49話「陸斗が辞めた後の会社⑥」
翌朝。
斉藤は、ほとんど眠れないまま本社会議室の前に立っていた。
手元には、過去三か月分の業務記録と増員申請書。
納期の延長を求めたメール。
無野部長から、予定どおり査定を終えるよう命じられた記録。
そして、自分が署名を拒否した顛末書の写しがある。
「斉藤課長」
呼び掛けられ、顔を上げる。
廊下の向こうから、星川部長が歩いてきた。
「昨日は、ほとんど休んでいないだろう」
「薬花草の再鑑定が残っていましたので」
「部下には帰れと言って、自分だけ残ったそうだな」
「これ以上、無理をさせるわけにはいきません」
「自分も、その部下の一人だと思え」
厳しい言葉だったが、斉藤を責めているわけではなかった。
「今日の会議では、俺が提出した記録も使う。増員申請と納期延長を取り下げたのが誰なのか、すでに確認してある」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、まだ早い」
星川部長が閉ざされた会議室の扉を見る。
「無野部長は、具土副社長の甥だ。簡単には認めないだろう」
「分かっています」
無野部長が、具土副社長の姉の息子であることは社内でも知られていた。
大学を卒業して入社したあと、現場経験が浅いまま管理職へ昇進。
業務上の問題が起きても、大きな処分を受けたことはない。
副社長の後ろ盾があるからだと、陰で囁かれていた。
「ですが、俺にも責任はあります」
「責任があることと、すべての責任を押し付けられることは別だ」
星川部長が、斉藤の肩へ手を置く。
「事実だけを話せ。余計なことまで背負うな」
「……はい」
会議室の扉が開く。
斉藤は星川部長と共に、中へ入った。
◇
会議室には、すでに社長、具土副社長、人事部長、法務部長、そして上司の無野部長が揃っていた。
最初に説明を始めたのは、無野部長だった。
「今回の査定不備は、品質管理課における検査工程の簡略化が原因です」
大型モニターへ、問題となった薬花草の査定記録が表示される。
「本来行うべき抜き取り検査を、現場の判断で削減した。その結果、品質Bの薬花草へ品質CとDが混入していることを見落としました」
「現場の判断?」
星川部長が低い声で聞き返す。
「そうだ」
「検査時間を半分に短縮しろと命じたのは、あなたではないのか?」
「納期を守るよう指示しただけだ。具体的な検査方法は、課長が決めることだろう」
「その課長が、現在の人員では納期を守れないと報告している!」
星川部長が机へ資料を置く。
「斉藤課長は、納期の延長と増員を求めていただろう! それを取り下げたのは、品質管理部の部長であるあなた自身だ!」
会議室へ、紙のぶつかる音が響いた。
モニターへ、無野部長が送ったメールが表示される。
◇____________________
『現在の人員で対応可能と判断する』
『納期延長申請は取り下げること』
『増員は不要』
『一城が退職した程度で、品質管理部の処理能力が低下したと思われては困る』
____________________◇
「そのメールは、現場の報告を受けたうえでの判断だ」
「斉藤課長から送られた報告には、『現在の人員では対応困難』とはっきり書かれている」
「課長なら、困難な状況でも解決策を考えるべきだ」
「だから増員と納期延長を求めたんだろう!」
星川部長が声を荒らげる。
「部下からの警告を無視しておきながら、問題が起きたら現場の責任か!」
「営業部が無理な納期で契約を取ったことも原因だ」
「先方とは延長の話がまとまりかけていたと言っただろう! あなたが『予定どおり査定できる』と回答を変えさせたんだ!」
無野部長が顔を歪める。
「品質管理部の能力を疑われるわけにはいかなかった」
「その見栄のせいで、実際に会社の信用を失っているんだ!」
「そこまでにしろ」
具土副社長が机を叩いた。
「感情的になっても問題は解決しない」
「感情的にもなります。主要取引先二社から取引を止められ、製造ラインを止めた会社から補償まで求められているんですよ」
「だからこそ、明確な責任者を示す必要がある」
副社長の視線が、斉藤へ向けられた。
「問題となった査定書、品質証明書、納品管理書。そのすべてに、斉藤課長の承認が記録されている」
