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第十四話 春の前の夜

 三月。

 冬はまだ終わっていない。

 でも、

 夜の空気の奥に、

 少しだけ柔らかさが混ざり始めていた。


 その頃。

 二人は、

 以前より自然に会うようになっていた。

 約束しなくても、

 なんとなく会う。

 コンビニ。

 BAR LANTERN。

 澪の部屋。

 表参道。

 生活の動線の中へ、

 お互いが少しずつ入り始めている。


 その夜。

 榊は、

 BAR LANTERN へ一人で来ていた。

 仕事帰り。

 少し疲れている。

 でも、

 前みたいな張り詰め方じゃない。

 最近、

 疲れても、

 少し力を抜ける瞬間が増えていた。


 マスターが、

 何も聞かずに

 Four Roses

 ブラックを置く。

 丸氷。

 琥珀色。

 榊は、

 グラスを静かに回した。

 カラン。

 最近、

 この音を聞くだけで少し落ち着く。


「一人?」

 後ろから声。

 振り返ると、

 澪だった。

「仕事帰り?」

「はい」

 澪は、

 榊の隣へ自然に座る。

 もう、

 最初みたいな緊張感はない。

 でも、

 完全に慣れきった感じでもない。

 その曖昧さが、

 今はちょうど良かった。


「今日さ」

 澪がコートを脱ぎながら言う。

「会社で、

 “最近なんか雰囲気変わった?”

 って言われた」

 榊は少し笑う。

「良い意味で?」

「多分」

 澪は、

 ストローで氷を回す。

「なんか、

 前よりピリピリしてないって」

 榊は、

 その言葉を少し考える。


 昔の澪は、

 ずっと空気を作っていた。

 明るくして。

 軽くして。

 嫌われないように。

 でも最近、

 少しだけ、

 頑張らなくなっている。


「榊さんのせいかも」

 澪が小さく言う。

「責任重大ですね」

「うん」

 澪は笑った。

「でも、

 最近ちょっと楽」


 BAR LANTERN の店内には、

 静かに

 Waltz for Debby

 が流れている。

 最初に会った夜と同じ曲。

 でも、

 今は少し聞こえ方が違う。


「ねえ」

 澪が、

 グラスを見ながら言う。

「最初、

 榊さん怖かった」

 榊は吹き出した。

「なんでです?」

「なんか、

 全部見透かしてきそうで」

 榊は苦笑する。

「そんな能力ないですよ」

「でも、

 めっちゃ観察してた」

 それは否定できなかった。


「今は?」

 榊が聞く。

 澪は少し考える。

「今は……」

 数秒。

 それから、

 少し笑った。

「ちゃんと人間」

 榊は、

 また苦笑する。

「その表現、

 定着しましたね」

「だって、

 前はAI感すごかったもん」


 マスターが、

 小皿を置く。

 今日はチョコレートだった。

 澪が一つ食べて言う。

「これ、

 ブラックに合う」

 榊も少し食べる。

 甘さのあと、

 酒の苦味が少し変わる。

 味って、

 組み合わせで変わる。

 人も、

 多分少し似ている。


「ねえ」

 澪が、

 少し静かな声で言う。

「最近、

 怖くない?」

 榊は少し止まる。

「何がです?」

「近くなってる感じ」

 BAR LANTERN の照明が、

 グラスの氷を揺らしている。

 榊は、

 その揺れを見ながら言う。

「……怖いですよ」

 澪は黙って聞いている。

「でも、

 最近ちょっと思うんです」

「何を?」

 榊は、

 グラスを静かに回す。

 カラン。

「怖くなくなることより、

 怖いまま居られることの方が、

 大事なのかもしれないって」


 澪は、

 しばらく何も言わなかった。

 店内では、

 ピアノだけが流れている。

 そのあと、

 小さく笑った。

「それ、

 ちょっと分かる」


 帰り道。

 夜風はまだ冷たい。

 でも、

 冬の終わりの匂いがしていた。

 二人は、

 並んで歩く。

 手は繋がない。

 でも、

 少し近い。

 沈黙がある。

 でも、

 怖くない。


 信号待ち。

 澪が、

 ふと榊を見る。

「ねえ」

「はい」

「春になったらさ」

「はい」

「どっか遠く行きたいね」

 榊は少し笑う。

「急ですね」

「なんとなく」

 風が吹く。

 澪の髪が少し揺れる。

 微かに、

 REPLICA Springtime in a Park

 の香りがした。

 春は、

 まだ少し先だった。

 でも、

 二人の間には、

 もう少しだけ、

 柔らかい空気が流れ始めていた。


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