(2/7)偉そうだな、おい
どうしてこうなった――背後の気配に麗は頭を抱えたくなった。
林道を歩く彼女の後ろには亡霊がいる。壱政だ。血みどろの、腐臭すらも漂わせる彼が少し距離を空けて後をついてきている。しかも昨日はあれだけ動けたくせに今はふらふらと覚束ない足取りなものだから、その汚らしい格好と相俟って亡霊にしか見えない。
優れた嗅覚を持つ麗にとって、壱政の纏う臭いは耐え難い。まるで夏場に墓を暴いたかのような悪臭だ。血液の匂いは好きでも、人間が腐った食べ物の臭いを嗅いで鼻を曲げるように、麗にとっても腐った血液の臭いだなんてものは苦痛でしかない。
しかしもっと不憫なのは全く関係のない人々だろう。道中すれ違った人間は壱政との距離が近くなってきた頃に怪訝そうに顔をしかめ、その姿を認めると「ひっ」と悲鳴を上げ足早に去っていく。勿論、鼻を押さえながら。つまり壱政の存在は周りの迷惑になっているのだが、当の本人に気にした様子は全くない。
平素他人からの見え方など気にしない麗でも、この壱政を己の連れだと思われるのは嫌だった。幸いなのは麗の顔は帔で見えないことか。陽の光を完全に遮るための分厚い麻布は、周囲がどれだけ壱政を見て嫌そうな反応をしようと、そっと知らんふりをする麗の目の動きも隠してくれる。
とはいえいつまでもこのままは嫌だった。壱政が他人にどう思われようが知ったことではないが、如何せん臭いが酷すぎる。
やっぱ撒こうかな――すぐに死なれたら困ると思って様子を見ていたが、もうそれすらもどうでもいい。彼が衰弱で倒れたところで介抱のために近寄るのも嫌だ。上に求められた人材確保はできなくなるが、たった一人ならすぐに代わりは見つかるだろう。
日が暮れたら撒こう。今は走ると帔が捲れてしまうから無理だが、日暮れもしくは大きな日陰を見つけたら逃げてしまえ。
麗はこっそりと心を決めると、刀用の拭い紙をちぎって鼻の穴に押し込んだ。
§ § §
『俺の首を斬って欲しい』
それまでの狂気に満ちた目ではなかった。真剣なその佇まいは、なるほど確かにこの男は良家の出なのだと麗に思わせた。
だが、それだけだ。
「うわ、めんどくさっ……」
無意識のうちに口から出たのは心の底から感じたこと。そしてその言葉を聞いた壱政は一瞬だけ驚いたように眉をぴくりと動かしたが、しかしそれまでの姿勢を変えることはなかった。
「あなたには手間をかけさせてしまうとは分かっている。だがあなたにとって、俺の首を斬ることは大した労力にはならないはずだ。だから頼む。俺の首を斬ってくれ」
「……ならなんで打首から逃げたんだよ」
呟いたのは問うためではない。ただ疑問に思ったからだ。
麗が聞いた話では、浅倉壱政という男は斬首刑に処される予定だった。それを避けるために脱獄しただろうに、何故こうして首を斬ってくれなどと言われるのかが理解できない。
「打首は御免だ。己の罪ではないのに何故不名誉な罰を受けなければならない」
やはり噂には真実とは異なるものも混ざっていたようだ――という納得感はあれど、それは麗にとって壱政の頼みを聞く理由にはならなかった。
「ンなモン知ったこっちゃねェわ。結局首落とされて死ぬんだから同じことだろ」
「刑を受け入れれば俺の罪だと認めることになる。俺に罪を被せた奴が潔白だと思われるようなことはしたくない」
「だからてめェの事情なんざ知らねェよ。罪を擦り付けられるような隙を見せたお前の落ち度じゃねェか」
そう、壱政が悪い。それが麗の考えだ。だから彼女の声にもその感情が乗ったのだろう。その言葉を聞いた壱政はぐっと顔をしかめると、「罪を犯した者より被害に遭った方が悪いと?」と怒りを耐えるような声を発した。
