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四章 梅壺

久しぶりの更新です。

あれから、一月が経ち、あたしは一条宮にすっかり、慣れていた。

基子姫も後、もう一月と十日経てば、生まれるという状態になっていた。けれど、勝手な行動を取ったということで、梅壺様は東宮様から、早く後宮へ戻るようにと、いわれていた。

二日か三日おきに、ご使者が来ては文や言伝で帰ってくるようにとの催促がきていた。

それをもう少しだけとか、かわしながら、一月が過ぎた。

兵部卿宮様が直接、お部屋へ来られて、梅壺様に忠告をなされたほどだった。

「…女御、これほど、東宮様がおっしゃっているのだから。もう、擬華舎(ぎょうかしゃ)にお帰りになってはどうですか?」

あくまで、優しい調子でおっしゃるけど、棘が感じられた。あたしも几帳の後ろで、見ていたけど。兵部卿宮様はまあ、風雅とか優美という言葉が似合う方ではあった。

それが眉をしかめておられるので、恐くはあった。

「…わたくしは戻りません。東宮様は宣耀殿様の方がよろしいのですから。捨て置いていただきたいとお伝えください」

静かに言った梅壺様は御簾越しで、表情は見えなかったけれど。だいぶ、嫌そうにしておられた。

宮様はそれを聞いて、よけいにむっとした顔つきになられた。

「いい加減になさい。女御、あなたはもう東宮様の妃になられたのだから。そう、おいそれとは後宮を出ることができないご身分なのですよ。そこをわかっていただかなければ、なりませんね」

「でも、梅壺へ戻ったって、またいわれるんです。この度の王女御様は、残念でしたねって。有力な後見人がおられぬし、東宮様が気に入るはずがないって。登華殿や麗景殿の女房達がそのように噂していたと、小侍従から聞きました」

