(6/7)けど茶番だよ、どう見ても
目を開けて、空を見て、そうして初めて壱政は自分が寝ていたのだと気付いた。
しかし、いつ眠ったのか全く分からない。久方ぶりに麗が尋ねてきたことは覚えている。彼女にまた、いとも簡単に負かされたことも。踏み付けられた記憶が蘇れば、そうなるに至った経緯も思い出す。
無性に腹が立ったのだ。理由は分からない。しかし麗の存在を認識した途端に腸が煮えくり返ったものだから、その激情の正体も分からないまま襲いかかった自覚もある。
だが、そこまでだ。頭を踏み付けられ、血をかけられ。その血が口に入ったことが妙に不快で。
その先が、思い出せない。
「……一体、何が」
頭を手で押さえながら起き上がる。支えを失った上体はゆらゆらと揺れるも、それを止めるための力が入らない。
「あァ、正気ではあったのか」
声の方を見れば、麗が瓦礫に腰掛けていた。思わず睨むも、その視線は長く麗の方へ留めておくことができなかった。彼女との間にあった真新しい動物の死骸に、意識が丸ごと吸い寄せられたからだ。
「腹減ってるだろ。それ食っていいぞ。つーか食わないと話になんねェからさっさと食え」
麗が死骸を指差す。ヤギの死骸だった。壱政はこの動物の名前を知らなかったが、食えることは知っている。この常世の世界で空腹に耐えかねた時、襲った動物の中にこれがいたからだ。
馬や牛よりも小さく、犬よりは少し大きく。しかし猪よりも非力で動きもそれほど速くはないから、捕らえるのが簡単だった。
だから、何度か食った。だから今もそうしようと思った。さっきまで食っていたのに、それでもまだどうしようもなく腹が減っているのは事実だから、いつものように皮を剥いで、その中の肉に食らいつこうと思った。
それなのに。
「はっ……はっ……はっ……」
息が浅くなる。ぐるぐると目の回るような欲求が唾液を溢れさせ、壱政の視線をそこに釘付けにする。
首、が。獣の首から流れる血が。
――これが、欲しい
「――…………?」
生暖かい感触に、壱政は目を瞬かせた。温かいのは腕の中に毛皮を抱えているからだ。泥人形のように命を感じられない、動物の死骸を。
そして、口は。壱政の口の中は血の味でいっぱいになっていて、唇にはやはり、毛皮の感触があった。
「人間が獣に堕ちる様っつーのは何度見ても面白ェモンなんだが、お前は元から獣だったからクソつまんねェな」
白けた目で麗が壱政を見る。そこでやっと壱政は自分が動物の死骸の首に噛みついていたと気付くと、慌ててそれを吐き出した。
「っ……」
自分の行動が分からなかった。肉を食うのではなく、何故血を啜っていたのか。何故、こんなにも満たされているのか。
分かるのは、これを麗がもたらしたであろうということだけ。
「貴様!!」
激情が再び燃え上がる。三度麗に襲いかかろうとしたその瞬間、壱政の身体はぴたりと動かなくなった。
「どんだけ私を殺したいんだよ」
麗が嘲笑う。何をしたのかと彼女に問いたくても、壱政の身体は動かない。声すらも発せられない。
「何がなんだか分からないって目だな」
麗は壱政の状態を完全に理解しているというふうに鼻を鳴らすと、「お前、人間捨てたんだろ?」と話し始めた。
「だから身体もそうしてやった。けど私らも獣じゃないから規律がある。お前の好きそうな、絶対に逆らえない規律がな」
話を聞いているうちに、壱政は自分の身体が自由を取り戻したのを感じた。思わず手に目を落とし、その手を握ったり開いたりして動きを確かめる。全く異常のない、いつもの感覚。
ただ、少しだけ違和感があった。聞こえる音、匂い、目に映る光景――それらが少しずつ、いつもと違う。身体が動かなくなったせいなのか、その前からだったのか。いつからだろうと記憶を辿っていると、「あ、首斬って欲しいんだっけ」という麗の声が聞こえた。
「ほれ」
「――――?」
見えた。麗の手の動きが。腰に差していた刀を抜いて、軽く横に振るうその動きが。
しかし、距離がおかしい。その刀の長さでその軌道を描けば、必ず通る場所がある。
その場所が、壱政の視界に入った。
「っ――――」
首だった。麗の振るった刃が通った場所には、壱政の首があった。
だが、おかしい。そんなものが壱政自身に見えるのは有り得ない。
