139話「切断された左腕」
「あ……」
自分の口から漏れた声なのに、ひどく遠くから聞こえた。
黒い『魔獣革の手甲』が、白い霧の中を回っている。
その中にあるのは、俺の左手だ。
そう分かっているのに、左手を握ろうとした。
指を曲げたつもりだった。
けれど、何も返ってこない。
左肘から先に、あるはずの重さがなかった。
「……俺の、腕……」
遅れて、左腕を焼けた杭で貫かれたような痛みが突き上げた。
「――ぐ、ぁっ!?」
息が止まる。
膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。
右手で左腕を掴む。
指先が、すぐに生温かく濡れた。
押さえなければ。
押さえれば、止まる事はない。
そう思うのに、力の入れ方が分からない。
右手が滑るたび、胸の奥が冷たくなった。
「陸斗さんっ!」
美咲さんの叫び声が裏返った。
駆け寄った美咲さんが、俺の左腕を見て息を呑む。
顔から血の気が引き、伸ばしかけた手が宙で止まった。
「そんな……」
零れた声は、今まで聞いたことがないほど弱かった。
それでも、美咲さんは唇を強く噛み、崩れた俺の身体を抱える。
すぐそばで何度も名前を呼ばれているはずなのに、その声にも薄い膜が掛かっていた。
耳鳴りがする。
視界の端が暗い。
「ぴる……ぴるるるっ!」
ユキの声で、意識が引き戻された。
泥の上へ転がされたユキが、俺と、霧の中へ飛んでいく左腕を何度も見比べた。
白い身体が大きく震える。
すぐに俺の左側へ跳ねてくる。
ユキ自身に傷はない。
無事だ。
そのことだけは、はっきり分かった。
右耳の『DFスライムの耳飾り』から、ユキの感情が流れ込んでくる。
怖い。
治したい。
ご主人が自分を庇ったから、こんなことになった。
言葉ではない感情が、痛いほど伝わってきた。
ユキの頭上で、結晶冠が淡い緑色へ光り始める。
「駄目……だ」
「ぴるっ!?」
「俺じゃない……防御を……」
言葉を続けるだけで、息が震えた。
「まだ、いる……」
霧の奥で白い外衣が膨らむ。
次の瞬間には、天狐竜の巨体が目の前まで迫っていた。
「ぴるぅっ……!」
ユキは俺と天狐竜の間で身体を揺らした。
緑色の光が消えかけ、また灯る。
俺のそばに残るか、天狐竜を止めるか、決められずにいる。
「ユキ……頼む……」
「ぴるるっ……!」
悲鳴のような声を上げ、ユキが結晶冠の緑色を消した。
二枚の白銀鎧と純白の魔法盾が、俺たちの前へ重なった。
天狐竜の爪が、一枚目の白銀鎧を叩き飛ばす。
激しい音が頭の奥まで響いた。
ユキの身体が潰れそうなほど縮む。
それでも逃げず、何度も俺を振り返りながら、残った白銀鎧を純白の魔法盾へ重ねた。
俺を治したいはずなのに。
俺が命じたから、天狐竜を止めている。
「シズク! 陸斗さんの左腕を……お願い、回収してください!」
「ぷるっ!?」
美咲さんの声に、シズクが俺の左腕を見る。
青い身体が硬直し、鳴き声が震えた。
それでもすぐに霧の中へ飛び込む。
左腕。
その言葉だけが、耳の奥へ刺さった。
見てはいけないと思った。
それでも目が勝手に追ってしまう。
泥へ落ちかけていた黒い手甲が、風に包まれる。
一度、風が大きく乱れた。
落ちかけた左腕の下へシズク自身が滑り込み、もう一度風を起こす。
「ぷるるぅっ……!」
泣くような声と共に、左腕が浮き上がった。
俺の左前腕が、シズクと一緒に戻ってきた。
「よかった……シズク、そのまま保持してください。ユキは防御を続けて!」
「ぷるぅっ!」
「ぴるるっ……!」
シズクは俺のそばへ戻ろうと身体を傾けた。
だが、風の中の左腕を見て、その場へ留まる。
ユキも俺へ駆け寄れない。
二体とも声を震わせながら、自分に任された役目を続けていた。
美咲さんが俺の探索者ベルトへ手を伸ばす。
指が止血帯の留め具を掴み損ねた。
二度目で引き抜いた手は、目に見えて震えている。
「ごめんなさい。陸斗さん、締めます!」
左の上腕へ巻かれた止血帯が、一気に締まる。
「――あああっ!」
視界が真っ白になった。
逃れようとして身体が動く。
だが、美咲さんは「ごめんなさい」と繰り返しながら、止血帯から手を離さない。
その頬には、いつの間にか涙が一筋だけ流れていた。