梅壺様はしまいには、泣き出されてしまった。

思ったよりも世間の風当たりが強いみたいだ。

麗景殿様といえば、三年前の夏の火事の一件で関わったことがある。


あたしが東宮様のお妃候補に上がっていたとかで、それを妬んだ権中将が下男に命じて、火をつけさせたのだった。

自然と手に力が入る。

義隆のことを好きになった民部のおもと、諏訪という女が権中将を引き込んだという所まで、思い出した時だった。

「嫌だとおっしゃっていても、勝手な行動は謹んでいただきたい。宗明達があなたに言ったのだろう。宿下がりをしていただきたいと」

鋭い声で、叱責をなさる。あたしは、几帳の影から、這い出ようとした。

「お待ちくださいませ。宮様に黙って、梅壺を退出なさるように申したのは、私どもです。ですから、女御様をお責めになるようなことは…」

小侍従がなんと、御簾の前で手をつき、平伏していた。

兵部卿宮様は、唖然とした顔で、小侍従をご覧になっている。

「…そなた、小侍従か。自分の主に非はないと申すか」

絞り出すような声で、おっしゃったのだった。


「はい。女御様がお元気になってくだされば、と思いまして。右大将様や参議様方とお話して、決めたことでございます」

小侍従は、一所懸命に、梅壺様を庇う。その光景をみて、あたしは出て行かない方がいいと判断した。

冷たいようだけど、小侍従に任せようと決めた。

兵部卿宮様は、さらに怖いお顔になられていた。

「だが、軽率なことをと世間が騒ぐ。宮中で、そんなことが噂になれば、女御の失態と受け取られかねない。そなたはそれでもいいというのか」さすがに、その通りではあった。

小侍従は唇をかんで、ただ、黙っている。宮様がお怒りになられるのも、もっともだ。

「…お父様。でしたら、わたくしは一旦、梅壺へ戻ります。それで、よいのでしょう?」

その一言に、あたしや宮様、他の女房達は唖然とした。

「女御様…」

小侍従がそう口にすれば、梅壺様は御簾へと近づかれた。

わずかに、衣擦れの音がする。

「わたくしは、梅壺へ戻ります。お父様や他の方々がそれで、満足するのであれば」

はっきりとそうおっしゃった。

あたしは几帳にそっと、戻った。

「…本当に、戻る気はあるのだな?」

低い声でお聞きになる。梅壺様は肯かれたようだった。

「ええ。姉様や東の御方様達の分もがんばらないといけないとは、思っていましたから」

宮様はゆっくりと立ち上がった。そして、御簾に背中を向ける。

「わかりました。おまえ達、すぐに女御にお支度を」

そうおっしゃれば、女房達が動き出した。宮様はそのまま、部屋を出て行かれた。


それから、一刻ほど経った。梅壺様のお支度は終わった。

あたしも、衣装やお化粧を施されて、周囲の女房達がせわしなく動き回る。

「…御方様、宮様が一緒に行くようにとのことですので。後宮へ同行していただきますよ」

小侍従がそういえば、あたしはため息をついた。

「わかりました。女御様に付いて、後宮へ参ります」

仕方なく、いえば。 小侍従は立ち上がり、こちらですと案内をしてくる。

同じように立ち上がって、ついていく。 お部屋にたどり着くと、御簾越しでも鮮やかな今様の紅色が目に入る。

「…東の御方、とても綺麗になさったのですね。見違えるようだこと」

梅壺様はそうおっしゃった。


「いえ、恐れ入ります。私の衣のことまで、お褒めいただくとは…」

いつになく、丁寧にいうと、梅壺様はくすりと笑われた。

「そんなに、畏まらなくても。わたくしの義姉上に当たられるのですから、もう少し、気軽に話していただいてよいのですけど」

周囲の女房達も笑い声を挙げている。

決して、大きくはないのだけど、それでも耳には入ってくる。

「女御様、そのようなお言葉をいただけて、嬉しいのは山々なのですけど。二人きりの時か、周りにあまり人がいない時はそのようにいたしましょう」

そう口にすれば、梅壺様はええ、と肯いてくださった。

「わかりました。確かにその通りですね」

あたしは、肩から、力が抜けていくようだった。


それから、牛車に乗って、梅壺様のお供をすることになった。あたしは、一緒にというわけにもいかず、すぐ後ろの付き添いの牛車に乗せてもらった。

小侍従から、あたしの女房名は「宰相の君」と決められたと伝えられた。

何でも、梅壺様の提案らしい。

「…御方と呼ぶわけにもいきませんし。大納言家の姫君であるあなた様をこんな一介の者達と同列に扱うこと、お許しくださいね」

「別に気にしてないから。以前、『東の君』だなんて、呼ばれていたし。かえって、宰相の君とかちゃんとした名前をつけてもらえて、感謝しているくらいよ」

あたしの返答の仕方が変だったのか、小侍従は笑っている。

「ああ。香子様は、面白い方ですね。普通はいやがるものですのに」

「そうかしら。藤壺様の女房として、やっていた時なんて、東の君とか曖昧な呼ばれ方だったから。そんなに、嫌じゃないわね」

あたしが素直にいえば、小侍従は目を丸くした。

「藤壺女御様とおいとこというお話は、本当だったのですね。お行儀見習いと称して、宮仕えしていらしたことは聞いていましたけど」

それには、あたしも驚いた。


「…え。どこから、聞いたの。宮仕えしていたって…」

あたしが口に出せば、小侍従は首を傾げながら、何かを思い出す顔つきになった。

「…あの。兄君である参議様から、聞いたような。女御様がそうおっしゃっていまして」

「そう、友成から、聞いていたのね。それだったら、知っていて当然ね」

小侍従は、苦笑してみせた。

すると、がたんと音がして、ゆっくりと牛車が動き始めた。 やっと、出発するらしい。

「香子様、しばらく時間もかかりますし。お話でもいたしましょう」

小侍従がそういってきたので、あたしは肯いた。

「例えば、小侍従は楽で得意なものってある?」

「私は、楽でいえば。そうですね、琵琶や東琴をよく弾きますね」

その後も楽や囲碁のことなどを話した。 小侍従の造詣の深さや趣味の広さに感心しきりだった。


ゆっくりと牛車は、進んでいく。

大内裏の門ー上東門を入り、梅壺様は直接、後宮の入り口まで行ったようだった。あたしや他の女房達は徒歩で、左近衛府へ入った。

そのまま、長い簀子縁を通り、微安門から、凝華舎へとたどり着いた。

庇の間へと、先に来ていた女房によって、通された。

名前の由来による梅らしき木を探したのだが、なかった。

「…宰相の君。お疲れになられたでしょう。わざわざ、同行をお願いして、すみませんでした」

小侍従がそういって、労ってくれた。

「いいえ、こちらこそ。女御様がまた、お邸に帰りたい、とかおっしゃらなければいいのだけど」

「確かに。気をつけなければいけませんね」小侍従も同意してくれた。

暑い中、あたしは他の女房達と一緒に、女御様を待ち続けた。


夕刻になり、梅壺様がお出ましになった。

御簾越しで、対面したあたしはお疲れでないかとか嫌でないかとか、気になっていた。

周りには小侍従とあたしの二人しかいない。

女房達を梅壺様が退がらせたのだった。

「…宰相、それに小侍従。いきなり、父宮が来られた時には驚きましたね」

穏やかなお声で、おっしゃる。それを聞いて、ほっとした。

「ええ。女御様の御許へ来られた時には、私どもも本当にどうされたのかと思いました」

「わたくしが入内しなくても、宣耀殿様がおられるのだから。それを兄様達、特に宗明の兄様が基子の姉様がだめだから、代わりにわたくしを後宮へ入らせたでしょう。宗明の兄様は自分が出世したいから、そうしたかったのよ」

「女御様…」

小侍従が窘めるように、いおうとしたが。

梅壺様の愚痴は収まることがなかった。


「入ってみれば、自由にお外へ出られないし。他の女御様方がおられるから、肩身が狭いし。東宮様は、一時、廃太子にされかけたというじゃない。そんな御方の妃になるのは、気が進まなかったのよ」

「それは、数年前の東の三条邸の火事のことでしょうか?」

小侍従が鋭く、問いかける。梅壺様も肯かれた。

「そう。何でも、東宮様の叔父君にあたる権中将殿だったかしら。ご生母の麗景殿様の弟が東三条に火付けをしたとかで。そのせいで、今上、主上もたいそうお怒りになられたそうね。麗景殿様と東宮様方は大炊院に退がられて、謹慎なさったそうよ」

まあ、梅壺様はよく知っておられる。

あたしは、内心、感心した。

「…私も知っています。権中将の一件で、左大臣家の威勢も揺らぎつつあるとか。東宮様や女一宮様もさぞかし、肩身の狭い日々を送っておられるのでしょうね」

あたしがそう言えば、小侍従も同意した。

「宰相の君が一番、お辛い思いをなさったでしょうに。幸い、父君や弟君がご無事で何よりでしたけど」「それでも、火付けをした権中将は許せないわね。弟の病の時期を見計らって、やったんじゃないかと疑いたくなるわ」

