『夢操の檻』 第4章:空気の形(中編)
1. 練磨:透明な質量
覚醒の翌日、アキトは日の出とともに訓練場に立っていた。
全身を包む装甲服は、もはや重荷ではなく、自分の皮膚の延長のように感じられた。
広い訓練場を見渡すと、そこには無限の「材料」が満ちている。
昨日まではただ呼吸するためだけに存在していた大気が、今はすべて、自分の意志で研ぎ澄ますことができる「武器」に見えた。
「――さあ、始めようか、アキト。まずはその『見えない壁』を、ただの盾から凶器に変えてみせろ」
デオが拡声器越しに指示を出す。訓練場の端には、廃棄された旧式の装甲車や、分厚いコンクリートの壁が標的として設置されていた。
アキトは目を閉じ、周囲の空気の流れに意識を向けた。 能力の基本は、空間の「圧縮」だ。一点に大気を凝縮させ、分子同士を強引に結合させて固定する。
アキトが前方に右手をかざすと、空間がわずかに陽炎のように揺らいだ。
「……固まれ」
低い呟きとともに、アキトは空中の「一点」を強くイメージした。 次の瞬間、何もない空間に、透明な「板」が出現した。それは光を屈折させ、背後の景色をわずかに歪ませている。
アキトはその透明な壁を、意識の力で前方へと力強く突き出した。
ドォォォンッ!!
爆発音のような衝撃音が響き渡った。 時速数百キロで射出された「空気の壁」は、巨大なトラックが衝突したかのような破壊力を発揮し、標的のコンクリート壁を一瞬で粉砕した。完璧に使いこなせていないのにこの威力。
破片が飛び散る中、アキトはその反動すら感じずに、平然と立っていた。
「ほう……動かせるようになったか。次は防御と攻撃を同時に行え」
デオの言葉が終わるか終わらないかのうちに、訓練場に設置された自動砲台がペイント弾を一斉に掃射した。
アキトは動かない。ただ左手を横に振るだけで、自分の周囲に四方向の空気壁を展開した。パパパンッ、と虚空に弾けて落ちるペイント弾。
アキトはその防壁の一枚を即座に「塊)」へと圧縮し、砲台へと投げ返した。
透明な砲弾が砲台を直撃し、金属の塊へとひしゃげさせる。アキトの体は早くも限界を迎えようとしていた。体中から大粒の汗が吹き出し、感覚がなくなるほど頭が痛む。
「副作用はさておき……、素晴らしい飲み込みだ……。まるで最初からその力の扱いを知っていたみたいだよ。」
モニターを見つめるニコが感嘆の声を漏らす。
アキトの学習速度は、科学者たちの予想を遥かに上回っていた。
2. 飛翔:九時間の奇跡
だが、アキトが最も渇望していたのは、破壊の力ではなかった。
それは、あの漂流中に感じた、重力からの「解放」。 空を歩くという、人間には許されないはずの領域への侵入だ。
「空中に『足場』を作る。理屈は壁と同じだが、難易度は桁違いだぞ」 デオが警告する。
「自分の体重を一点で支え続け、かつ移動に合わせて瞬時に新しい足場を生成し、古いものを消す。一瞬でも集中が切れれば、待っているのは墜落死だ」
アキトは無言で頷き、空を見上げた。
一歩。
虚空に足を突き出す。
「……そこにある」 アキトは自分の足の裏の数センチ下に、直径三十センチほどの極小の空気の円盤を圧縮した。
ガッ、という硬質な感触。義足のチタン合金が、透明な足場を叩く。
一瞬、浮いた。 だが、次の瞬間にバランスを崩し、アキトは地面に叩きつけられた。装甲服の重みで落とされる威力も高い。
床に衝撃吸収機能がなければ、骨が折れていてもおかしくない衝撃だ。
「……もう一度」
アキトは立ち上がり、再び挑戦した。
失敗。墜落。再挑戦。
その繰り返しを、アキトは狂気じみた集中力で続けた。
彼を突き動かしていたのは、空への憧れだった。
泥臭く、不自由で、弱者が群れをなして這いずる地上。そこから抜け出し、自分だけが神の視座に立つ。その全能感への渇望が、激痛と疲労を麻痺させた。
「……おい、アキト。もう四時間が経過している。一度休め」
デオの制止も耳に入らない。 アキトの脳内では、AIによる覚醒訓練の残響が、新たな回路を焼き切るように加速していた。
そして、開始から九時間が経過した頃。 訓練場を見守っていた者たちは、全員が息を呑んだ。
アキトが、歩いていた。 階段を上るような不自然な動きではない。
まるで平地を闊歩するように、優雅に、堂々と、地上十メートルの虚空を歩いていた。
彼が足を下ろすたびに、空間が微かにきらめき、見えない足場が瞬時に生成される。 アキトはさらに高度を上げ、訓練場の砲台近くまで到達すると、そこで静止し、腕を組んで地上を見下ろした。
「……信じられない。九時間?」
ニコが記録装置を二度見した。
「分析では高度な空間制御能力の習得には数ヶ月はかかると出ていた。それを、たった一回の訓練で、それも実用レベルでマスターするなんて……」
空中に立つアキトの視界には、自分を仰ぎ見るデオやニコの姿が小さく映っていた。
(……これだ。これが俺の求めていた世界か。)
アキトの唇が、自然と吊り上がる。 地上を這う者たちへの同情は、もう微塵もなかった。
自分は、選ばれた。この空そのものが、自分の味方なのだ。感心するハル。大喜びするデオ。
その時、耳元でかすかなささやきが聞こえた。
(やっと2人で本物の空を飛べるわね。あの日から、楽しみにしてた。)
アキトは涙があふれるのを抑えるのに必死になった。
3. 境界:判明した限界
完璧に見えるその力にも、いくつかの「境界線」が存在した。
夕刻、能力の最終検証を行うためにアキトは再び分析室へと戻った。
「素晴らしい成果だが、アキト。君の力にも物理的な制約があることを忘れてはならない」 年配の科学者が、ホログラムのグラフを表示した。
「第一の限界は『気圧』だ」 グラフが山岳地帯を示す。 「君の能力は周囲の空気を材料とする。つまり、空気が薄すぎる高所――例えば標高の高い山や、水の中では、足場を作るための分子が足りなくなる。山の上やヘリコプターの中で浮遊感を感じなかったのは、それが原因だ」
アキトは黙って頷く。
確かに、感覚は、高度によって微妙に変化していた気がする。
「第二の限界は『気流』……つまり風だ」 シミュレーション映像が、激しい暴風雨の中を飛ぶアキトを映し出す。 「君が固定しているのは空間の座標ではなく、あくまで『そこにある空気』だ。もし、強風によって周囲の空気が一気に流されれば、君が作った足場も一緒に流される。下手をすれば、足場ごと吹き飛ばされ、制御不能に陥るだろう。逆に言えば、その強い風を利用してどんな機体よりも早く飛ぶことができる。ジェット気流と呼ばれる雲の上の気流を利用すれば時速180キロでの飛行も可能だ。体がもつかはわからないが。」
「……気をつけます。空気の少ない場所と、風の強い場所。その二つさえ避けて、もし風も使いこなせれば俺は無敵ってことですね。」
アキトの返答は、傲慢なほどに自信に満ちていた。 科学者はその瞳に宿る危うい光に一瞬気圧されたが、すぐに職務に戻った。
「……理屈の上では、その通りだ。君は現時点で、我が軍における最強の戦力を持つ個体と言える」