「陸斗さん、私を見てください! お願いです、目を閉じないで!」
声を追う。
何度か瞬きをすると、滲んだ視界の中央に美咲さんの顔があった。
「ここからは私が指揮を引き継ぎます。陸斗さんは、私の声だけを聞いていてください」
頷いたつもりだった。
実際に頭が動いたかは分からない。
このまま目を閉じたら、次は開けられない気がした。
俺が動けなくなれば、誰かが俺を運ぶために戦線から抜ける。
防御も左腕の回収も崩れ、全員の撤退が止まる。
右手の爪を掌へ食い込ませた。
意識だけは、絶対に手放さない。
「返事をしてください! お願いですから……!」
「……分かった」
美咲さんが俺の右側へ入り、肩を貸してくれる。
立ち上がろうとした。
一歩目で、身体が左へ傾いた。
あるはずの左腕で均衡を取ろうとして、何もないことをもう一度思い知らされる。
それでも右脚で地面を踏み直し、自分の力で身体を起こした。
「大丈夫です。私が支えます。絶対に離しません」
美咲さんの声に従う。
美咲さんに傾く身体を支えてもらっても、足を前へ出すのは俺自身だ。
支える腕にも、呼吸にも余裕はない。
それでも美咲さんは数歩ごとに俺の顔を覗き込み、意識があることを確かめた。
気を抜くたび、視界の外側から暗闇が広がってくる。
美咲さんの声を追い、右足、左足と心の中で数えた。
起きていろ。
歩き続けろ。
「ユキ、三つの防具で後方を守ってください! シズクは腕を保持したまま、出口への霧を押し開いて! もう少しだけ、力を貸してください!」
「ぴるるっ!」
「ぷるっ!」
俺たちは濃霧区域の出口へ向かう。
だが、天狐竜が三つの防具を押し込み、帰還経路へ回り込んだ。
白い巨体が道を塞ぐ。
もう戦えない。
戦わなければと思い、腰の白銀短剣へ右手を伸ばす。
だが、今の俺が短剣を抜けば、美咲さんの支えまで失う。
柄へ触れる直前で手を止め、震える脚へ力を戻した。
「私が……私が、必ず道を開きます」
美咲さんが俺の背中を巨木の根元へ預ける。
座り込めば、もう立てないかもしれない。
根へ右肩を押し付け、膝を伸ばしたまま踏み留まった。
切断部へ当てた布を離すことを恐れるように、手が動かなかった。
それでも天狐竜と俺を見比べ、探索鞄へ手を入れる。
取り出したのは、四本目の魔力回復薬だった。
「美咲さん……それ以上は……」
「間に合わせます」
美咲さんが俺を見た。
泣き出しそうな目をしているのに、俺から視線を逸らさない。
「陸斗さんを、絶対に死なせません。全員で帰ります」
最後の言葉だけは、震えていなかった。
美咲さんは蓋を歯で抜き、薬を飲み干す。
空瓶を鞄へ戻すと、黄金短剣を抜いて天狐竜の正面へ立った。
「――魔力解放ッ!!」
美咲さんの全身から、濃い魔力が噴き上がった。
足元の泥が外側へ弾ける。
巨木の枝が大きく揺れ、水滴が雨のように降った。
美咲さんは、まだ短剣を振らない。
解き放たれた魔力が黄金短剣へ集まり、紫色の稲妻へ変わっていく。
光が強くなるほど、美咲さんの膝が沈んだ。
「やめ……」
止めたかった。
だが、声にならない。
「ハァァァァァァ――――――紫電一閃ッ!!」
黄金短剣が振り抜かれた。
紫電を巻き込んだ魔力の波が、正面から天狐竜へぶつかる。
「ギャアアアッ!」
天狐竜が四肢の爪を泥へ食い込ませた。
それでも巨体は押し戻され、帰還経路の横へ逸れていく。
白い霧が左右へ吹き飛んだ。
その先に、二本の巨木が見える。
出口だ。
「今です! 走ってください!」
美咲さんが真っ先に俺を振り返る。
一歩踏み出したところで、その身体が傾いた。
右腕を伸ばし、どうにか肩を支える。
「美咲さん……」
「まだ……走れます。だから、陸斗さんも……私のそばにいてください」
左腕を失った俺と、魔力を使い切った美咲さんが、互いへ身体を預ける。
ユキが泣くように鳴きながら、三つの防具を背後へ回した。
シズクは俺の左前腕を風で浮かせたまま、俺たちのすぐ横へ寄る。
震える身体を押し付ける代わりに、弱い風が何度も俺の頬へ触れた。
もう一つの風が、出口までの霧を押し開く。
走る。
美咲さんの肩へ縋りながらも、自分の脚で地面を蹴った。
体重を全て預けて美咲さんまで倒れれば、開いた退路が閉じる前に霧を抜けられない。
