10 聖マヌエルの試練(逸話)2
二郎が炎の道に足を踏み入れた瞬間、『枯れ野の平原』は静寂に包まれた。
この時、多くの者は、悲鳴を上げて飛び上がる魔皇の姿を幻視しただろう。火の中に足を踏み入れて、平気で居られる人間など居るはず無いからだ。
もしそんな事が可能ならば、それは人間では無い。だから『ただの子供にしか見えない魔皇』は、火傷を負い子供らしく泣き叫ぶはずだ。
そんな予感とも期待とも願望ともつかぬものが、二十万人を黙らせたのだ。
だがそんな不確かな『もの』は、魔皇が何事も無く二歩目を踏んで一掃されることになった。
「うそ……」
思わずと言った体で、ラヴィンの口から言葉が漏れる。
否定でも肯定でもなく、驚愕。炎熱が放つ陽炎の向こうに、一歩一歩前進する黒衣の少年の姿がある。凝っとラヴィンの目を見つめ一切の迷い無く炎の道を進むその姿は、まさしく試練に立ち向かう聖者の姿だ。
ラヴィンの視界の端で、見届け人達の何人かが腰を浮かせ、動揺している様子が見える。その中には、火渡りを命じたヴォータン教皇の姿もある。
『ありえん』
ヴォータン教皇の口が、そんな言葉を発したように見える。だが、その音が周囲に気取られることは無かっただろう。なぜなら、二郎の歩みを観衆のどよめきが追いかけはじめたからだ。彼らは今まさに、奇跡を目の当たりにしているのだ。
▲▽▲▽▲
ヴォータン教皇は、混乱していた。
「ありえん……」
目の前の光景に、思わずそんな言葉が出る。隣に控えていたギルボア枢機卿がギョッとした表情になっていたが、そんなことにかまっているような精神的余裕はまったく無くなっていた。
なぜなら、目の前の光景が信じられなかったからだ。つまり、魔皇が『火渡り』を成している事そのものである。
ヴォータンが虜囚になっていた時、ヴォータンは魔皇ことジロウ・ヤナギといくつかの条件闘争を行っていた。それは自らの生命の保障に始まり、現在の立場、つまりグリフ王国国王でありマールス教の最高指導者である教皇職の安堵が含まれる。
囚われの身ながらも軍事的優位を背景に、ヴォータンは東方三国同盟軍の盟主としての立場を維持するための計算を行っていた。
よって、この中に身代金は含まれていない。身代金の支払いはヴォータンの敗北を確定するため、ヴォータンにとっては出来ない相談だった。『最低限でも五分の停戦』にしなければ、ヴォータンが失う物は取り返しが付かない状況になるだろう。
そして、それは決して一方的に虫の良い話では無いという確信が、ヴォータンにはあった。
二十万人の軍勢は、そう簡単には止まれない。ましてや『聖戦』として発せられた以上、ヴォータンが不在となっても軍は動き続けるだろう。ヴォータンの不在によって、東方三国同盟軍の内部で主導権争いのような混乱が発生するかもしれない。そうなればさらに、軍の秩序を維持することが難しくなる。
結果、やはりダナン領は戦火に塗れることになる。
つまりヴォータンは、ダナン領に取っての『唯一の外交窓口』なのだ。ゆえに、ヴォータンの政治的価値を毀損すれば、外交交渉も意味を成さなくなる。
幸い、苛烈な半生によって競争相手をことごとく破滅させてきたヴォータンの代わりになれる人間は、少なくともグリフ王国には居ない。虜囚の身とはなったが、『権力の鮮度』を保っている限りにおいて、ヴォータンの『価値』は正しく機能するのだ。
魔皇はヴォータンの言を受け、「でしたら」といくつかの条件のようなもの提示してきた。
一つ、ヴォータンの身柄は、ラヴィン・ケイマン卿の預かりとすること。
一つ、公会議を開催し、主催として魔皇を異端審問にかけること。
一つ、体裁は整えるので、異端審問の審議は持ち帰ること。
一つ、ダナン領の臣従の意思を見せるため、『適当な試練』を魔皇に課すこと。
意図が読めない条件もあったが、神託騎士にヴォータンを預けるのは、まず『魔王討伐隊』の安全を確保するためなのだろうとヴォータンは理解した。異端審問についても、『審議持ち帰り』が前提であれば、経過がどのようなものでも大半は問題ないはずだ。
『適当な試練』については、「マールス教の最高指導者として発していただければ、それを受けることで大義名分が立ちます。もちろん軍を引いていただく口実になりますから」という理由でだった。
——だから、私は『火渡り』を命じたのだ! それがどういうことだ! もう二十歩以上渡っているではないか!
