一着にだけは手を挙げる。「揃った壁の真ん中に立つ、たった一人」を、誰でもいい襟で立たせちゃいけない——これは、彼女の信念そのものでした。勝てる勝負だから出るのではなく、譲れない一点だから出る。そういう人であってほしくて、書きました。
シリルの「縫えないのに、取り合う。おもしろい」が、前回からここで動きました。彼が本当に面白がっているのは受注競合ではなくて、たぶん、針を握れる者のことなんですよね。末尾に、彼の視点を少しだけお借りしました。作れない者が、作る者に焦がれる——その理由は、まだ伏せたままです。
王の一着はミラに。けれど一式は数十着。彼女一人では、どうやっても回りません。揃った壁と、たった一人のための一着。この二つがどう一つの式になるのか——いや、なれるのか。そして、地の下を回りはじめた、妨害の影。第二アーク「最高の一着」で、いよいよ戴冠式へ向かいます。
評価やブックマーク、感想をいただけると、次を書く手がほんとうに速くなります。第二アークも、どうかお付き合いください。