「最終的な部署責任者は、品質管理部の部長である無野です」
「実際の査定業務を管理していたのは斉藤課長だ」
星川部長が、具土副社長を睨む。
「甥を守るために、斉藤課長だけを切り捨てるつもりですか?」
「私情を持ち込むな!」
「持ち込んでいるのは、どちらです!」
会議室の空気が張り詰める。
社長は眉間へ指を当て、しばらく黙って資料を読んでいた。
「斉藤課長」
やがて、静かな声で呼ばれる。
「君の意見を聞きたい」
「はい」
斉藤は立ち上がった。
「検査工程が短縮されていることは把握していました。現在の人員では納期を守れず、通常どおりの検査が行えないと判断し、増員と納期延長を申請しました」
「だが、結果として不十分な検査を認めた」
「はい」
そこから逃げるつもりはなかった。
「部下へ無理な業務を続けさせ、査定書へ承認した責任は俺にあります。業務を止めてでも、検査方法を元へ戻すべきでした」
「斉藤課長っ!」
星川部長が止めようとする。
斉藤は小さく首を横へ振った。
「一城がいた頃も、俺は同じことをしました。仕事が早いからという理由で、彼へ多くの業務を押し付けた。処理できているように見えたので、負担を減らそうとは考えませんでした」
今なら、その異常さが分かる。
一人の社員が無理をしなければ維持できない業務体制。
それを、仕事が回っていると勘違いしていた。
「俺にも責任はあります。ですが、無野部長から渡された顛末書には、事実と異なる内容が記載されています」
斉藤は、顛末書の写しを机へ置いた。
「調合による事後対応は、納入元と取引先から書面で許可を得ています。無野部長へも、事前に報告しました」
「私は承認していない」
無野部長が即座に否定する。
「承認メールが残っています」
「現場の提案を確認しただけだ」
「本文には、『その方法で進めろ』と書かれています」
星川部長が、該当するメールをモニターへ表示した。
無野部長の顔色が変わる。
「……細かな文面までは覚えていない」
「都合の悪いことだけ忘れるのか?」
「星川部長!」
「もういい」
社長が二人を制した。
「今回の件については、社外の専門家を含めた監査を行う。過去三か月の査定記録、申請書、メール、承認履歴をすべて調査対象とする」
「そこまでする必要はないでしょう」
具土副社長が反対する。
「社内の問題は、社内で処理すべきです」
「主要取引先から、調査結果の提出を求められている。社内だけで済ませられる段階ではない」
「ですが__」
「これは決定事項だ」
社長が言い切る。
具土副社長と無野部長は、それ以上反論しなかった。
だが、これで斉藤の責任が消えるわけではない。
社長は人事部長へ目を向ける。
「取引先への説明については、どうなっている?」
「先方は、品質管理体制の刷新と責任の明確化を求めています。特に、該当書類へ承認した管理者が今後も同じ業務へ関わるのであれば、取引再開は難しいとのことです」
「つまり、斉藤課長を外せということか」
「明言はされていません。ただ、先方へ提出した書類には、斉藤課長の名前が責任者として記載されています」
具土副社長が腕を組む。
「外部から見れば、責任者は明確だ。会社としても、相応の処分を示す必要がある」
「なら、課長から外せばいい」
星川部長が言った。
「本人も管理責任を認めている。降格や異動で対応できるはずだ。品質管理部へ残せないなら、営業部で引き取る」
「問題を起こした管理職を受け入れるつもりか?」
「斉藤課長は、八年間も素材の査定に携わってきた。『鑑定』だけではなく『調合』も持っている。取引先へ素材の状態を説明できる人材として、営業部でも十分に働ける」
「認められない」
具土副社長が、即座に却下する。
「身内に甘い処分だと思われれば、会社の信用をさらに失う」
「甥には甘くしておいて、よく言えますね」
「星川部長!」
「私は間違ったことを言っていますか?」
再び声がぶつかる。
だが、斉藤には分かっていた。
自分の承認記録が残っている以上、無傷では済まない。
そして具土副社長は、甥である無野部長を守るためなら、何としてでも自分を会社から追い出そうとするだろう。
「処分案を伝えます」
人事部長が、重い表情で書類を読み上げる。
