09 聖マヌエルの試練(逸話) 1
「どうして『火渡り』なんか受け入れたんですか!」
蒼白な顔色で怒りを示すという器用な表情で、ラヴィンは魔皇こと柳二郎に問いかけた。
場所は、急造された神殿の下手側の一角である。
そこには今まさに、火渡りのための『道』が作られているところだった。盛り土を行い、熾した木炭を敷き詰める。赤々と燃える炭火は、まるで神話に聞く奈落への炎の道のようだ。
二郎はというと、例の黒衣姿で床几に腰掛け、ズボンの裾をまくって素足を焚き火にかざしている。まるで緊張感が無く、場所や状況が常軌を逸していなければ、焚き火で暖を取っているようにしか見えない。
それがますます、ラヴィンを混乱させている。なぜなら、教皇の示した『火渡り一〇〇歩』というのは、どう考えても過剰な試練——つまり、不可能な事が前提だからだ。
待ち伏せと奇策と口八丁手八丁で、魔皇兄弟は主に宗教的にはいっときの猶予をもぎ取った。三国同盟軍がそう簡単に再び軍を発することが出来ない状況になった今、結果だけを見れば魔皇兄弟の完勝と言っても差し支えない。
同様に、ラヴィンたち『魔王討伐隊』の安全も担保されたと言って差し支えないだろう。なぜなら、詳しい経過は知られずとも、二十万余の三国同盟軍の全将兵にとって、教皇陛下を救出したのは間違いなくラヴィンたち『魔王討伐隊』だからだ。
討伐隊の誰かが、あるいは全員が不審な死を遂げようものなら、ヒト族国家間で良くて疑心暗鬼、悪ければ国際紛争、最悪の場合だと全面戦争の火種ぐらいにはなる。
三国同盟軍の人々、中でも特に経済感覚のある貴族たちは、隣国の軍勢を見て具体的にその結果を想起し、あまりにも収支の合わない結果を想像して嫌な汗を自覚せざるを得なかった。
そして今なお、魔皇の『一〇〇万の軍勢』が頭の片隅に残っている。
もはや厭戦気分は、三国同盟軍将兵のほとんど全ての者にとって、身分階級を問わず共通したものになっていた。
ゆえに、不和の種となる『火渡り』を命じたヴォータン教皇と、それを受け入れた魔皇の事を理解している者は、皆無と言っていい状態だった。ラヴィンの言葉は、ある意味この場に居る二十万人余りの疑問を代弁しているのだ。
「そんなに怒らないで下さいケイマン卿。自分でも結構なバカをやっているという自覚はあるんですよ」
はにかみながら、二郎が言う。その言葉に何か返そうとラヴィンは大きく息を吸い、考え、そして言うべき言葉が見つからなくて息を吐いた。
「……何をする気なんですか?」
「『聖マヌエルの奇跡』を再現しようと思います」
二郎の言葉に、ラヴィンが怪訝そうな表情をする。
『聖マヌエル』は、マールス教における聖人の一人である。別名『寛容と赦しの聖人』。そして、『火渡り』の逸話を持つ人物だ。
マールス教の聖典には、聖マヌエルの逸話がこうある。
ある村の教会に盗っ人が入り込み、銀製の聖印を盗もうとした。しかしそれを神がお怒りになり、教会に稲妻を落とし、教会は一瞬にして燃え上がった。
火に囲まれた盗っ人は、周囲の村人に助けを求めた。しかし教会に盗みに入り、神の怒りを受けた盗っ人を助けようとする者は居なかった。
そこに現れたのが、後に聖マヌエルと呼ばれる人物である。彼は村人の制止を聞かず、聖句を唱えると炎の中へと歩み行った。すると、炎が彼を避けていったのだ。
聖マヌエルは祭壇で聖印にすがりついていた盗っ人を見つけ、聖印ごと背負い教会を抜け出した。この時、焼けた聖印のせいで聖マヌエルは背中にの火傷を負い、盗っ人は胸に聖印の火傷を負ったという。
そして、神の加護を受けた聖マヌエルは、無事に教会を抜け出した。
聖マヌエルは炎に巻かれずには済んだが、焼けた石床のために足に火傷を負った。盗っ人はマヌエルに跪き、神とマヌエルに赦しを乞うた。聖マヌエルはそれを赦し、盗っ人を弟子に迎え入れたという。
その時に聖マヌエルが、火傷を負いつつ歩んだ歩数が、往復で四十八歩と言われている。ゆえに聖マヌエルは、四十八の聖数を持ち、寛容と赦しをもたらす聖人として聖典に記されているのだ。
マールス教にとっての『火渡り』はつまり、この聖マヌエルの逸話にちなんだものである——本来は。
つまりラヴィンにとって『火渡り一〇〇歩』というのは、聖典に記される聖人の偉業を遙かに超える奇跡なのだ。もはや、無理難題という階梯の話では無い。ラヴィンが複雑な表情をし、声を荒げるのも当然と言える。
そしてその疑問と混乱は、おそらくはヴォータン教皇以外の三国同盟軍全ての者たちが、共通して持っているものなのだ。公会議を経て事態は一応の決着を見たはずなのに、ヴォータンは教皇の権限をもって、根回しも無く『その次』を始めてしまったために。
グリフ王国以外の貴族将官からすれば、疑念と邪推の一つも考えてしまう所だ。ヴォータン教皇は果たして、思いもよらないのかそれとも無視しているのか。
そうこうしているうちに、『火渡りの試練』の準備が整った。教皇を始め、各国の代表者と主だった宗教指導者が、見届け人として席に着く。各員の表情は千差万別で、ヴォータン教皇に批判的な視線を向ける者も居た。
ギルボア枢機卿が立ち上がり、宣誓を行う。
「ではこれより、漂来者ジロウ・ヤナギへのいた——失礼、ああ、ええ、『火渡りの試練』を執り行う」
ギルボア枢機卿が『異端審問』と言いかけて、言葉を探りながら訂正した。前例の無い事態で、とっさに言葉が出なかったのだろう。
「ジロウ・ヤナギは前へ」
「かしこまりました」
二郎が、床几から立ち上がった。前に進みかけて、思いついたように二郎がラヴィンに声をかける。
「一〇〇歩先で、待っていて下さい」
それだけ言うと、二郎は火の道の端へと歩いて行った。そこには小柄な神官とグリフ王国の魔術師がおり、神官が二郎の身を改める。そして魔術師が、魔術を検知する魔術と、破魔の魔術を二郎に唱える。
どれも不正防止のためだ。
神官は二郎と二言三言小声で話すと、ラヴィンの元へ来て「こちらへ」と炎の道の先へと促した。赤い炭火を横目にラヴィンが一〇〇歩ほどを歩き、火の道を挟んで二郎と向き合う。案内した神官は、ラヴィンの傍らに立った。
「では、はじめよ」
ギルボア枢機卿が宣言し、『火渡り』が始まった。
二郎は迷い無く、火の中に足を踏み出した。
つづく
データ吹っ飛ばしてくじけてましたが、色々なものを立て直しつつ。
なので、以前の文章とはずいぶん違っています。
お待ち下さっている方々には、心から感謝の言葉を。
2016年6月26日 全面改稿