地面を一度踏むたび、左腕の奥で痛みが弾けた。
ないはずの指が、まだ握り締められているように痛む。
足元が揺れているのか。
俺が揺れているのか。
分からない。
美咲さんの肩だけは離さない。
「陸斗さん、聞こえていますか?」
「……聞こえてる」
「そのまま、返事を続けてください」
美咲さんは前を向いたまま、俺の返事を求め続けた。
声を出すたび、沈みかけた意識が僅かに浮かぶ。
返事をする。
足を出す。
それだけを繰り返した。
背後で衝突音が響く。
「ぴるぅっ!」
一枚の白銀鎧が俺たちの横を掠め、巨木へぶつかった。
ユキの身体が大きく揺れる。
俺へ向かって跳ねかけたあと、必死に踏み留まり、白銀鎧の軌道を天狐竜との間へ戻した。
耳飾りを通じて、同じ願いが何度も流れ込んでくる。
消えないで。
いなくならないで。
振り返るな。
前へ。
あと少し。
頭の中で、同じ言葉だけを繰り返した。
二本の巨木の間を抜ける。
まとわり付いていた白い霧が薄くなり、通信機の雑音が急に小さくなった。
『一城さん! 佐伯さん! 聞こえますか!?』
高橋さんの声が聞こえた。
助かった。
そう思った途端、張り詰めていた意識が沈みかけた。
まだだ。
出口の転移門までは遠い。
奥歯を噛み締め、右脚を前へ出す。
「聞こえます! 陸斗さんが……っ」
美咲さんの声が詰まった。
俺を支える腕へ力が入り、すぐに言葉を切り替える。
「まだ止まれません! 霧から離れてから、必ず報告します!」
美咲さんが代わりに答えた。
『承知しました。そのまま記録済みの経路を戻ってください!』
濃霧区域を出ても、美咲さんは止まらなかった。
俺には、もう周囲を判断できない。
肩を支えられながら、美咲さんの速さへ自分の足を合わせる。
「陸斗さん、聞こえていますか?」
「……ああ」
一歩。
もう一歩。
「私の名前を呼んでください」
「美咲……さん……」
「はい。ここにいます。ずっと支えていますから」
白い霧が巨木の向こうへ隠れる。
天狐竜の咆哮が遠ざかる。
やがて、後ろを見ていたシズクが短く鳴いた。
「ぷるぅっ……」
「追ってきていません。ここで応急処置をします」
美咲さんに巨木の根元へ座らされる。
背中が幹へ触れた瞬間、全身から力が抜けそうになった。
ここで意識を失えば、再び立ち上がれない。
右脚へ力を残し、沈み込む身体を幹へ押し付ける。
呼吸が浅い。
身体は寒いのに、左腕だけが焼けるように熱い。
シズクがすぐに俺の右肩へ身体を押し付けた。
何度も震えながら、頬へ触れようと身体を伸ばす。
「ぷる……ぷるるぅ……」
俺が右手で触れると、シズクはようやく小さく鳴いた。
だが、風の中の左腕が下がりかけると、慌てて俺から離れ、もう一度持ち上げる。
「ぴるるるるっ!」
ユキが俺の左側へ飛び込んできた。
身体を押し付けようとして、そこに左腕がないことに気付く。
ユキの動きが止まり、悲鳴のような鳴き声が漏れた。
結晶冠が淡い緑色へ輝き、初級回復の光が切断部を包む。
暖かな魔力が染み込む。
反射的に、左手が戻ってくることを期待した。
光が消えても、左肘から先はなかった。
「ぴるるるっ!」
ユキが二度目の回復魔法を使う。
三度目。
緑色の光が灯るたび、ユキの身体が大きく沈んだ。
魔力を使うたびに、耳飾りから必死な願いが伝わってくる。
戻って。
治って。
俺がユキを庇う前の姿に戻ってほしい。
切断部へ当てられた美咲さんの手の向こうで、血の滲みが少しずつ弱まっていく。
けれど、完全には止まらない。
「お願い……止まって……」
美咲さんの呟きが聞こえた。
布を押さえる手は震えたままだった。
俺と目が合うと、泣きそうな顔を隠すように俯き、それでも手の力は緩めなかった。
「ぴる……ぴるるっ……!」
四度目の光が灯る。
ユキは、まだ止めようとしなかった。
結晶冠へ五度目の光が集まり始める。
残った右手を伸ばす。
一度では届かず、空を掻いた。
もう一度伸ばし、震えるユキへ触れる。
「ユキ、ありがとう……俺は、もう大丈夫だから……」
「ぴるぅっ……」
「そんなに魔力を使ったら、ユキが倒れちゃうぞ……」
緑色の光が、ゆっくり消えた。
ユキが俺の脚へ身体を押し付ける。