「斉藤課長へ、退職勧奨を行います。懲戒処分とはせず、退職金は社内規定に基づき満額を支給。離職理由は会社都合として扱います。また、今回の損害について、本人へ賠償請求は行いません」
「待ってください!」
星川部長が立ち上がる。
「監査結果が出る前に、退職させるのか!」
「取引先へ、本日中に再発防止策を提出しなければなりません」
「それは会社側の都合だろう!」
「分かっています」
人事部長は苦しそうに答えた。
「ですが、斉藤課長が承認した書類に不備があったことも事実です。何の処分も行わないという判断はできません」
「なら、せめて監査が終わるまで待て」
「その間に、取引先が契約を打ち切ればどうする?」
具土副社長が冷たく告げる。
「数十人の雇用が失われる可能性もある。それでも一人を守るのか?」
星川部長が拳を握り締める。
斉藤は、机の下で深く息を吐いた。
「確認させてください」
「何だね?」
社長が斉藤を見る。
「俺が退職勧奨を受け入れれば、今回の件で品質管理課の社員へ懲戒処分は行わないと約束していただけますか?」
「斉藤課長、それは__」
「星川部長。ありがとうございます」
斉藤は、星川部長へ頭を下げた。
最後まで味方をしてくれた。
それだけで十分だった。
「検査を担当した社員たちは、三か月間、休みも取れない状態で働いていました。工程を短縮した責任を、若手社員へ負わせないでください」
「……分かった」
社長が頷く。
「現場社員については、故意の不正が確認されない限り処分しない。人員の増加と納期の見直しも行う」
「書面に残してください」
「約束する」
「それなら、退職勧奨を受け入れます」
星川部長が、悔しそうに目を閉じた。
無野部長は何も言わない。
具土副社長だけが、満足そうに椅子へ背を預けていた。
◇
会議を終えたあと。
斉藤は人事部で、退職に必要な書類を受け取った。
退職金は満額。
離職理由は会社都合。
懲戒記録は残さない。
部下への責任追及は行わない。
先ほど約束された条件が記載されていることを確認し、署名する。
「斉藤くん」
私物を入れた箱を持って廊下を歩いていると、星川部長が追い掛けてきた。
「申し訳ない。守り切れなかった」
「星川部長が謝ることではありません」
「俺がもう少し早く、品質管理部の状況を調べていれば……」
「最後まで味方をしていただけただけで、十分です」
「十分なわけがあるか」
星川部長は悔しそうに顔を歪めた。
「監査では、必ず事実を明らかにする。無野部長と具土副社長には必ず責任をとってもらう」
「お願いします」
「それから、これを持っていけ」
星川部長が、一枚の名刺を差し出した。
会社の物ではなく、個人用の連絡先が書かれている。
「次の仕事で困ったら連絡しろ。取引先や同業者へ、俺から紹介できる」
「そこまでしていただくわけには……」
「俺がしたいんだ。お前の八年間まで、今回の一件で否定させるつもりはない」
「……ありがとうございます」
斉藤は、名刺を大切に財布へしまった。
◇
品質管理課へ戻ると、社員たちの手が一斉に止まった。
斉藤が持っている箱を見て、何が決まったのか察したのだろう。
「課長……辞めるんですか?」
「ああ。今日付けで退職することになった」
「そんな……」
「俺たちが検査を省いたからですか?」
「違う」
斉藤は、はっきりと否定した。
「検査方法を元へ戻す決断をしなかった、俺の責任だ。君たちが処分を受けることはない」
「でも、課長だけが辞めるなんて……」
「これから増員も行われる。納期の見直しも約束してもらった」
それが、本当に守られるかは分からない。
だからこそ、斉藤は社員たちへ伝える。
「無理な仕事は、無理だと言ってくれ。口頭だけではなく、必ず記録へ残すんだ」
「課長……」
「誰か一人が無理をして仕事を終わらせると、上はその人数で処理できると判断する。今回のような働き方を、当たり前にしないでくれ」
一城が無理をして仕事を終わらせ続けた結果、会社は異常な処理量を正常だと思い込んだ。
そして今度は、残された社員全員が同じことを繰り返そうとしていた。
「今日は、全員定時で帰ってくれ」
「仕事が残っています」
「明日できる仕事は、明日でいい。休まなければ、正しい鑑定もできない」
社員の一人が、俯いたまま涙を拭う。
「今まで、ありがとうございました」
「こちらこそ、支えてくれてありがとう」