怒りをこめていえば、梅壺様が扇をぱちりと鳴らされた。

「…宰相。このお話はもう終わりにいたしましょう。後宮では、誰が聞いているかわかりませんから」

確かにその通りだ。あたしは、肯いた。 その時、ふいに良い香りがした。

振り返れば、簀子縁に一人の女房がこちらへやってきた。

座って、平伏すると口上を述べた。

「女御様、これより、東宮様がお渡りになります」

短く、いわれた内容にあたしや小侍従は仰天する。


その後で、東宮様がおいでになった。

確か、実名を淳明(あつあき)親王とかおっしゃったはずだ。

すでに、青年といってもよい程になっておられる。

御年十五歳にしては、大人びておられるというか。顔立ちも、貴族的な優美な感じでありながら、男らしいきびきびとした雰囲気も兼ね備えておいでだ。

直衣も下襲の薄紅色に合わせて、ごく薄めのものにしておられる。

ちなみに、あたしは扇で顔を隠している。表向きは、一介の女房なわけだから、それは当たり前だとしても。

「…やっと、私の願いを聞き入れてくださったようだね。梅壺、今回のことについてはどう、弁明するつもりかな?」

冷ややかなお声で、御簾の前まで来た時の一言目がそれだった。

「…弁明など。ただ、姉のことが心配で宿下がりをしただけです。東宮様がお怒りになるのは、わかっていましたけど…」

梅壺様も反論しようとする。

「あなたは、自分の立場をわかっていない。父君もそう、おっしゃっていただろう。宣耀殿に気兼ねしていたのは、気づいてはいたが」

あたしは、その言葉にかちんときた。

扇を持つ手にぐっと、力が入る。

いくら、何でも、冷たすぎるだろう。東宮様は梅壺様のことが嫌いなのか。

「宣耀殿様は関係ありません。わたくしの一存でやったことです」

きっぱりといってみせた梅壺様は、一条宮にいた時とは違ってみえた。

吹っ切れたというか。だが、東宮様は眉を寄せた。

「ならば、よけいに一条宮に帰らせるべきではなかったな。世間で、私たちの仲が悪いのだということが広まってしまう」

「…でしたら、わたくしは東宮様を受け入れるわけには参りません。このまま、実家に帰らせていただきます。そして、出家をさせていただいて、御仏にお仕えいたしましょう」

それを聞いた東宮様は更に、ご機嫌が悪くなってしまった。

「あなたがそんな事を言うとは。本気か?」

梅壺様は、肯く気配をみせた。

「ええ。東宮様がわたくしをお嫌いだというのは、よくわかりました。姉上と違って、わたくしは美しくもなければ、特別な才もございませんから。宣耀殿様みたいに、お淑やかではありませんし」

「都では、三大美人のうちにも入るという一の姫、大君のことか。私は至って、興味はないが。別に、あなたを嫌いだからではない。ただ、どう、接したらよいのか。わからなかっただけで…」

東宮様は言いにくそうにおっしゃる。

宣耀殿様はお年上でいらっしゃるそうだから、まだ、接しやすい。

だが、梅壺様は同い年であられるから、どうしたらよいのかわからなかった、ということか。

「そうでしたの。だったら、最初から、おっしゃってくださればよかったのに」

梅壺様の方が怒っておしまいになった。夫婦喧嘩も疲れるものだ。

あたしはそう、思った。


夜が訪れて、東宮様は凝華舎にそのまま、お泊まりになった。

あたしが来る前は、宣耀殿様の所にばかり、お渡りになって、梅壺様の所にはあまり、来られてはいなかったらしい。

「…やはり、女御様がお宿下がりをなさったのが少しはきいたのかしら」

小侍従はそう呟いていた。あたしは、ちなみに小侍従のお局に来ている。

「さあ、どうなんだろう。あたしには、わからないけど」

「ええ。こういう事態になった以上、喜ぶべきなんでしょうけど。まだ、信じられなくて」

小侍従は苦笑した。確かに、そう思うのは当然だ。

「まあ、おめでたいことではあるんじゃないの。東宮様が梅壺様の所に来られるのは」

あたしがそういっても、小侍従は嬉しそうではなかった。


「…じゃあ。あたしはお局に戻るわね。唐菓子、おいしかった。ありがとう」

器を指さしていえば、小侍従は、はいと答えてくれた。

簀子縁に出ると、生ぬるい風が吹いた。 重くて長い装束を引きずった状態で、ゆるゆると歩いた。

しばらくして、自分用のお局に到着した。

妻戸を開ければ、灯りがないため、真っ暗だった。

仕方なく、月明かりを頼りにしながら、几帳の辺りに行く。唐衣を脱いで、引っかけた。

裳もついでだから、外して、そばに置いた。脇息を手探りで、見つけるとそれに寄っかかった。

(ああ、疲れた。典子姉様、元気にしているかしら)