壱政が己の置かれた状況をただ見ていることしかできない間にも、それは変わっていく。血を噴き出す首はどんどん遠くなり、壱政はそのうちにドンッと顔の左側に衝撃を感じた。やけに近い雑草が、そこが地面だと壱政に教える。しかし壱政の身体はまだ立っていた。ここ三ヶ月の間に何回も見た、首を失った身体。
その光景にやっと壱政が状況を理解すれば、今度は首を強烈な痛みが襲った。
「――――!!」
叫びたい。けれど、声が出ない。息が吸えない。声帯を震わせるものがなければ声は出ない。肺腑がなければ空気は吸えない。生きるのに必要なそれらは全て、今まさに倒れゆこうとしているあの身体の中にある。
と、その時。壱政の視界が急に高くなった。
頭皮に強い力を感じる。目だけで周囲を確認する。するとすぐに近くに麗の顔があって、彼女は「手も足も出ないっつーのはこのことだな」とニヤニヤと笑った。
しかし、壱政に不満を抱く暇はなかった。
「ッ!!」
全身を貫くような激痛。真っ二つにされた際の傷口はそれまでよりもずっと強く壱政を苛んで、思わず身を捩ろうとすれば掴まれたままの頭にぐっと力がかかった。
「大人しくしてろ。まだちゃんとくっついてねェんだよ」
麗は倒れかけた壱政の身体を捕まえて、そこに手に持った首を押し当てていた。つまり、手当てだ。壱政もどうにかそれは理解できたものの、痛みのせいで何も考えることができない。
それからしばらく経って痛みが少しずつ和らいでくると、麗は「そろそろいいかな」と手を離した。
「流石は私だな、斬り口が美しすぎて治りが早い。あ、でもしばらくじっとしてろよ。痛みがなくなるまではちょっとぶん殴っただけで取れるから」
それはじっとしていることとは関係ないのではないか――壱政は思ったが、痛みが酷すぎて何も言うことができなかった。
確かに首は元に戻ったのだろう。首から下がじんじんして、まるで痺れた部位に血が戻っていくような感覚がある。痛みは、やはりまだ続いている。呼吸をするたびに首の内側から刃物を押し当てられているのではと思えてくる。
しかしそれ以上に壱政を支配していたのは、怒りだった。
「ンで? どうよ、首落とされた気分は」
壱政の心の内を見透かしたように麗が尋ねてくる。壱政はぐっと奥歯を噛み締めると、「……有り得ないだろ、こんなの」と答えた。痛みの中で発したその声は、まだ治りきっていなかった。
「もう一回斬り落として欲しいってこと?」
麗の軽口に睨みだけを返す。すると麗は「なんてな」と笑って、「私も暇じゃないんだよ」と吐き捨てるように言った。
それが壱政には、酷く耳障りだった。
「……無意味だ」
「あ?」
「無意味だ……これじゃあ……」
怒りを発散したくとも、首の痛みがその邪魔をする。勢いを削がれた怒りは無念をも思わせる感情となって、座る壱政の背中にずっしりと乗りかかる。
首を斬られれば終わると思っていたのに――けれど、それを声に出すことはできなかった。
「お前、何そんな格好つけてんの?」
呆れたような声にのっそりと視線を上げる。「何……?」不快を隠すことなく問い返せば、麗は顔にうんと嘲りを浮かべた。
「どうせお前のそれは『俺は罰せられなきゃならないぃ……!』みたいな女々しいあれだろ? アホくさ」
「ッ……」
「お、文句あんの? けど茶番だよ、どう見ても。だってお前はまだ生きてる。本気で罰を望むならここで一番惨たらしい死を迎える努力をしていたはずだ」
それは壱政も考えたことだった。ここに来て初めて正体不明の化け物に襲われた時、これに無惨な殺され方をするのが己に相応しいと思った。
しかしすぐ、違うと思った。こいつではないと思った。それはあの男が強者ではないからで、その程度の者に殺されることは最悪の死に方ではないと感じたから。
本当にそうか? ――押しやっていたはずの疑問が戻って来る。
弱者に蹂躙されることもまた最悪と言ってもいいはずなのに。それなのに自分はあの時、生き残ったことを幸運と思った。殺されずに済んで良かったと思った。
その理由は、未だ分からないまま。
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