【後篇】〈18-3.5〉……足元見やがって
本編の後篇〈18-3〉の後の話。後日譚序盤までのネタバレが含まれるので、未読の方はお気を付けください。
この一話で終わりです。
暗く、静まり返った寝室。自分の腕の中で眠るほたるをゆるく笑みながら見ていたノエは、不意にぐっと目元に力を入れた。
「……眠い」
恐らくはここ数十年で一番と言っていいほど。寝ていないのは丸二日だけだが、何度も大怪我をした身体には相当疲れが溜まっていたらしい。
できればこのまま寝てしまいたい。この時間を味わっていたい。そして、ほたるの傍にいてやりたい。
しかしそれをするにはまだ早いと自分に言い聞かせると、ノエはゆっくりと身体を起こした。
「ほたる、寝てる?」
声をかけたのは、浅い眠りだと困るから。
ほたるからの返事はない。すうすうと気持ち良さそうな寝息は規則正しく、周囲の音など全く聞こえていないと言うかのよう。
試しに頬を撫でるも反応はなかった。どうやら完全に寝ているらしい。ほたるが一度寝たらそうそう起きないことは知っているが、今も無事にその状態になってくれたようだ。
数分前に寝かせようとして、まだ寝たくないと怯えたように言われた時はどうしようかと思った。ほたるは寝てしまえばもう別れが待っていると信じているから無理もないが、寝ていてもらわなければ自由に動くこともできない。そして自由に動けなければ、本当に別れることになってしまう。
「ちょっとごめんね」
寝ているほたるに床から拾い上げたシャツを着せる。それは気遣いと、本当に深い眠りかどうか最後にもう一度確認するため。
結果、ほたるは起きなかった。食事を摂らせたとは言っても酷い怪我をしたし、父親に隠されていた記憶が一気に戻ったこともあって、本人の自覚している以上に疲弊していたのだろう。ただでさえ眠りは深い方だが、今回はいつもよりも更にぐっすりと眠っているように見える。
「…………」
ほたるはいつか、自分を恨むだろうか――その寝顔を見ながら思い出して、ノエの顔が翳った。
あんな形でスヴァインとアイリスが命を落とすことになるとは全く予想していなかった。そもそもアイリスが出てくること自体が想定外だった。だから一度は最悪の結末を想像したが、幸いにもそうはならなかった。
それは間違いなく幸運と言える。あの場で起こり得た未来のうち、最も自分達にとって都合の良いもので、最も可能性が低かったもの。それが、あの二人の死だ。
けれどノエはその幸運には見向きもしなかった。何故ならそれよりもずっと強い感情を、希望を抱いたからだ。
もう、ほたるを手放さなくて済むかもしれない。諦めていた未来が手に入るかもしれない。
けれどその希望は、直後にほたるの顔を見て一瞬にして消え去った。あの涙は、あの表情は、父親の死を本気で悲しんでいるものだと分かったから。目の前で起こった死を幸運としか取れない自分とは違って、ほたるにとっては悲劇以外の何物でもなかったのだと悟ったから。
だから、ほたるから離れるべきだと思った。
『俺はスヴァインが嫌いだよ。昔のほたるにはどうだったか知らないけど、俺の知るあいつは最低な奴だから。だから殺した。あいつが仕組んだかもしれないけど、そうじゃなくても俺はあいつを殺してた。アイリスの命令なんかなくても、自分の意思で』
これは間違いなく本音だ。わざわざ口にしたのはほたるに言い聞かせるため。父親の死を招いたのは自分なのだと、〝いつか〟ではなく〝今〟気付かせるため。
そうしないと、愚かな希望を抱いてしまいそうだった。
ほたるは自分を恨むことになる。たとえ今は本人が気付いておらずとも、そしてあの死はスヴァイン自身が仕組んだものだと彼女が理解していたとしても。そこに自分が関わっているという事実がある以上、いずれその恨みはこちらに向くかもしれない。
だったら今、はっきりと恨んで欲しい。このまま恨まれずに一緒にいられるだなんて甘い夢を見て、いつか彼女に拒絶された時に無理矢理引き止めようとするなんてことがないように。
そう、思ったのに。
『だからっ……私にノエを憎ませようとしないで……大好きな人を好きなままでいられないのはもうやだよ……』
あんなふうに言われて、どうして恨ませようとし続けられるだろう。彼女の父親の死に関与してしまった自分を、その罪ごと受け入れてくれそうなほたるからどうして離れられるだろう。
遠くで見守るだけでは足りない。近くでその安らぎを享受したい。たとえほたるが自分に親愛しか抱いていないのだとしても、知らないうちに他の誰かのものになるかもしれないだなんて耐えられない。けれど彼女が望まないのなら、今の関係を変えることもできない。
だからその首筋に口付けた。本人には見えないのをいいことに、これだけで我慢するからと唇を押し当てた。