ふと、そんなことを思った。

「…こんな暗い所で何しているんだい?」

夢だろうか、懐かしいあの人の声がした。あたしは、閉じていた瞼を開いた。

そこには、表情がよくわからないが月に照らされて、薄い茶色の透けてしまいそうな瞳があった。

珍しく、男だというのに綺麗だと思った。

「香子?」

不思議そうに尋ねてくるので、自分の頬をつねってみた。

地味に痛かったので、現実だとわかる。

「…どうして、此処にいるわけ。妹君に付いてなくて、良いの?」

「どうしてって。君が梅壺へ来ているって、女御様付きの小侍従がこちらへ行く途中で知らせてきてね。妹には義隆が付いているから、心配ないよ」

あたしの質問にも、丁寧に答えてくれる。

つい、袖を掴めば、慎み深い渋めの薫衣香が匂う。

本物の友成だ、そう思った時には抱きついていた。

あたしがいきなり、そうしてきたので驚いたようだった。

そのまま、ぼろぼろと涙が出てきた。

しばらく、泣きじゃくっていた。


「…ちょっとは落ち着いたかい?」

友成はあたしの髪を撫でながら、きいてきた。

泣いたせいで、顔の白粉や紅が落ちて、ぐちゃぐちゃのひどい顔になっているはずだ。暗くって、よかったと思った。

「いろいろあったせいで、疲れてたみたい。基子姫は大丈夫なの?」

「ああ、義隆から、文が来てね。あの子だったら、大丈夫だよ。藤壺様も経過は順調のようだ」

ほっと、息をつく。 だけど、藤壺様に男御子がお生まれになったら、いろいろとややこしくなりそうだ。

梅壺様のお立場が不安定なものになってしまう。それに、反対に梅壺様が男御子をお生み申し上げれば、次期東宮に決まるかもしれないし。 考え込んでいると、友成は立ち上がっていた。

「それじゃ、妹のことが気になるし。このまま、帰るよ」

友成はそのまま、お局を出て行った。


友成が帰った後、あたしは塗り(ぬりごめ)の中へ入ろうとした。

そのとき、とんとんと蔀戸を叩く音がした。こんな夜遅くに、誰だろうと妻戸を開けてみれば。

昼間、お会いした東宮様らしき人が立っていた。

「…宰相の君でしたね。いや、香子姫」

既に、声変わりをした低い声で言ってくる。あたしは、驚きのあまり、固まってしまった。

「何故、私の名を知っておられるのですか。女御様のお部屋にいらっしゃるはずでは…」

あたしは、慌てて、妻戸を閉めようとした。

「私の許嫁にあたる方の名くらいは、知っておりますよ。あなたがまだ、幼い頃、一度か二度、お会いしたことがあるのですが。覚えてはいないようだ」

五つも年下の東宮様から、そんなことをいわれてもね。

弱った、あたしは進退極まった気持ちであった。


「あなたは、覚えていないのか。それは残念だな」

ほうと、ため息をつかれた。

あたしは混乱しながらも、一所懸命、考えた。

東宮様が既に、人の妻であるあたしにわざわざ、夜更けに会いにくるというのはどうなんだろう。

「東宮様は、私に何かご用がおありなのですか?」

ふと、口をついて出た質問に、東宮様は驚いたようにこちらを見てきた。

「あなたは鈍いですね。私がこちらへ来たのは、気持ちを伝えようと思ったからですよ。香子姫、友成殿と結婚を早々となさって、それがどれだけ、恨めしかったか。あなたを添い臥しの任につけたくても、叔父の権中将の一件があったから、できなかった」

あたしは、その言葉に唖然とした。

遠回しだけど、これって、恋の呼びかけじゃないの。

東宮様は、簀子縁に座ると、あたしに隣に来るように促した。

いわれるがままに、腰を下ろした。

月を眺めながら、あたしは東宮様としばらく、話をしていた。

東宮様があたしの手を握ってきたり、肩に触れたりしてくるので、それにはさすがに抵抗を感じた。 「…藤壺女御は、第四皇子をお生みになるか、それとも、第二皇女をお生みになるか。お生まれになる御子が男か女かで、時勢も変わる。左大臣のお祖父様もぴりぴりとなさっていました」

「それはそうでしょうね。藤壺様に皇子がお生まれになれば、右大臣家がさらに力をつけるわけですから」

あたしがそう答えたら、東宮様は微笑んだ。

「あなたは、さすがに火事の最中に走り回っていたことはある。その通りですよ。だが、私の立場も危うくなりますね」

「左大臣家が失脚するような事態になれば、確かに東宮様は流罪にされるでしょうね。あたしは、東宮様の妃にはなれません」

最後にそう付け足せば、東宮様は俯いて、黙り込んでしまわれた。

「…やはり、受け入れてはくださらないか。文の一つでも送るべきでしたね」

苦笑しながら、おっしゃる。

東宮様はあたしの握っていた手に力を込める。そして、強く、引かれた。

気が付いた時には、顔に布の感触と香の匂いがして、抱きしめられていた。

すっぽりと腕の中に収まってしまったあたしは、抵抗しようにも、力が強くてできなかった。

「何をなさいます。こんな所を他の女房達に見られたら、噂になります!」

放してくださいといっても、東宮様はやめてはくださらなかった。

「参議、友成殿がもし、離縁されたら。私があなたを尚侍(ないしのかみ)にでもしたのに」

とんでもない事を言われて、あたしは体が熱くなるのを感じた。

「誰が離縁なんかしますか。尚侍になんて、なれるわけがないでしょう」

そう言えば、東宮様の腕が緩くなったのを見て、あたしは素早く、逃げようとした。

けれど、袖を掴まれて、駄目であった。

あたしは、それでも逃げようとした。

だが、何せ、たくさん重ね着した状態でいるのだ。

しかも、大きくて広い袖のおかげで、こちらの方が不利だ。東宮様も直衣をお召しになっているが、殿方の力にはかなわない。

仕方なく、あたしは大声を出そうとする。だが、手で口を塞がれて、せめてもの抵抗も無駄になった。

「少しは大人しくなさることですね。こちらには、女房は来れませんよ」

落ち着き払った声で、そう言われて、あたしは黙ることにした。

「…そう。それでよい。あなたが私と会っているということを友成殿が知ったら、どのように思うでしょうね。もし、騒ぎにでもなれば、あなたの方が恥をかくことになりますよ」

