第六話 少しだけ近い
その日から、
二人の間に、
少しだけ香りが残るようになった。
会っていない時でも。
電車の中。
エレベーター。
夜道。
ふとした瞬間に、
思い出す。
榊は、
それが少し不思議だった。
数日後。
榊は会社のトイレで、
香水をつけすぎた。
完全に失敗だった。
REPLICA Lazy Sunday Morning
は、
本来もっと静かな香りのはずなのに、
今日は主張が強い。
榊は鏡を見ながら、
少し後悔する。
こういう加減が、
昔から苦手だった。
やるならちゃんと。
でも、
ちゃんとやろうとすると、
時々少し過剰になる。
夜。
二人は、
三軒茶屋の小さな居酒屋にいた。
BAR LANTERN じゃない。
焼鳥の煙が少し漂う、
騒がしい店。
隣の席では、
大学生らしい集団が笑っている。
「今日、
いつもと違う」
席についた瞬間、
澪が言った。
榊は少し止まる。
「何がです?」
澪は少し笑う。
「香水。
今日ちょっと頑張ったでしょ」
榊は苦笑した。
「……失敗しました」
澪が吹き出す。
「やっぱり」
「分かるものなんですね」
「分かるよ」
澪は笑いながら、
おしぼりを広げる。
「榊さん、
たまに全部ちょっと多い」
かなり図星だった。
店員が、
ハイボールを置く。
氷が鳴る。
BAR LANTERN の静かな音とは違う。
こっちはもっと雑だ。
でも、
それが少し楽だった。
「ねえ」
澪が枝豆をつまみながら言う。
「榊さんって、
昔からモテそうなのに、
なんか恋愛下手そう」
榊は吹き出す。
「褒めてます?」
「今回は三割くらい」
澪は笑う。
「だって、
めっちゃ考えるじゃん」
「まあ」
「好きな人できたら、
“適切な距離感とは”
とか考えてそう」
榊は、
ハイボールを飲みながら苦笑する。
実際、
かなり近かった。
「澪さんは?」
「何が?」
「恋愛、
上手いんですか」
澪は少し黙る。
それから、
焼鳥を見ながら言った。
「全然」
その声は、
少しだけ静かだった。
「私、
好きになると、
頑張りすぎるから」
店内は騒がしい。
でも、
その一瞬だけ、
少し音が遠くなる。
「相手に合わせて、
空気作って、
嫌われないようにして」
澪は笑う。
「で、
疲れる」
榊は何も言わない。
多分、
今は分析じゃない。
答えでもない。
ただ聞く時間だと思った。
その時。
隣の席の男が、
大きな声で笑った。
「いや、
その女絶対キープだって!」
澪が顔をしかめる。
「最悪」
榊も少し笑う。
「夢がない」
「ほんと」
澪は、
レモンサワーを飲みながら言う。
「でもさ、
恋愛って、
結局ちょっと怖いよね」
榊は静かに頷く。
「分かります」
「好きになるほど、
嫌われるの怖くなるし」
「はい」
「でも、
近づきたいし」
澪は、
少し笑った。
「めんどくさい」
榊も少し笑う。
「かなり」
帰り道。
夜風は少し冷たかった。
二人は、
並んで歩いている。
BAR LANTERN の帰りより、
少し距離が近い。
でも、
まだ触れない。
「ねえ」
澪が歩きながら言う。
「今日の香水さ」
榊は少し構える。
「やっぱり変でした?」
「ううん」
澪は少し笑う。
「なんか、
“頑張ってる感”
あって可愛かった」
榊は、
その言葉に少し黙る。
可愛いなんて、
言われ慣れていない。
しかも、
多分今、
少し照れている。
澪がそれを見て笑った。
「ほら、
今そういう顔してる」
榊は苦笑する。
「観察しすぎでは」
「お互い様」
信号待ち。
夜風が吹く。
焼鳥の煙と、
街の匂いと、
微かな香水が混ざる。
榊は、
その空気の中でふと思う。
多分、
人を好きになるって、
“綺麗に近づくこと”
じゃない。
失敗したり、
ズレたり、
香水をつけすぎたりしながら、
少しずつ、
相手の温度へ慣れていくことなのかもしれなかった。




