第五話 匂いの名前
十月の終わり。
表参道の空気が、
少しだけ冷え始めていた。
榊は、
ガラス張りの店の前で立ち止まる。
白い照明。
静かな音楽。
整いすぎた空間。
フレグランスショップという場所は、
榊にとって少し落ち着かなかった。
全部、
“ちゃんとしている”。
香りですら、
言葉で説明されている。
スマホが震える。
『着いた』
数秒後。
澪が、
通りの向こうから歩いてきた。
黒いコート。
少し乱れた髪。
「ほんとに香水買うんだ」
「半分、
勢いです」
「榊さんっぽい」
「褒めてます?」
「半分」
澪は笑いながら、
そのまま店へ入っていく。
店内には、
柔らかい香りが混ざっていた。
洗剤。
花。
木。
石鹸。
雨みたいな匂いもある。
香りって、
名前を付けると、
急に記憶っぽくなる。
榊は、
最近そんなことを思っていた。
「で、
どれ?」
澪が棚を見ながら言う。
榊は少し迷ってから、
一つのボトルを指差す。
REPLICA Lazy Sunday Morning
澪は、
テスターを手首へ吹きかける。
少し黙る。
「……あー」
「どうです?」
「榊さんっぽい」
榊は少し笑う。
「またそれですか」
「だって、
ほんとにそうなんだもん」
澪は、
香りをもう一度嗅ぐ。
「ちゃんとしてる匂い」
「褒めてます?」
「今回は七割くらい」
榊も、
自分の手首へ吹きかける。
白いシーツみたいな匂いだった。
静かな朝。
洗いたての空気。
でも、
少しだけ距離がある。
まだ、
自分のものじゃない感じ。
榊は、
その馴染みきらなさを嫌じゃなかった。
「澪さんは?」
「んー」
澪は、
棚の間をゆっくり歩く。
その姿を見ながら、
榊は少し不思議な気持ちになる。
まだ、
そこまで近いわけじゃない。
でも、
もう他人でもない。
その曖昧さが、
最近少し増えていた。
「あ」
澪が立ち止まる。
手に取ったのは、
REPLICA Springtime in a Park
だった。
「これ好き」
榊は香りを試す。
柔らかい。
明るい。
でも、
甘すぎない。
春の風みたいな匂いだった。
「澪さんっぽいですね」
澪は少し笑う。
「それ、
嬉しい」
その時。
店内の曲が変わる。
レコードノイズのあと、
古いジャズアレンジの
Little Brown Jug
が流れ始めた。
澪が少し笑う。
「休日の昼っぽい曲」
「分かる気がします」
「この曲流れると、
急にサンドイッチ食べたくなる」
榊は吹き出した。
「感想が自由ですね」
「でも分からない?」
「少しだけ」
二人とも少し笑う。
「ねえ」
澪が、
試香紙を見ながら言う。
「榊さんって、
香水とか興味ないタイプだったでしょ」
「今も、
そんな詳しくないですよ」
「じゃあなんで?」
榊は少し考える。
答えはいくつかあった。
空気を変えたかった。
今までと違う自分になりたかった。
でも、
一番近いのは多分。
「……記憶に残るもの、
欲しかったのかもしれません」
澪は少し黙る。
それから、
柔らかく笑った。
「それ、
ちょっと分かる」
会計を終えて店を出る。
外はもう夜だった。
表参道の街路樹が、
風で少し揺れている。
澪は紙袋を覗き込みながら歩いていた。
「なんか、
香水買うと大人になった感じするね」
「今さらですか」
「いや、
“自分の匂い”
選ぶのって、
ちょっと覚悟いるじゃん」
榊は、
その言葉を少し長く考えていた。
香りは、
近づかないと分からない。
でも一度覚えると、
なかなか消えない。
それは多分、
人間関係にも少し似ていた。




