(1/7)なんだよ、拗らせてんのか?
壱政さんの話です。本編とは全く関係ありません。本編の主要人物も出てきません。
十六世紀末、日本。
冬の夜は静かだった。虫の声はせず、人々も出歩かない。だからその城もまた静けさに包まれていたが、ふと、片隅から不気味な音がした。
文字にし難い音だった。ウシガエルの鳴き声にも似ているが、それよりもずっと小さく、短い。その音はどんどん小さくなっていって、ぐちゅりと湿った音がした時にはもう聞こえなくなっていた。
音は地下からのものだった。土牢だ。格子の前には男が倒れている。彼の首は真っ赤に染まり、喉仏の骨が皮膚が飛び出していた。そこからどくどくと流れる血は土に水たまりを作るも、染みるように大きくなっていく水面には波紋も立たない。
だから、何も起こらないはずだった。真っ赤な鏡が少しずつ大きくなるだけで、それ以上の変化はないはずだった。
赤い水面に格子が映る。暗いせいで分かりづらいが、微かに木目が見て取れる。その奥で、何かが動く。
「……馬鹿げてる」
そう呟いた何かは、人の形をしていた。
§ § §
「――辻斬りィ?」
茶屋の店主の話に、女は出てきた単語をそのまま聞き返した。彼女の反応に店主が驚いた顔をしたのは、女の口調が存外荒かったからだろう。今時珍しい市女笠はそれだけで女を淑やかに見せる。だが普通よりも分厚い枲の垂れ衣の中で団子を頬張る姿とその物言いは、お世辞にも淑やかとは言い難い。よく見れば足だって着物の中でだいぶ開いている。
やっとそのことに気が付いた店主は目をぱちくりさせると、「そ、そうだよ」と動揺を隠すように首肯した。
「お嬢さんは見たところ西から来たんだろう? なら知らないのも無理はないが、このままもう少し先へ進んだところで辻斬りが出ていてね。無差別に大勢斬り殺されたって話だから、歩いてこの道を進むなら気を付けた方がいい」
「大勢殺されたってェと、何人も辻斬りがいるってことか?」
「いや、一人だ」
断定するように店主が言う。その答えを聞いて、女が考えるように目を細める。
辻斬りとは本来、刀の切れ味を試すものだ。それで見知らぬ他人をいきなり斬りつけるのだから、やられた方にしてみれば迷惑だなんて話では済まないが、被害はそこまで多くは出ない。
一人の人間が試し切りをするのであれば、狙われるのは精々数人。勿論一概には言えないが、大勢だなんて言葉で表現されるような人数が被害に遭うことは珍しい。その場合はその辻斬りがよっぽど血気盛んか、もしくは複数名いるかだ。ということをこの初老の男も分かっているはずだが、しかし彼は一人だと断言している。
「その辻斬り、お前の知り合いなのか?」
一人だと断言できるのは、その正体を知っているからだ――そう考えて女が尋ねれば、店主の男は困ったように渋面となった。
「知り合いってほどじゃないよ、一方的に少し知っているだけだ」
「ふうん? ってことはそれなりに名のある家の人間ってこと?」
「ああ、浅倉様のところの三男坊だよ」
「浅倉……最近聞いた気がするな」
「そりゃお取り潰しになったばっかりだからな、有名だろうよ」
「あー……そういやそんな話もあったっけ」
どんな内容だったか、と女は記憶を辿った。西の方からやってきたため東の事情には疎いが、それでも家が取り潰されただなんて一大事があれば噂話の一つや二つ耳にする。
「確か味方の中に敵将に寝返った奴がいたせいで、どこぞが戦に負けたとかなんとか……」
「そうそう、それだよ。その寝返った奴っていうのがさっき言った男でね。浅倉家はお取り潰しで、その男――壱政様っていうのは打首になるはずだったんだがね。獄中で兄と牢屋番を殺してまんまと逃げおおせたってわけだ」
そこまで言って、男が声を潜める。「噂じゃあ、素手で相手の喉笛を引き千切ったって話だよ」大袈裟に恐れる顔をしてみせたのは女に危険だと伝えるためか、それともただ若い女の怯える姿が見たかっただけか。当の女が「ほお?」と興味深そうに口角を上げたせいで、呆気に取られた店主の姿からは読み取ることができなかった。
「しっかしそれがなんで辻斬りに? 逃げたんだったら身を隠すはずだろ。内通してた敵方に匿ってもらうことだってできたはずだ」
「そりゃ知らんが、逃げて以来あの人は誰彼構わず殺しまくってるんだよ。浅倉様の子供達の中では一番まともな方だと思ってたんだがなぁ……。裏切ったのには何かのっぴきならない事情があったのだとしても、責任取って刑はしっかり受けるもんだと皆思ってたのに」
女の様子に驚いていた店主は、話しながら心底残念そうな面持ちとなっていた。それが示すのは、壱政という男には人望があったということ。
女の知る限り、人望のある人間というのはそれなりに周りを大事にするものだ。店主の〝皆〟という言い方も、この壱政とやらが例に漏れずそういった人柄であると表しているのだろう。
そんな人間が急に人を無差別に殺すようになるだろうか――女は壱政という人物を知らないが、自分よりは彼を知っているであろう店主の口振りを聞く限りそれはおかしいことなのだと分かる。
裏切り、脱獄、辻斬り……もしかしたら全部が本当のこととは限らないかもしれない。女はニッと口端を持ち上げると、店主に別れを告げ東へと向かった。