それでもう終わりにするつもりだった。もう二度と間違えないように、ほたるの望む関係から逸脱するようなことは決してすまいと腹を括った。……つもりだった。
『……私、ノエが思ってるほど子供じゃないよ』
あの状況で女の顔をするのは狡い――呆気なく直前の決意を手放した自分に情けなさを感じながら、ノエははあ、と溜息を吐いた。
ここまでしてしまったのだ、責任は取らなければならない。いや、取りたい。仮に自分以外の全員からそんな必要はないと言われても、責任という言葉を言い訳に全部自分に都合良く片付けてしまいたい。
ほたると話しながら、どうすれば彼女のしてしまった取引を潰せるかは考えた。その後のことも含めるとかなり大掛かりになるが、幸い常に備えてある。それがアイリスの仕事をやりやすくするためにやったことだと考えると釈然としないが、もういないのだから使えるものは何でも使ってしまえばいい。
「ゆっくり寝ててね」
眠るほたるの頬に口付けを落とす。やはり微塵も起きる気配のない相手に頬を緩ませながら、ノエは出かける支度をし始めた。
§ § §
外界でできることを一通り終えたノエは、一人でノストノクスを訪れていた。目的地の手前まで鍵を使って移動し、リズミカルなノックをする。しかしその後の返事は聞かずに扉を開ければ、部屋の主であるエルシーがじっとりとした目でノエを睨めつけた。
「今日は注意しないでおいてやる」
「って言ってる時点で小言じゃね?」
「言葉で済む回数は過ぎたぞ」
「……ありがとうございまーす」
殴られなくて良かったと胸を撫で下ろし、ノエはジャケットを脱いだ。元々きっちりとした格好は嫌いだが、久々に袖を通したせいか珍しく肩が凝ったように感じる。
「何故脱ぐ」
「堅っ苦しくて疲れた」
「だから普段から着てろとあれほど……」
「着てるだろ。誰かさんが服装くらいはしっかりしろってうるせェから」
ここのところこういった服装をしなかったのは、ほたると共にスヴァイン探しをしていたからだ。本当はそのまま好きな格好でいたかったが、これまで出かけていたのは外界。しかもそれなりの立場にある者達と会っていたものだから、彼らのいる場所によってはドレスコードに引っかかってしまう。
だから仕方なくきちんとした服装でいたが、その用事ももう済んだ。今後のことを考えると、しばらくはもうこんな格好はしなくていいだろう。そう思うとやけに清々しくなって、ジャケットを肩に掛ける動きが大きくなる。
するとどういうわけか、エルシーが嫌そうに顔をしかめた。
「どこをうろついてきた」
「ん? 外界」
「ならいいか……」
「なんだよ」
ノエが尋ねるも、エルシーは答えない。相変わらず嫌そうな顔をするだけだ。それどころか「用件を言え」と会話を打ち切られたものだから、ノエは渋々引き下がった。
「まず労えよ。スヴァインの件は片付いたぞ」
「お前は操られただけなんだろう? しかもどこまでが支配下の行動だったか理解できていないそうじゃないか」
「……なんで知ってんだよ」
「麗に聞いた」
「麗ァ?」
はて、と首を傾げる。麗は確かに執行官だが、あの場にはクラトスの配下として参加していたはずだ。それなのに何故彼女が律儀にエルシーに報告するのかとノエが考えていると、エルシーが「ラミア様の件で文句を言いに来た」と溜息を吐き出した。
「お前も知っていたのかと詰め寄られたよ。全く、そうしたいのは私も同じだというのに……」
「……悪い」
「私よりアレサ様に謝れ。ほたるのこともあるんだ、あの方との関係は良好に保っておかなきゃならないだろう」
「あいつキレてる?」
「まだ報告はしていない。麗は要点しか言っていなかったからな、お前からも話を聞いた上で伝えるつもりだ」
なるほど、麗は自分の言いたいことだけしか言わなかったらしい。エルシーの語り口でノエがそう理解した時、エルシーが「それで?」と首を傾げた。
「その報告をしに来た……わけじゃなさそうだな」
「報告もするよ。ついでに仕事も辞めるって言いに来た」
「……は?」
エルシーの顔が怪訝に染まる。相手のその反応を見ながら、ノエはこの数時間の間にあったことを話し始めた。
「――なるほどな。お前のやりたいことは理解した」
ノエから話を聞いたエルシーが頷けば、彼女の柔らかな髪がサラリと肩から落ちた。
「だが辞める必要はないだろう。考え直せないのか?」
「そんなに俺に仕事辞められちゃ嫌?」
「そこはどうでもいい」
「あァそう……」
もう少し渋ってくれても良いのではないか――あまりに素っ気ないエルシーの反応にノエはそう思ったが、しかし彼女らしいと言えば彼女らしい、と諦めた。それに引き止められてもこの計画を変えるつもりはない。そして、エルシーにはそのうち多大な迷惑をかける。彼女もそれが分かっているだろうから、その態度に自分が文句を言うのはお門違いだ。