「でしたら、女御様の御許へお戻りになられたら、いいではないですか。私に手を出したって、東宮様には何の得にもなりませんよ」

あくまで、冷たい調子でいえば、東宮様は苦笑した。

「あまり、大声を出さないでください。私の想いはわかっていただけないようですね」

また、同じようなことをおっしゃる。

梅壺様との仲をどうにかしないと、あたし自身が危ない。

東宮様が女房に手を出したとなれば、他のお妃様方ー宣耀殿様や梅壺様がお怒りになるだろう。

周囲が黙っているはずがない。

それを想像しただけで、冷や汗をかきそうになった。それだけは避けないと駄目だ。

「…東宮様。何度も申しますが、私には夫がおります。だから、あなた様の想いを受け入れることは、できないのです。義理の妹でもある梅壺様のお立場もありますし…」

そこまで言うと、あたしはひと息ついた。

「梅壺は、まだ幼い。私からすると、好みではないな。自分が王女御だからと自負しているせいか、堅苦しくて隙がない」

「そんなこと、おっしゃっているから、梅壺様のご機嫌を損ねるんですよ」

つい、言ってしまったが。あたしはどうでもよかった。

「あなたは私よりも、妹君である梅壺の方が大切なのですね。少し、うらやましいな」

「…梅壺様がおいたわしいとは思っています。あたしは、東宮様との関係がうまくいっておられないと聞いたから、後宮へ参りました。他の殿方と浮気をするために、来たのではありません」

ぴしゃりと言えば、東宮様はご機嫌斜めになってしまわれた。

「わかりました。人の妻になったあなたに手出しをしようとした私が愚かでしたね。では、これにて、退散いたしましょう」ふいっと、背中を向けて、立ち去ってしまわれた。

けれど、あたしは厄介払いができたと思った。

梅壺様がお怒りになることを考えれば、これで、良かったのだと自分で納得させた。


東宮様が立ち去った後、部屋に残されたあたしは、しばらく呆然としていた。

そんな時に、こちらへやってくる人影があった。

「…宰相の君。こちらに東宮様がいらしていると聞いて、こっそり、来たのですけれど」

そう言ってきたのは、小侍従であった。 紙燭を持って、やってきたらしい。

「小侍従じゃないの。どうして、こんな所に」

「どうして、ではありませんよ。女房達は気づいていませんけど。東宮様が東の縁の方と会うとか、女御様におっしゃっていて。宰相の君ではないか、とぴんときましたの。それで、こちらへ来たのです」「…でも、どうして、小侍従がその話の内容を知っているの。聞き耳を立てたりしていたの?」

用心深く、問えば、小侍従は気まずそうに目を逸らした。

「え、まあ。そうですわね。女御様が心配でしたから、お隣の部屋にいまして…」

あたしは、大きく、ため息をついた。

「…女御様にバレたら、あんたが怒られるわよ。いくら、まだ御年十五歳で心配だとはいってもね…」

呆れて、あたしは頭を抱えた。

小侍従は、袖で口元を隠しながら、俯いている。

「確かに、その通りですわね。バレてしまわないように、気をつけないと」

言うことがそれか。よけいに、胡乱げに見れば、小侍従は気まずそうに目を逸らす。

「小侍従。あんた、東宮様の後を追いかけてきたって、言っていたわよね。あたしに手を出されても困るとか、思ったの?」

「…近いことは、思いました。既に、宣耀殿様や梅壺様のように歴としたお妃もおられるというのに。まあ、だからこそ、世評が悪くていられる宰相の君にも興味を持たれたんでしょうけど」

嫌みったらしく、言われて、少し腹が立った。

「世評が悪いのが何よ。あたしは、悪い事なんて、やってないわ」

「いえ、そういうことではなくて。香子姫、あなたのような方でも東宮様のお妃になれる良い機会なのですよ。参議殿のような身分軽き者を夫に迎えた時点で、愚かとしか言いようがないですね」

