第十七話 無くなりかけの香り
四月の終わり。
雨の日が増えていた。
春は、
暖かいのに少し不安定だ。
空気も。
人も。
その日。
二人は、
澪の部屋で遅めの夕飯を食べていた。
コンビニのパスタ。
サラダ。
適当に作った味噌汁。
かなり普通の夜。
食後。
榊は、
洗面所で手を洗っていた。
ふと棚を見る。
そこに、
REPLICA Springtime in a Park
のボトルが置いてあった。
残りが、
かなり少ない。
榊は、
少しだけそれを見る。
最初、
表参道で一緒に選んだ時は、
新品だった。
まだ、
お互い少し距離を測っていた頃。
でも今、
ボトルの中身は、
ほとんど残っていない。
時間って、
こういうところに出る。
「どうしたの?」
後ろから澪の声。
榊は少し振り返る。
「いや」
榊は、
ボトルを見る。
「そろそろ無くなりそうだなと」
澪は、
洗面所の入口へ寄りかかりながら笑った。
「あー」
「結構使いましたね」
「毎日つけてるもん」
澪は、
少しだけボトルを持ち上げる。
「なんか、
落ち着くし」
榊は、
その言葉を少し長く聞いていた。
香りって、
最初は演出だった。
でも、
毎日使うと、
段々“その人”
になっていく。
だから、
無くなりかける頃には、
記憶もかなり染み込んでいる。
「ねえ」
榊が静かに言う。
「今度また、
表参道行きません?」
澪が少し顔を上げる。
「香水?」
「まあ、
そろそろかなと」
澪は、
数秒榊を見る。
それから、
少し笑った。
「……そういうとこ、
ずるいよね」
「何がです?」
「ちゃんと覚えてるとこ」
数日後。
二人は、
またあのフレグランスショップへ来ていた。
白い照明。
静かな音楽。
柔らかい香り。
でも、
最初に来た時とは、
空気が少し違う。
もう、
“特別な場所”
という感じじゃない。
少しだけ、
日常に近づいている。
「ねえ」
澪が笑う。
「二回目って、
なんか急に生活感ある」
榊は少し笑った。
「メンテナンスですね」
「恋愛でその単語使う人初めて見た」
澪は、
新しい
REPLICA Springtime in a Park
を試しながら言う。
「でも、
同じ香りって不思議だよね」
「何がです?」
「前より、
自分っぽく感じる」
榊は、
その言葉を少し考える。
香りは変わっていない。
でも、
記憶が変わっている。
だから、
同じ匂いなのに、
感じ方が違う。
その時。
澪が、
棚の奥を見る。
「あ」
「どうしました?」
「これ」
そこには、
REPLICA Lazy Sunday Morning
のキャンドルが並んでいた。
以前、
一緒に見たもの。
澪が箱を持ち上げる。
「まだ好き?」
榊は少し笑う。
「かなり」
澪は、
少し黙ってから言う。
「なんかさ」
「はい」
「この匂い、
もう榊さんの匂いって感じする」
榊は、
その言葉へすぐ返事をしなかった。
窓の外では、
春の雨が降っている。
香り。
音楽。
沈黙。
生活。
最初は全部、
“恋愛っぽい演出”
だった。
でも最近、
それらは、
少しずつ二人の日常へ染み込んでいる。
帰り道。
二人は、
一つの傘へ入って歩いていた。
雨音。
濡れたアスファルト。
夜の街。
澪が、
少し前を向いたまま言う。
「ねえ」
「はい」
「最初さ」
榊は黙って聞く。
「こんな風になると思ってなかった」
榊は少し笑う。
「どんな風です?」
澪は少し考える。
「……なんか、
ちゃんと生活に入ってくる感じ」
榊は、
その言葉を静かに聞いていた。
恋愛って、
特別な時間を共有することだと思っていた。
でも本当は、
普通の夜が増えていくことなのかもしれない。
香りが減って。
味噌汁を作って。
スーパーへ行って。
少し黙って。
それでも、
隣にいる。
雨は、
まだ静かに降っていた。
傘の中には、
微かに
REPLICA Springtime in a Park
と、
REPLICA Lazy Sunday Morning
が混ざっている。
春の匂いがした。