§ § §
赤く染まった夕焼けは、やがて群青色に溶けるようにして消えていった。
女はずっと被っていた市女笠を脱ぐと、背負った荷物に括り付けた。昔の習慣で陽の光を避ける時にはつい選んでしまうが、ここまで東に来ると珍しいからか、非常に目立ってしまうのだ。
茶屋を出てからは風の匂いに気を配りながら、東に向かって歩を進め続けていた。探しているのは鉄の匂い。人間より遥かに優れた嗅覚は、風に乗って運ばれてくる僅かな匂いも逃さない。他のものならまだしも、血液の匂いを間違えるはずもない。
やがてその鼻腔を目的の香りが撫でると、女はそれを辿るように進む方向を変えた。
「――浅倉壱政殿かい?」
噎せ返るような血の匂い。新しいものと古いものが混ざり合い、すんと空気を吸い込めば、両手の指では到底足りない数の人間のそれだと分かる。腐臭にも似たその匂いを纏うのは一人の男だ。彼の足元には見廻りと思しき男達の無残な亡骸が転がっている。
男は、とてもではないが武家の人間には見えなかった。何度も血に染まったであろう着物は暗がりでも分かるほどに汚く、長い髪は乱れ、顔も汚れで真っ黒。それなのに目だけが異様に爛々としている。
辻斬りというよりも、鬼。しかし女は恐れなかった。自分も人のことは言えないと、小さく鼻を鳴らすだけ。
女の声を聞いたその男は、緩慢な動きで頭を擡げ、顔を彼女の方へと向けた。
小刻みに震えて一箇所に落ち着かない瞳は、男の正気が定かでないことを表している。そんな状態で曲がりなりにも帯刀した人間数人を一人で斬り殺したのだから、元々それなりの腕を持っているのだろう。
それだけでここに来て正解だったと分かり、女が僅かに笑みを浮かべる。
「もしかして言葉も忘れているのか?」
女は割合上機嫌だったが、しかし沈黙を貫く男に一抹の不安を抱いた。男が浅倉壱政本人であることを確認したいのだが、男自身に答えてもらう以外に女には判断する術がない。言葉を忘れているのであれば無理にでも思い出させるしかないのだが、それもそれで面倒だなと溜息を吐こうとした、その時だった。
「……誰だ」
返ってきた言葉に、女は思わず「お」と声を漏らした。
「なんだ、喋れるじゃねェか。――私は麗、浅倉壱政という男を探している。お前の名は?」
「……死にたくなければ去れ」
「お前が私の探し人でなければ去るよ」
女――麗の言葉に男が目を細める。そして手に持っていた刀を握り直したかと思うと、それを構えながら口を開いた。
「なら死ね」
言うと同時に男が大きく踏み込む。素早く距離を詰め、右から斬り上げるように刀を振るった。
刃が、麗の腹を縦に切り裂く。
「――『なら死ね』ってことは、私の探し人であると肯定してるのか?」
「ッ……!?」
耳元から聞こえてきた声に男は目を見開いた。確かに今、彼女を斬ったように見えた。だが、手応えは――考えきるより先に刀を持ち直し、再び麗を斬りつけようと身体を捻る。
しかし男は、刀を振りきることはできなかった。
突然喉元を襲った衝撃。それに気付いた瞬間に身体は宙に投げ出され、直後には首を掴まれたまま背中から地面に叩きつけられたからだ。
「まァ落ち着けよ」
そう言って麗が首から手を離すと、男は盛大に噎せ始めた。あまりの咳き込み方に何度も嘔吐しかけ、それを耐えようとしている間にも次から次へと喉から空気が押し出される。吐き出すだけで、なかなか息を吸うことができない。
だがそれもやがて落ち着き、咳が止まる頃には男はぜえぜえと激しく肩を揺らしながら地面に突っ伏していた。
「そろそろ落ち着いたか?」
「お……まえっ……!」
「ああ、よかった。声は潰れてないな」
顔の前に上げた自分の手を握ったり開いたりしながら、麗は「力加減難しくて」と嘲笑にも見える苦笑をこぼした。それを睨むように見上げていた男は顔をしかめたかと思うと、再びその視線を地面に落とす。肩で呼吸を繰り返すその背中からは、先程までの勢いは感じられなかった。
「正直もうお前が浅倉壱政かどうかはあまり問題じゃねェんだが、一応本人か確認させてくれよ。じゃねェと私は改めて彼を探さなきゃならないんでね」
男の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、麗はそう声をかけた。いくら彼が冷静になったとしても会話が成り立つ保証などなかったが、軽い確認で済むのであればそれに越したことはない。
「……が……る」
「ん?」
「……俺が、浅倉壱政だったと言えば……どうする」
「なんだよ、拗らせてんのか? 同一人物なら細かいこたァどうでもいいよ。ただどんな人間か気になっただけだからな」
麗の返答に、男――壱政は自嘲するように鼻で笑った。うつ伏せの状態から身体を起こし、地面にうなだれるように胡座をかく。
「……もう用は済んだということか」
「そうなるな」
「なら……一つ頼まれてくれないか」
先程までとは違い随分と理性的な壱政の様子を不思議に思いながらも、麗は「聞くだけは聞いてやるよ」と返答を口にする。
それを聞いた壱政は下を向いていた頭を上げ、真剣な眼差しで麗を見つめた。
「俺の首を斬って欲しい」