なかなか、言ってくれる。あたしは、小侍従を睨みつけた。

「…あたしは、東宮様と年が離れているし。それに既に、お二人も妃がおられるのだから。友成と離縁するつもりはないわ」

すると、小侍従はくすりと笑ってみせた。

「何をおっしゃいますか。あなたの言い分はただの我が儘にしか、聞こえませんわね。私でも、主上のお目に止まればと思ったことがございますのに」

「あたしにしてみれば、あんたの方がよほど、身の程知らずだと思うわね。主上は従姉の藤壺様の背の君でもあるの。勝手なこといわないでちょうだい」

二人して、しばしにらみ合った。

しばし、睨み合った後、小侍従は小さくため息をついた。

「…まあ、こうしていても仕方ありませんね。宰相の君、東宮様があなたに目を付けているのは確かなようです。くれぐれも間違いのないようにお願いしますよ」

真剣に言って、その場を立ち去っていった。

あたしは、どっと疲れが出て、床に座り込んでしまった。

全く、東宮様も勝手なもんよね。

梅壺様が好みじゃないなんて。

なんだか、無性に梅壺様がお気の毒になってきた。

たく、母君がいらしたら、こんなことにはなっていないだろうに。梅壺様付きの女房達は何をしているのよ。

あたしは、一人で怒っていても仕方がないので、お局へ戻った。

しっかり、妻戸に鍵をかけて、蔀戸も閉めた。脱いだままになっていた裳も畳んで、唐衣をかけていた几帳の側に置いた。

塗籠に入ると、着ていた衣を脱いで、単袴(ひとえばかま)の姿になる。

今は夏なので、大丈夫だろうと思ったのだが、打衣を除いた下の重だけを抜き取って、寝転がり、上に掛けた。

うとうとする内に、目を瞑った。

それにしたって、泣いてしまったせいで、ぐしゃぐしゃになってしまった顔を洗うのを忘れていた。朝になったら、直さなくては。

とりとめもない事を考える。それに、夫の友成は妹の基子姫の事で、一条宮へ帰ってしまった。

たぶん、明日の昼頃にならないと、来てはくれないだろう。とすると、自分のお局にずっと、いるか。それとも、梅壺様のお側にいるか。

けれど、あたしは女房、仕える立場にある。

だから、お局にいることはできない。

だとすると、梅壺様のお側にいるしか、選択肢はなくなってしまう。

そのまま、眠ってしまったのだった。


そして、朝になり、梅壺の女房が身支度を手伝ってくれて、あたしは女御様の御前に上がった。

顔を洗う時に、女房達が目の辺りをじろじろと見ていたけど。

お化粧や髪を梳く間、鏡をこっそりとみれば、自分の上瞼が赤く腫れ、目も充血していることに気がついた。

まあ、友成が来てくれた時に、一気に感情が高ぶって、泣いてしまったしな。

それはいいとして、御簾の前に座っていれば、人の気配がした。

「…宰相。こちらへ来て、一日が経つけれど。疲れたりなどしていませんか?」

心配そうにおっしゃる。

あたしは、そんなにひどい顔なのかと思いながらも、答えた。

「いえ。そのようなことはございません。女御様にご心配していただくなど、もったいないことです」

「そうなのですか。ならば、よいのですけれど。昨日、小侍従が宰相のお局の近くで見知らぬ男の姿が見えたというから。心配だったのです」

あたしは、それを聞いて、小侍従を見やった。

小侍従は射抜くような目でこちらをみていた。

あたしは負けじと、睨むと女御様や周囲の女房達が少し、戸惑ったような視線をこちらへ向けてくる。

「宰相、それに小侍従。二人して、どうしたのですか」

女御様の呼びかけで、はっと、我に返った。

「…いえ、申し訳ありません。宰相の君と昨日、少し、仲違いをいたしまして」

「仲違いを?」

小侍従が先に答えた。

女御様はまだ、不思議そうにしておられる。

まさか、いえないよな。東宮様があたしのお局に来ていたなんて。

「実を申しますと、参議殿かどなたかが、宰相の君のお局を訪ねていらしたようで。私が注意をいたしましたが、宰相の君がなかなか、聞き入れてくださらなかったのです。それで、喧嘩になってしまいまして」

あたしは、その言葉に憮然とした。

何が、聞き入れてくださらなかった、だよ。

女御様に内緒で、自分だって、隣の部屋で見張っていたくせして。

よくもまあ、さらっと、いえたもんだ。

女御様は扇で顔を隠してしまわれた。

「…宰相の元に、殿方が来ていたの。でも、小侍従だって、恋人がいるのでしょう。宰相にばかり、文句を言っていても、仕方がないと思うのだけど」

あたしは、よくいってくださったと思った。

いくら、まだ、十五歳でいらしても、人の心の機微をわかっておられる。

「…それでも、私、見たのです。参議様と抱き合っていた所を」「なっ、ちょっと、何を言っているのよ。あたし、さすがに人目に付きそうな所でそんなことしていないわ!」

あたしがそう、抗議していると、ぱちんと扇を鳴らす音がした。

「…皆、小侍従と宰相を残して、お退がりなさい」

凛とした声で女御様はおっしゃった。

すると、意外にも女房達はさっと、退出していった。

皆がいなくなると、御簾を小侍従が上げた。

女御様は脇息にもたれた状態で、こちらを厳しい顔つきで、見ておられた。

「…二人とも、どうして、そんなににらみ合って、喧嘩などしているのです。昨日、何があったのですか?」

あたしは、俯いた。小侍従も黙っている。

女御様もそれ以上は、おっしゃらない。沈黙がしばらく、続いた。

「女御様、友成がやってきたのは、確かです。それ以外の殿方は来ておりません」

あたしは、開口一番で、そう言ってみた。

小侍従は複雑そうな表情をしている。

「兄様がやってきていたのね。だったら、最初から、それとなく、おっしゃってくださいな。もし、香子様が浮気をしているということになっていたら、どうしようかと考えていました」

苦笑しながらほうと息をつかれる。

嘘をつくのは、嫌だったけれど、女御様には東宮様があたしのお局に来たことは、話せなかった。

うまく、ごまかして、あたしは退出した。

小侍従はそのまま、女御様の御前に留まるみたいだった。

お局にたどり着くと、あまり、会いたくない御仁がおられた。

「…宰相の君。今日も来てしまいましたよ。あなたがつれないのでね」

あたしは、小さくため息をついた。

「何が、つれない、ですか。東宮様は人の妻にまで、横恋慕するおつもりなのですね」

「おや、噂に聞いていたよりも大人しいのですね。私は、あなたの事に興味はあるのですよ。どういう女人か、確かめてみたかった」

「…やっと、本当の事をおっしゃいましたね。あたしを好いている、と言われても、胡散臭いと思っていましたが」

あたしがそういうと、東宮様は目を見開いてみせた。

「なるほど。なかなか、勘の良い方だ。そうですよ、私はあなたに興味はあっても、恋情はない。私に大事なのは、宣耀殿だけだ」

くすくすと、笑いながら、お答えになる。

あたしは、さらに大きく、ため息をつきたくなった。

基子姫や右大将、友成など、上の兄弟達は自分の好きな人と結婚できたけれど。決して、そうではなかった人達がいる。梅壺様もそうなのかもしれない。

「…東宮様。あたしにちょっかいを出す暇があるのでしたら、梅壺様に会いに行かれたらどうですか。嫌かもしれませんけど、梅壺様に本当のお気持ちを聞かれてもよいはずです」