第一、この話をしている間にとんでもない条件も突きつけられた。「……俺のことよりお前がさっきの考え直してくれねェかな」呟けば、エルシーが「それは有り得ないな」と一蹴した。
「どうせほたるを近くに置いておくつもりなんだろう? だったら監視されていると分かりやすいどこかの部屋より、他と隔絶された屋敷に住む方がいいじゃないか」
「だからって丸ごと買い取りはねェわ。せめて部屋単位にしろよ」
「お前に買い取らせるなら誰でも買えるようにしなければならないぞ」
「……足元見やがって」
ヒクリ、ノエの頬が引き攣る。誰でもということは、スヴァインを恨む者も買えるようにするということだ。そんな者をほたるに近付けるわけにはいかない。こちらが彼女の安全を優先することを分かっていて、エルシーは負債を押し付けようとしている。
そのことを実感してノエが疲れたように天井を見上げていると、エルシーが「その話はともかく、」と話題を変えた。
「自白の件について、ほたるは何と言ってるんだ?」
「ほたる?」
「流石に反対しただろう? お前がどう話したかは知らないが、あの子は自分の責任だと思いかねない」
「や、まだ言ってない」
反対されても変えられないこともそうだが、話して余計な希望を持たせたくない。うまくいかなければほたるが傷付くし、うまくいった場合もそうだ。話の流れによっては事前に伝えた内容よりも、こちらが不利益を被るような条件を受け入れざるを得なくなることだってあるかもしれない。そうなってしまえばそれこそほたるは自分のせいだと責めてしまう。
なんで言ってくれないのかとまた怒られそうだが、こればかりは仕方がないのだ。全部自分の我儘ということで押し通そう――ノエが神妙に頷いていると、エルシーが険しい顔をしているのが見えた。
「何だよ、その顔」
「それはお前……相手は子供だぞ。それなのにそんな大事なことまで隠して手を出したのか」
あまりに率直な発言にノエが固まる。普段であれば特に何も感じないが、この時ばかりは違った。何故か顔が強張ることもそうだが、同時に変な後ろめたさがある。ほたるはそこまで子供ではないだとか、話さないのは事情があるからだとか、そういった言い訳すらもできない。だから「……下世話」とだけどうにか絞り出せば、それを聞いたエルシーは一層眉間に力を入れた。
「なら風呂に入れ。お前がそういう匂いをさせているのは珍しくないが、相手が分かってると周りが困る」
「……あ」
顔の強張りが強くなる。それは恐らく、ほたるとそういうものを結びつけられたせい。
しかし自分の落ち度だということはノエにも分かっていた。吸血鬼の嗅覚は鋭く、僅かな残り香も嗅ぎ取る。相手が誰なのかは必ずしも分かるとは限らないが、今後ほたると一緒にいるところを見られるようになるならば、嗅ぎつけた者達は教えていなくても答えを得るだろう。
それは、非常に不快だ。
「直接ここ来て良かった……」
「そもそもお前が風呂に入らないことが悪い。なんで大の大人にこんなことを指摘しなきゃいけないんだ……」
「今まで気にしたことねェもん」
「昔気にしろと散々言ったはずだが?」
「気にしても意味なかったから」
「周りは不快に思うとも言っただろ」
低くなったエルシーの声に、これはまずい、とノエは両手を上げて降参を示した。「ごめんごめん」軽く謝り、そそくさと鍵を取り出して座標を合わせる。
「用事済んだからそろそろ帰るわ。シャワー浴びないと」
時間がないのだと示すように言えば、それまで怒りを滲ませていたエルシーは呆れ顔となった。
「ついでに少しは寝ろ。珍しく顔に出てるぞ」
「嘘。そんなに?」
「たまに目が据わってる」
「顔じゃねェじゃん」
とはいえそんな指摘をされることも珍しい、とノエは確認するように目を瞬かせた。
確かにいつもよりは瞼が重く感じる。これはやはり早く帰らねばなるまい。そして、今度こそほたると共に眠りたい。他人と一緒に寝るのは苦手なはずなのに、ほたるが近くにいればそれだけで良く眠れそうな予感がする。
ああ、違うか――ふと思い出したのは、まだ人間だった頃の記憶。仲間達と身を寄せ合っていた頃、彼らと同じ空間で寝ることには深い安心感を抱いていた。
もしかしたら本来の自分は、誰かと共にいることが好きだったのかもしれない。
『ノエ、本当は人のこと大好きでしょ?』
以前、ほたるに言われた言葉が脳裏を過る。
あの時はよく分からなかった。けれど今は、そうだったかもしれないと感じる。
失っていた。そして、失ったことにすら気付いていなかった。
他にもそんなものがあるのだろうか――考えて、頬が緩む。これは何が何でもこの後の計画を完遂せねばと改めて実感しながら、ノエはほたるの待つ家へと戻った。
終わり。




