『夢操の檻』 ユーリ編 第9章:鏡の破片と、満月の重力 第2話
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2. 神秘の予兆と、故郷への「侵略」
翌朝、ユーリはストーブが消える前の冷気で目を覚ました。
寒さで筋肉が固まっているはずなのに、体を動かすと、昨日よりもさらに「軽さ」が増していることに気づく。
「……なんだ、これ」
外へ走り出すと、地面を蹴るたびに体が数メートルも浮き上がるような錯覚に陥った。薄暗い、明け方の神秘的な空。
その静寂の中で、ユーリの心臓は、新しい世界の鼓動を刻み始めていた。
だが、その高揚感を、曇った心がすぐに打ち消す。
「……作戦会議だ。行かなきゃ」
私情で仲間を死なせるわけにはいかない。ユーリは唇を噛み切り、血の味で自分を現実に繋ぎ止めた。
二台のヘリに分乗した少数精鋭の決死隊。
目的地が近づくにつれ、ユーリは吐き気に襲われた。
「……ユーリ、顔色が悪いぞ。酔ったか?」
ジンが心配そうに覗き込む。ユーリは答えず、ただひたすらに、アキトの遺したナイフを磨き続けた。もうこれ以上磨いても意味のないほど、鋭く研ぎ澄まされた刃。それを鏡のように見つめていなければ、故郷の景色に心を奪われてしまいそうだった。
雲の切れ目から、あの巨大なドームが見えてきた。
自分の寮。
自分の学校。
自分のいた場所。
ヘリが降下し、見覚えしかない「大門」が迫る。
ハルがパソコンをつなぎパスを解読し始める。
しかし、ユーリはハルを押しのけ、震える指で操作盤を叩いた。 三ヶ月前まで、毎日入力していたコード。
(変わっていないでくれ。……いや、変わっていてくれたら、僕は戦わずに済むのに)
そんな卑怯な願いを裏切るように、門は静かに、そして滑らかに開いた。
「なぜここのパスを……」ハルの疑問は騒々しい銃声にかき消された。
「……行けるぞ! 突入だ!」
ジンの咆哮が、無機質な静寂に包まれていた大門の前で裂けた。 重装兵たちが放つ威嚇射撃の轟音が、幾重にも重なる電子の防壁を物理的に叩き壊していく。
だが、その強引な突破を可能にしたのは、紛れもなくユーリの「指先」だった。
かつて、この街を守るために数千回、数万回と叩き込んだ個人認証コード。
指先が、そのリズムを、その微かな感触を、魂よりも正確に記憶していた。パスワードが承認された瞬間、大門が滑らかに開く「プシュッ」という排気音は、ユーリには自分の故郷の喉元を切り裂く断末魔のように聞こえた。
「――ごめん」
消え入るような呟きを置き去りにして、ユーリは踏み込んだ。 視界に広がるのは、白亜の幾何学模様が並ぶ、清潔すぎて血の気のない街並み。
かつては誇りだったその潔癖さが、今はただの「死に装束」に見えた
「あ……」
路地を抜ける瞬間、一人の女性と目が合った。 毎朝、任務の前に立ち寄っていたパン屋の店員だ。
彼女の腕の中には、あの日自分が「美味しいね」と笑いながら買った、合成香料たっぷりの菓子パンが抱えられていた。
彼女の瞳が、恐怖に大きく見開かれる。かつて自分を「街の希望」として見上げていたその瞳に、今は、破壊と死をもたらす「血まみれの裏切り者」が映っていた。彼女がパンを落とす。
とさっ。
その音を聞く前に、ユーリは影となってその場を走り抜けた。
「ミナは地下収容施設へ!ユーリは司令塔中央部!散れ! 残りの軽装兵は各階と市街地の捜索だ!」
ユーリは、自ら司令塔の五階から十五階という、最も中枢に近いエリアの捜索を志願した。
ここは、自分の「庭」だ。
どこに監視カメラの死角があり、どのダクトが空調の集中管理室に繋がっているか、その地図はすべて脳内に刻まれている。 狭いダクトの中を、音もなく、風よりも速く進む。
新政府のエリート教育で得た知識。それが今、かつての仲間を、かつての「父」のような教官を出し抜くための、最凶の牙へと変わっていた。
(アキト……どこだ……どこにいる!?)
