第十三話 少しだけズレる
二月。
寒さはまだ残っている。
でも、
夜風の中に、
少しだけ春の匂いが混ざり始めていた。
その頃から。
二人の間には、
少しだけ“ズレ”
みたいなものが生まれ始めていた。
大きな喧嘩じゃない。
嫌いになったわけでもない。
でも、
タイミングが少し噛み合わない。
そういう小さなズレ。
その夜。
榊は、
仕事でかなり疲れていた。
大型案件。
連日の修正。
細かい確認。
頭が、
ずっと回り続けている。
BAR LANTERN。
いつもの席。
いつもの照明。
でも今日は、
少しだけ店が騒がしかった。
奥の常連たちが、
珍しく盛り上がっている。
澪は、
すでに来ていた。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
澪は笑う。
でも、
榊は少し気づく。
今日は少しテンションが高い。
多分、
友達と飲んできたあとだ。
「でさ、
その子がほんと最悪で」
澪は楽しそうに話す。
榊は聞いている。
でも、
今日は少し頭に入ってこない。
疲れている。
思考が遅い。
反応が少し遅れる。
「……聞いてる?」
澪が少し笑いながら言う。
榊はハッとする。
「すみません」
「疲れてる?」
「まあ少し」
澪は、
グラスを回しながら言う。
「今日、
ずっと仕事の顔してる」
榊は少し苦笑する。
「そんな分かりやすいですか」
「かなり」
マスターが、
静かに
Four Roses
ブラックを置く。
氷が鳴る。
榊は一口飲む。
まだ少し硬い。
「なんかあった?」
澪が聞く。
「仕事ですね」
「また考えすぎてる?」
榊は少し笑う。
「多分」
澪は、
しばらく榊を見ていた。
それから、
少し視線を外す。
その瞬間。
ほんの少しだけ、
空気がズレる。
大したことじゃない。
でも、
多分お互い気づいている。
「……ごめん」
澪が、
先に言った。
「今日、
私ちょっと喋りすぎたかも」
榊は少し驚く。
「いや、
そんなことないですよ」
「でも、
なんか今、
空回りしてる感じした」
澪は笑う。
でも、
その笑い方は少し防御的だった。
榊は、
少し迷う。
今までの自分なら、
多分すぐ“正解”
を探していた。
安心させる言葉。
誤解を解く説明。
でも、
今日は少し違った。
「……すみません」
榊が静かに言う。
「今日、
ちゃんと聞けてなかったです」
澪は、
少し黙る。
店内では、
静かに
Tennessee Waltz
が流れていた。
「なんかさ」
澪が、
グラスを見ながら言う。
「こういう時、
ちょっと怖くなる」
榊は黙って聞く。
「距離近くなるほど、
小さい空気のズレ気になる」
その言葉は、
かなり本音だった。
榊は、
グラスの氷を見る。
少し溶けすぎている。
ブラックは、
タイミングを逃すと、
急に輪郭がぼやける。
でも、
それでも、
不味くなるわけじゃない。
少し違う味になるだけだ。
「……分かります」
榊が静かに言う。
「俺も、
最近ちょっと怖いです」
澪が顔を上げる。
「何が?」
榊は少し考える。
「近くなってる感じがするので」
澪は、
数秒黙っていた。
それから、
小さく笑う。
「それ、
普通逆に安心するやつじゃない?」
榊も少し笑った。
「多分、
普通じゃないので」
そのあと。
二人は、
少し黙って酒を飲む。
でも、
不思議と気まずくはなかった。
ズレたことを、
お互いちゃんと認識したからかもしれない。
帰り道。
冬の風はまだ冷たい。
二人は、
少しゆっくり歩いていた。
「ねえ」
澪が、
前を向いたまま言う。
「今日、
ちょっと安心した」
榊は少し驚く。
「どこでです?」
「ちゃんとズレたから」
榊は、
その意味を少し考える。
「前だったらさ」
澪が笑う。
「お互い、
“ちゃんとしよう”
としてた気がする」
夜風が吹く。
コートが揺れる。
「でも最近、
ちょっと人間っぽい」
榊は少し苦笑する。
「その表現好きですね」
「好き」
澪は軽く言う。
でも、
その“好き”は、
前より少しだけ深かった。