斉藤は一人ずつへ頭を下げ、品質管理課をあとにした。
◇
会社の玄関へ着くと、斉藤は首から社員証を外した。
八年間、毎日のように使ってきた社員証。
表面には、所属と名前が記されている。
◇____________________
『品質管理部 品質管理課長』
『斉藤涼介』
____________________◇
「社員証と端末を返却します」
「……確かに、お預かりしました。長い間、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
受付の社員へ社員証を渡す。
斉藤涼介、三十歳。
大学を卒業してから、この会社へ入社した。
勤続八年。
一城陸斗より二歳年上だが、会社へ入ったのは二年遅かった。
一城は高校を卒業した十八歳の時から、この会社で働いていた。
つまり入社した当時、一城は年下でありながら、二年先に働いていた先輩だった。
それでも涼介は、大卒であることと、『鑑定』に加えて『調合』を持っていたことで先に昇進した。
やがて一城の上司となり、仕事を指示する立場になった。
「俺は……先輩へ、何をしていたんだろうな」
私物の入った箱を抱え、会社を振り返る。
胸元には、先ほどまであった社員証がない。
それでも、不思議と戻りたいとは思わなかった。
涼介は正面へ向き直り、八年間勤めた会社をあとにした。
◇
「おかえりなさい、涼介さん」
自宅の扉を開けると、妻の明里が出迎えてくれた。
斉藤の持っている箱を見て、すぐに表情を変える。
「会社……辞めたの?」
「今日付けで、退職することになった」
「そう……」
明里は理由を聞く前に、箱を受け取った。
「お疲れさま。八年間、よく頑張ったね」
「怒らないのか?」
「どうして私が怒るの?」
「これから収入がなくなる。次の仕事も決まっていない」
「しばらく生活できるだけの貯金はあるし、退職金も出るんでしょう?」
「ああ」
「だったら、まずは休もう」
明里が、涼介の頬へ手を伸ばす。
「ずっと、酷い顔をしていたよ」
「明里の食事があったから、倒れずに済んだ」
明里が持つ『料理』と『調理強化』。
彼女が作った食事には、食べた者の身体能力を半日だけ底上げする効果がある。
この三か月間、残業と休日出勤を続けても倒れなかったのは、間違いなく明里の食事に支えられていたからだ。
「私の料理で身体は支えられても、心まで無理をさせることはできないよ」
「……そうだな」
明里に支えられていた自分でさえ、限界だった。
一城は、誰にも弱音を吐けないまま、さらに長い間働き続けていた。
「一城さんへ、謝りたいんでしょう?」
明里には以前から、一城のことを話していた。
仕事を押し付けていたこと。
過労で倒れた一城を守れなかったこと。
解雇されたあとも、一度も謝罪できなかったこと。
「ああ。でも、今さら連絡しても迷惑なだけかもしれない」
「迷惑かどうかを決めるのは、一城さんだよ」
明里が静かに告げる。
「許してもらうためじゃなくて、自分が悪かったと伝えるために行ってきて」
「許してもらうためじゃなく……」
「うん。返事がなくても、許してもらえなくても、自分がしたことから逃げないために」
涼介はスマートフォンを取り出した。
連絡先の中には、今も一城陸斗の名前が残っている。
何度も開き、そのたびに閉じてきた連絡先。
涼介は迷いながらも、文章を打ち始めた。
◇____________________
『突然の連絡で申し訳ありません。斉藤です』
『会社にいた頃、俺は君へ仕事を押し付け、過労で倒れるまで追い詰めました』
『今さら許してほしいとは言いません』
『迷惑でなければ、一度だけ直接会って、謝罪させてもらえないでしょうか』
____________________◇
何度読み返しても、十分な言葉だとは思えなかった。
八年間積み重なったものを、数行の文章で償えるはずがない。
それでも、何も伝えないまま逃げ続けることだけはやめよう。
「送るよ」
「うん」
明里が隣で頷く。
涼介は意を決し、送信ボタンへ触れた。
今度こそ、自分が傷付けた相手と向き合うために。
読んでいただきありがとうございます。
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