「俺はともかく、俺の妻子には何の罪もなかった。それなのに奴に命を奪われたんだ。それでも奴には罪はないと言うのか!?」
怒声としては控えめだが、それが必死に感情を抑え込んでのものだということは誰の目にも明らか。
しかし麗の表情は変わらない。興味がないのだ。
「そいつに罪がねェとは言ってねェだろ。けどお前が悪いのは確実。弱さもまた罪だ。私にとっちゃ何よりも重い」
弱肉強食のこの世で生き抜くためには力がいる。力を振るうためには他者を虐げる覚悟がいる。他者を虐げる方も悪いが、それで負ける方も悪い。
これが、既に五〇〇年以上の時を生きた麗の出した結論だ。異論の存在は認めるが、相手に否定されたとて己の考えを曲げるつもりはない。
そんな麗の姿勢が伝わったのだろうか。怒りを漂わせていた壱政は、先程よりもそれを弱めた。しかし麗の考えを受け入れたからではないことは、彼の目から見て取れた。
「……なら、あなたに簡単に負けた俺も重い罪がある。その論理を振りかざすなら俺を裁け」
「偉そうだな、おい」
「己の発言に責任を持てと言っている」
「はっ! てめェが私に意見できる立場かよ」
そういう理屈で来るかと、麗は顔に愉悦を浮かべた。けれどやはり、どうでもいい。相手は首を斬るようこちらを説得したいのだろうが、そもそも求めているものが違う。
「お前はさ、そこらへんで蛙が蛇に食われたら蛇を裁くのか? どうせ見向きもしねェだろ」
「だから何だ」
「私にとっちゃお前は蛙だって話だよ」
そこまで言うと、麗は着物の胸元を大きく開いた。「っ、何を……」驚く壱政を無視し、前を完全にはだけさせる。右手をそこに突き刺せば湿った音と、壱政が息を呑む音がした。
「一体何をやって……!」
心臓を抉っている、という答えを麗は口にしなかった。痛みには慣れているが、こればかりは何度やっても慣れない。
心臓の、一番深いところ。そこにあるのはこの身体の中で一番濃い血液。人間の心臓にはないそれを指先で掬い取り、握り締め、種子を作る。人間から人間性を奪う、鬼の種を。
「非常に残念ながら蛙集めが今の私の仕事でね」
言うやいなや、麗は胸から抜いた手を壱政の口に突っ込んだ。「ッ!?」何がなんだか分からず咄嗟に口を閉じようとする彼の動きを反対の手で止め、喉の奥深くに作ったばかりの種子を捩じ込む。
嚥下は必要ない。飲み込んでしまった方が本人が楽なのは事実だが、そんなことをせずとも一度体内に入った種子は勝手に動く。
とはいえ吐き出されると面倒だからそれができないほどに深く押し込んで、耐えきれなくなった壱政の喉がゴクリと動くと、麗はやっと手を引き抜いた。
解放された壱政は話せない。荒い呼吸を繰り返しながら、未だ居座る嘔吐反射をやり過ごそうと、もしくはそれに任せて飲み込まされたものを吐き出そうと必死だ。
麗はそんな壱政を見て鼻を鳴らすと、「無駄無駄」と嘲笑った。
「死にたきゃ勝手に死にな。てめェの身すら守れねェほど弱い奴が、人様に手を下してもらおうなんて贅沢言ってんじゃねェよ」
§ § §
そういえばついてこいだなんて一言も言っていないな? ――昨夜の記憶を辿り、麗はううんと首を捻った。
種子を与えたから様子を見ようとは思った。しかしずっと見る気はない。とりあえずすぐに死なないことが確認できれば十分、その後は時期が来るまで放っておくつもりだった。種子を持っていたところで半年くらいであれば何も体調に異変は起こらないはずだし、種子が合わなくて死んでしまうというのなら与えた直後にその予兆は出る。
ならばやはり、自分が逃げてはいけない道理はない。
そう確信した麗の耳に川の流れる音が聞こえてきたのは、それから少し歩いた後のことだった。