執務室。訓練場。休憩室。
一室一室を確認するたびに、かつての自分の「日常」がフラッシュバックする
あの席でデオと昼飯を食べた。
あの角でシルヴィアと意見がぶつかった。
だが、そのすべての記憶を、今の自分の「泥に汚れたブーツ」が踏みにじっていく。 いない。ここにも、どこにも、義足の少年の気配はない。
その時、無線機が悲鳴に似たノイズを吐き出した。
『――こちら地上の重装兵部隊! 伏兵だ! EINの数が……想定を超えている! ぐわあああっ!!』
そのまま名もなき重装兵との通信は途切れる。
『軽装兵、戻れ! これ以上は持ちこたえられない!』
重装兵の防衛戦の崩壊。
カイトが怒鳴り声をあげる。慌ててダクトを飛び出し、階段を駆け下りた。
一階に辿り着いたユーリの目に飛び込んできたのは、三ヶ月前までの「理想郷」が、地獄の風景へと変貌している光景だった。
逃げ惑う市民の背中に、重装兵の流れ弾が降り注ぐ。
新政府の守備兵が放つ高出力のレーザーが、石畳を溶かし、肉を焼く。 その阿鼻叫喚の最中、ユーリは一人の兵士の死体の前で、金縛りにあったように足を止めた。
「……うそ……だろ……?」
崩れ落ちた壁のそばで、その男は壁に寄りかかるように倒れていた。
エネルギーを使い果たしたレーザー銃を持っている。最後まで必死に抵抗したのだろう。
それは、それは自分と一緒に、分隊長になるための血の滲むような試験を最後まで戦い抜いた、親友だった。
「いいかユーリ、お前が分隊長になったら、俺がお前の右腕として、この世界に本当の正義、そして純粋無垢な夢を広めてやるからな」
そう言って、屈託なく笑っていた彼の大きな手。 今、その手は、冷たいアスファルトの上で、何者にも届かない空を掴もうとして凍りついていた。
「あ、ああ…………」
喉から漏れたのは、言葉ではない。
魂がひび割れるような、乾いた叫びだった。 彼の顔だけ見れば安らかな寝息が聞こえてきそうだ、しかし、胴体は重装兵の射撃に巻き込まれ、もはや人間の形を留めていなかった。
自分たちが信じた正義が、親友の命を奪ったのか?
それとも、自分がこの門を開けたせいで、彼は死んだのか?
「行かなきゃ……行かなきゃいけないんだ……!」
ユーリは自分に呪文をかけるように呟き、親友の死体から目を逸らした。 ここで止まれば、自分も、ヘリで待つ仲間も死ぬ。
涙で視界が歪み、世界が真っ赤に燃えて見える。
感情を殺せ。機械になれ。
所属していた新政府軍が最も得意とする「効率的判断」が、今の自分の心をナイフで削り落としていく。
ヘリの着陸地点は、すでに鉄の戦場と化していた。
ハルが、撃破されたEINの残骸から引き抜いた最新鋭のエネルギー式ガトリング砲を、狂ったような叫び声と共に乱射している。
「早く乗れ! 燃料も弾ももう限界だ!!しかし新政府はいいモノ持ってるな。あは、はははははは!!!そこら辺のミニガンよりずっといい!!」
戦場では誰だっておかしくなってしまう。ハルも最新鋭のおもちゃで戦うのが楽しくて仕方がない様子だ。
「 全員乗ったか!?」
ユーリはヘリの陰に滑り込み、呼吸を荒げながら人数を数えた。
二十人いたはずの軽装兵。 だが、そこには、何度数えても「十九人」しかいなかった。
「……もう一人は!? 戻っていない奴は誰だ!」
「……ダメだ、無線も応答しねえ! EINの群れに飲まれたんだ!」
カイトが、視力のない瞳を宙に向け、血の滲む唇を噛み締めながら叫ぶ。
あと数分、いや数十秒待てば、その一人が戻ってくるかもしれない。 だが、その数十秒で、ここにいる全員が新政府の鉄槌に叩き潰される。
「離陸だ!!」
ジンの非情な決断が下された。 ヘリが強引に浮上する。
ユーリは、開いたままのハッチから、遠ざかっていく故郷を見下ろした。
二度目の別れ。
一回目は、正義のために。
二回目は、正義を壊すために。
ユーリは、遠ざかる司令塔を見つめながら、こみ上げる嗚咽を必死に飲み込んだ。自分の情が、また一人の仲間を失わせた。
島に戻ると、ジンがカイトに、今回の戦果を報告していた。
「……ユーリの動きは完璧だった。あいつの素早い撤退がなけりゃぁ、もっと死んでた。だがよ……」
ジンの低い声が、夜の静寂に響く。
「あいつ、自分の知り合いの死体を見たんじゃねえかな。……あの目の色は、普通じゃねえ」
ユーリはその声を聞かないふりをして、自分のテントに逃げ込んだ。
ストーブに火を入れる気力もない。
冷たい寝袋の中に潜り込み、毛布を頭から被った。
そうだ、
あの2人はいなかった。
それだけでいい。戦いでは人が死ぬ。
それが普通。
自分の命があるだけましではないか。
そう自分に言い聞かせる。
しかし残酷な記憶というものは簡単にはぬぐえない。
その夜、ユーリは夢は見なかった。
ただ、あの洞窟の奥で見た「真っ黒な空」が、彼の意識を包み込んでいた。
彼は限りなく透明になり、重さから解放され、どこまでも深く、冷たい暗闇へと落ちていく。
それは、絶望のどん底であると同時に、何者にも縛られない「自由」の入り口でもあった。
故郷を失い、親友を失い、正義を失った。 空っぽになったユーリの器の中に、夢の重力が、静かに流れ込み始めていた。
次回、最古にして最強、巨大要塞カナンへ終結します。