あたしは、力を込めて、口にしてみせた。

昔であれば、「勝手にすれば」とか言っていたはずなのに。

気が付いたら、そんな言葉が出てきていた。

「梅壺に?」

あたしはこくりと、肯いてみせた。

冷めきった関係であっても、やり直すことはできるはずだから。

後悔するのは、後でもできる。

「ええ。梅壺様は東宮様が冷たくておられると、泣いていらっしゃいました。ずいぶんと悩んでいらしていたみたいですし」

説明を簡単にすると、東宮様は難しい顔をなさって、考え込んでしまわれた。

「そうか。梅壺が、そんなことを…」

少しは真剣に向き合う気持ちを持ち始めてくださったらしい。

あたしは、立ったまま、礼をした。

「お願いですから、宣耀殿様が大事なのはわかっております。けど、あたしの所へ来られるのは間違っているように、思うのです。梅壺様の御許へもお渡りになってくだされば、丸く収まります。だから…」

まだ、言おうとした時だった。

東宮様は、あたしの手を掴んでいた。

「…あなたは、梅壺にとっては義理の姉君でしたね。だから、彼女にこだわるのか」あたしを、鋭い目つきで睨みつけてくる。たかが、御年十五歳となめることなかれ、だ。

東宮様は梅壺様のどこが気に入らないのだろう。

あたしに寄り道してる場合じゃないってのに。

「こだわってなど、おりません。梅壺様がおかわいそうです。一体、どこが気に入らないのですか?」

その質問をぶつければ、東宮様は苦笑してみせた。

「父上や母上がお膳立てした姫と、結婚するつもりはなかった。宣耀殿だって、そうだ。梅壺もそう。私は自由に、恋をすることもできないのでね。あの二人だって、本当に私を男として好きなわけではないだろう。それとも、梅壺は違うとでも言いたいのですか?」

あたしは、東宮様を失礼ながらも、平手打ちしたくなった。 というか、梅壺様が誰か他の殿方を好きとか、そういうことはおっしゃってはいなかった。

あたしは、東宮様を見つめた。

「梅壺様は、東宮様を嫌いではないと思うわ。東宮様はどうなのですか?」

そういえば、梅壺様は入内なさって、まだ二月ほどしか、経っていなかった。

お互いを知り合おうにも、そんなに時は経っていない。

「梅壺が私を嫌いではないとはね。どうしたら、そう、思えるんでしょうね。少なくとも、私は彼女に手を出していませんよ」

それを聞いて、あたしは仰天した。

梅壺様が気に入られていないとか、おっしゃっていたのは、そういうことだったのか。

「…それって、本当なのですか?」

つい、尋ねてしまっていた。

東宮様は、黙って、空の彼方を眺めていた。

ふと、その横顔を見つめていると、手を放された。

そっと、放された右手に視線を落とすと、東宮様は小さく、ため息をつかれた。

「…私はまだ、梅壺と分かり合うほど、長い年月を過ごしたわけではない。あなたもそれはわかっているのでしょう?」

あたしはこくりと、肯いた。

「無理だとおっしゃっても、既に久子姫はお妃になられました。それは事実です。あたしはその中のうちの一人になるのは嫌だったから、だから、彼を選んだんです」

「彼、というのは。友成殿のことですか?」

「…ええ。主上の、今上様のお妃になれば、藤壺様と敵対することになります。だからといって、東宮様のお妃になったとしたら。幼なじみの妹姫と寵を競うことになる。弟の妻になった一の姫は、幸せなことでしょうね」

