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余白 — 氷の溶ける音を、まだ覚えている  作者: stracchino


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16/19

第十六話 春の匂いがする

 四月。

 街の空気が変わり始めていた。

 冬の乾いた匂いが消えて、

 少し湿った風になる。

 コンビニの前では、

 新人らしい店員がぎこちなくレジを打っていた。

 春は、

 街全体が少し不安定になる。


 澪の風邪は、

 数日で治った。

 でもそのあと、

 二人の間には、

 以前より少し静かな空気が残るようになっていた。

 悪い意味じゃない。

 むしろ逆だった。

 “頑張らない感じ”

 が、

 自然に増えていた。


 その夜。

 二人は、

 近所のスーパーで買い物をしていた。

「ねえ」

 澪がカゴを持ちながら言う。

「一緒にスーパー来る関係って、

 なんか急に生活感あるね」

 榊は少し笑う。

「夢がないですか?」

「いや、

 逆にちょっと好き」

 澪は、

 豆腐を見ながら言う。

「恋愛っぽすぎることって、

 逆に疲れる時あるし」


 店内には、

 少し古いJ-POPが流れていた。

 生活音。

 カゴの音。

 レジの声。

 BAR LANTERN の静けさとは、

 全然違う。

 でも、

 最近はこういう場所の方が、

 二人の距離が自然な気がしていた。


「榊さん」

「はい」

「ネギいる?」

「味噌汁なら欲しいですね」

「ほんと味噌汁好きだね」

 澪は笑いながら、

 長ネギをカゴへ入れる。


 帰り道。

 夜風はかなり柔らかかった。

 春の匂いがする。

 少し湿ったアスファルト。

 花。

 風。

 遠くの飲食店。

 東京の春は、

 色々な匂いが混ざる。


「ねえ」

 澪が歩きながら言う。

「最近、

 榊さんの匂い変わった」

 榊は少し笑う。

「香水ですか?」

「それもあるけど」

 澪は少し考える。

「なんか、

 前より力抜けた匂いする」

 榊は吹き出した。

「そんな分かります?」

「分かるよ」

 澪は笑う。

「前って、

 ちょっと“緊張してる匂い”

 だった」


 部屋へ戻る。

 買い物袋。

 少し散らかったテーブル。

 暖かい空気。

 生活の匂い。


 榊は、

 キッチンで味噌汁を作る。

 澪は、

 ソファでスマホを見ながらだらだらしていた。

「ねえ」

「はい」

「それもう、

 完全に榊さん担当になってるよね」

「何がです?」

「味噌汁」

 榊は少し笑う。

「まあ、

 嫌いじゃないので」


 湯気が立つ。

 味噌の匂い。

 ネギ。

 豆腐。

 すごく普通の夜だった。

 でも、

 最近はそういう夜の方が、

 記憶へ残る。


 食事のあと。

 二人は、

 ソファで並んで座る。

 テレビはついている。

 でも、

 ほとんど見ていない。

 澪が、

 ふと榊を見る。

「ねえ」

「はい」

「最近、

 安心しすぎてちょっと怖い」

 榊は少し止まる。

「怖い?」

「うん」

 澪は、

 クッションを抱えながら言う。

「なんか、

 普通に居られすぎて」

 部屋には、

 静かな空気が流れている。


「前ってさ」

 澪が小さく言う。

「もっと、

 ちゃんと恋愛してた気がする」

 榊は少し笑う。

「ちゃんと恋愛?」

「うん。

 ドキドキして、

 駆け引きして、

 不安になって」

 澪は、

 少し考える。

「でも最近、

 なんか生活」


 榊は、

 その言葉を静かに聞いていた。

 生活。

 それは、

 少し怖い言葉だ。

 恋愛の熱が、

 落ち着いていく感じもある。

 でも同時に、

 そこへしか辿り着けない安心もある。


「……悪いことですか?」

 榊が静かに聞く。

 澪は少し黙る。

 それから、

 小さく笑った。

「分かんない」

 その答えが、

 すごく正直に思えた。


 しばらくして。

 澪が、

 榊の肩へ軽く寄りかかる。

 以前より自然に。

 多分、

 もう無意識だった。


 窓の外では、

 春の風が吹いている。

 部屋には、

 味噌汁の匂いと、

 微かな

 REPLICA Lazy Sunday Morning

 が残っていた。

 恋愛は、

 いつか生活へ変わる。

 でも、

 生活になったから消えるものと、

 生活になって初めて残るものがある。

 榊は最近、

 その違いを少しずつ知り始めていた。


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