そう、ヴォータンは『試練』を失敗する前提で考えていたのだ。過剰な『火渡り一〇〇歩』というのも、ヴォータンからすれば、試練を受ける前に、『教皇の威光によって』魔皇が膝を屈するほうが都合が良いからである。
そこには、慈悲も仏心も無い。『戦争による破滅を恐れた魔皇側が折れる』という計算の元に、捕虜となった失点を回復させるための最大効果を得ようとしたのだ。
その前提が、今、ヴォータンの目の前で破綻しようとしている。
別室で経済談義をしていた、皇兄殿下の言う『望みの物』が、ヴォータンのそんな慢心や過信から発する『内容を問わない勅令』だったとは、神ならぬヴォータンが知るよしも無い話だった。
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『火渡りの試練』は続いていた。
二郎が『道』の半ばを過ぎる頃、周囲はしわぶき一つ無い静寂に包まれていた。ほんのわずかな時間に、次郎の顔には脂汗がにじみ、消耗がありありと浮かんでいる。
しかし、二郎が試練を投げ出す様子は無い。おそらくは常人には耐えがたい炎熱に身をさらし、激痛にさいなまれながらそれでも歩み続けるその姿は、一種の超越者を体現しているように見えるだろう。
だがそれゆえに、ラヴィンにとっては正視に耐えなかった。
この状況は、『神託騎士ラヴィン・ケイマン』が招いたものでもある。使命感に燃え、無邪気に、そして無思慮にダナン領へ来た結果、ラヴィンは教皇の正体や現実を徹底的に突きつけられた。その無知から発した罪を、異世界からの来訪者である二郎が、その身を文字通り焼き焦がしながら贖っている。
「目ェ逸らしたらアカンで」
唐突に響いた聞き覚えのある声に、ラヴィンは身をすくませた。
そこには、ラヴィンに随伴していた小柄な神官が居る。小柄だがヒト族の——。
「ウチより、ウチのヨメをちゃんと見るんや」
間違いない、魔人族のサラールだ。おそらく変装しているのだろうが、まったく気づかなかった。
そして最前、この神官が二郎の身を改めていた事を思い出した。不正防止のために身を改め、破魔の魔術で魔術的な防護を排除し——。
「——何かしたんですか?」
小声で発した問いに、「まあ」と、サラールが短く答える。
「身を改めるときに、両足に針で、毒をちょいとな」
「っ——!」
毒、と聞いた途端に上げそうになった悲鳴を、ラヴィンは寸前に飲み込んだ。
「安心しい。半死半生ぐらいで済む量やから。半分死んでるから、痛みも半分や」
そんな乱暴な、とラヴィンは思ったが、同時に得心もした。不正防止のための手続きをすり抜けた奇跡の種は、『君主が自ら毒を呷る』という、あり得ない手段だったのだ。特に猜疑心の強いヴォータン教皇などには、寸毫も思いつく余地は無かっただろう。
サラールは、小さく言葉を続ける。
「ほんまは、ウチがアンタんトコに居たかったんやけどな。けど、アンタに居てもらわんとアカンのや。せやから、目ェ逸らしたらアカン。ウチのヨメは今、アンタを目指しているんや」
サラールの声の奥底には、言いようのない怒りのようなものが混じっている。誰に、何に向けた怒りかは分からないが、それでもラヴィンは、二郎が文字通り身命を賭して試練に挑んでいる事だけは理解した。否、理解せざるを得なかった。
ラヴィンは、改めて二郎を見る。
二郎の消耗は増していたが、眼差しには絶対なる決意と意思をみなぎらせていた。
——前へ。
それは、まがうこと無き聖人の姿に思えた。
そして。
風が草を揺らす音しか無い静寂の中、二郎はラヴィンの元に、たどり着いた。
つづく
見てくれている読者の皆様に感謝を。
続きはあまり間を空けずに出したいと思います。
2016年6月26日 全面改稿