耳飾りを使わなくても分かるほど、泣いているような鳴き声が何度も漏れた。
撫でてやりたかった。
右手は一つしかない。
ユキに触れたままでは、自分の身体を支えられない。
そんな当たり前のことさえ、今までとは違っていた。
美咲さんが切断部へ清潔な布を当て、強く固定する。
痛みで身体が跳ねるたび、何度も俺の名前を呼んだ。
「陸斗さん、眠らないでください。お願いです。私を置いていかないで……」
最後の言葉だけが、掠れるほど小さかった。
聞き返す前に、美咲さんは顔を上げる。
「もう少しです。絶対に間に合わせます」
「……起きてる」
シズクが風で保持していた左前腕を、ゆっくりと下ろした。
青い身体は、まだ小刻みに震えている。
左前腕と俺の顔を交互に見つめ、「ぷるぅ」と弱く鳴いた。
美咲さんが別の清潔な布で包む。
切断された『魔獣革の手甲』は、付いたままだった。
指先まで見えてしまう前に、顔を背けた。
あれは俺の腕だ。
置いていけない。
でも、もう自分の身体にはつながっていない。
考えようとすると、吐き気が込み上げた。
布で包まれた左前腕を、シズクが再び風で浮かせる。
今度は決して落とさないように、何重もの風が左腕を包んだ。
美咲さんが通信機を手に取った。
「高橋さん、陸斗さんが……」
そこで言葉が止まる。
美咲さんは一度だけ深く息を吸い、震える声を押さえ込んだ。
「陸斗さんの左前腕が切断されました。切断部位は回収済みです。止血帯とユキの回復魔法で応急止血していますが、出血は完全には止まっていません。携行していた通常の回復薬と上級回復薬は、戦闘中に全て使用してしまいました」
『承知しました。一城さんの意識はありますか?』
「あります」
自分で答えた。
声は掠れた。
それでも、高橋さんへ届くよう腹へ力を入れた。
『承知しました。まずは第十七層の出口の転移門を目指してください。第十六層の階層守護個体が、復活周期に入っている可能性があります。星川さんと豹堂さんには転移門へ先回りし、再出現していた場合は討伐して帰還先を確保するよう要請します』
美咲さんの肩から、僅かに力が抜けた。
「……間に合いますか」
指示への返事より先に、そんな言葉が漏れた。
『間に合わせます。星川さんは上級回復薬を携行しています。こちらも十五層の医療チームへ連絡します』
美咲さんが目を閉じ、通信機を額へ押し当てた。
「ありがとうございます……」
第十七層の出口。
その向こうには、第十六層の入り口と、夜嵐猟獣の活動区域がある。
夜嵐猟獣。
名前を思い浮かべただけで、息が詰まった。
今の俺たちが戦える相手ではない。
けれど、高橋さんは続けて、さりなさんと姫乃さんの名前を口にした。
二人が先に行ってくれる。
俺たちが転移する場所を、守ってくれる。
「私たちは、出口の転移門へ向かいます」
美咲さんが通信を終え、俺の右側へ入った。
「立てますか? 無理なら、私が何度でも支えます」
「……立つ」
脚は震えている。
それでも右足を地面へ押し付け、幹を支えにして一度で立ち上がった。
美咲さんは倒れないよう腕を回してくれたが、身体を持ち上げたのは自分の脚だった。
左へ倒れかけた身体へ、ユキが下から身を寄せた。
純白の身体を限界まで伸ばし、失われた左腕の代わりになろうとしている。
「ぴるっ……」
「大丈夫……帰ろう」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
シズクが前方へ飛び、記録済みの経路を確認する。
その風の中には、布に包まれた俺の左腕が浮かんでいた。
数メートル進むたびに振り返り、俺がついてきていることを確かめる。
「ぷるっ……」
そのたびに、俺も右手を僅かに上げて応えた。
見ないようにしても、視界から消えてはくれない。
天狐竜は倒していない。
第十七層も踏破できなかった。
そんなことは、もうどうでもよかった。
美咲さんの肩へ右腕を回す。
意識の底には、今も暗いものがまとわり付いている。
右足。
左足。
一歩ずつ数え、気力だけで目を開け続けた。
失った左腕も置いていかない。
全員で生きて帰る。
そのことだけを考えながら、俺たちは第十七層の出口の転移門を目指した。