「確かに、私の妃になられても、宰相は幸せにはなれないでしょうね。妃達を敵に回すことになる」

東宮様は向こうを見たまま、そうお答えになった。

あたしは、自然と握られていた右手をさすっていた。

「では、私はこちらにいない方がよいですね。参議殿と出くわすのも困り物ですから」

にこやかに笑いながら、こちらを向くと、東宮様はあたしの頬を撫でた。

顔が近づいてきたと思ったら、左頬に温かくて、柔らかな物を当てられる感触がした。

すぐに、それは離れていったが。あたしは慌てて、頬に手をやる。

いわゆる、これって。接吻よね、どう考えても。

あたしだって、まあ、友成と結婚してからはしてるけど。

「では、宰相。私は帰りますからね。先ほどのことは秘密ですよ」

そう言って、東宮様はあっさりと帰って行かれた。

あたしはぼうっと、それを見送っていた。


しばらく、あたしはその場に突っ立っていた。左頬には、接吻された感触が今も残っていて。

口にされなかっただけ、よかったかもしれない。

けど、梅壺様や友成には口が裂けたって言えない、接吻されたことは。

しかも、相手が東宮様となったら、よけいにまずい。友成にばれたら、怒るだろうな。

「…宰相の君。そこで、何をやっているんですか?」

つらつらと考え込んでいると、小侍従が声をかけてきた。

あたしは、それに気が付くと、すぐに答えた。

「あ、小侍従。ちょっと、考え事をしていたのよ。今頃、一条宮じゃ、どうなっているんだろうと思って」

「ああ、その事を考えていらしたのですね。女御様も東宮様にお宿下がりをもう一度、頼み込むとおっしゃっていましたよ。やっぱり、姉君が気にかかるからと」

「お宿下がりをもう一回、なさるおつもりなのね。さっき、怒られたばっかりなのに。熱心なことだわ」

あたしは、つい、笑ってしまった。


夜も更けてきたので、あたしはお局に戻った。

未だに、顔が火照ってしまい、ぼうっとなってしまっていた。

まさか、東宮様ともあろうお方があんなことをされるとはね。未婚の時だったら、素直に喜べたけど。

今は結婚して、夫のある身なのだ。嫌がらせだとしか、思えない。

はっきり言って、後宮へ来なければ、よかったというのが本音だ。一条宮には、葛姫がおられるから、安心だろうけど。 それでも、基子姫のことが気がかりだ。あんなほっそりとした体で、お産をするのだから、難産になるかもしれない。

あたしは、小侍従が気をきかせてつけてくれた明かりを頼りに、文机に向かった。

自分で筆や墨をすいたりして、用意した。

紙も用意して、文を書いた。

〈伊勢、元気にしていますか?あたしは、後宮へ来て、少し大変だけど。元気にしています。そういえば、一の姫のご容体はどうですか。変わりないでしょうか。もし、よければ、教えてください。

宰相〉

手短に書くと、あたしはすぐに細く折り畳んだ。

簀子へ出て、人を呼ぶと、一条宮に仕える女房に出すのだと言った。まだ、幼い少年だったけれど、すぐにさっと走って、届けに行ってくれた。

それを見送ると、中へ入った。

夕餉が用意されていて、水飯と大根(おおね)のにらぎに焼き魚に汁物であった。さっき、通りがかりの女房に、お腹が減ったと伝えたら、出してくれたのである。 あたしは、それらを綺麗にたいらげると、一息ついたのだった。


その日の夜は誰も来ず、ゆっくりと休むことができた。

朝になり、身支度をしていると、あたしの世話役になっている紀伊という女房が話しかけてきた。

「…香子様。昨日の夜、東宮様のお渡りが梅壺にあったのです。それで、女御様とお二人でお休みになったみたいで…」

あたしは、鏡を前にして、髪を梳かれていた。

そんな中で、唐突にいわれて、唖然とした。

「東宮様が昨夜、こちらに来られていたの?」

「ええ。夜もとっぷりと暮れた頃に、突然、来られまして。他の皆さんもたいそう、驚かれていました」あたしは、そりゃそうだろうな、と思った。

今まで、お渡りが全くなかったのだから。

それがいきなり、来られたら、あたしだって、面食らうわよ。

髪が梳き終わると、衣装を身に付ける。それにしたって、あたしが後宮に来て、三日が経とうとしている。

梅壺様が落ち着かれたら、退出して、一条宮へ行こう。

そう決めた後、あたしは正殿へと向かった。

先導役には小侍従が来て、やってくれる。

「…宰相さん。私どもで決めたことなのですが。あなたがお宿下がりしたら、女御様もする、とおっしゃっているのです。なので、私どもも、ついて行くことになりますけれど。よろしいでしょうか?」

小声でそう、問われた。

あたしは、それに頷いた。

「わかったわ。あたしもいつ戻るかは、まだ決めていないの。後、二、三日様子をみて、それからね」

小侍従はわかりました、と肯いてきた。


女御様のお部屋に着くと、すぐに他の女房達が御座を用意してくれた。

そこに落ち着くと、女御様が話しかけてこられた。

「…宰相。わたくし、もう一度、東宮様にお頼みして、お宿下がりをしようと思っているんです。小侍従からはもう、聞きましたか?」

「ええ、伺いました。つい、この間、東宮様から、お叱りを受けていらっしゃるのに。それでも、お帰りになるおつもりなのですか?」

あたしはつい、うっかり、問うてしまっていた。

本当は昨日の接吻のことで、女御様にお会いするのは、避けておきたかったのだけれど。東宮様も面倒な置きみやげをしてくださったものである。

絶対、あたしの反応をみて、内心、遊ばれたのではと思っている。

「そのつもりです。わたくし、もう、この度の東宮様の態度をみて、完全に頭にきました。わたくしに指一本も触れてくださらないし。話しかけたって、生返事ばかり。だから、お困りになればよいと思いまして、この事を思いついたのです」

女御様は、まくし立てて、すっきりなさったのか、ふうと一息つかれた。

あたしは、そのお言葉をきいて、笑ってしまった。

女御様もまだまだ、お子さまでいらっしゃる。

要は、つれない東宮様に腹を立てて、家出しようとなさっているのだ。少しは、困らせて心配をすればいいのだ、とお考えになられたのだろう。

「…そうですか。実は、私も女御様にお詫びしたいことがありまして。二人きりにさせてはいただけないでしょうか」

あたしは、丁寧に頭を下げて、女御様に頼んだ。

「わかりました。小侍従や皆、宰相だけ、残して退がりなさい」すると、皆、静かに退出していった。

人の気配が無くなったのを見計らって、女御様は御簾から出てこられた。

「それで、わたくしにお詫びしたいこととは、一体、何ですか。香子様」

あたしのすぐ前まで来られると、問いかけられた。

それに、こくりと肯いた。

「…その。東宮様の事についてなのですけど」

手短に言うと、女御様は不思議そうな顔をなさる。

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