三章 夜は訪れて
朝になり、あたしの部屋には一の姫こと基子姫付きの女房達が六人もやってきた。
顔を洗って髪を櫛で整えた。その後、何故かお湯殿に連れて行かれて半刻ほどいらされた。もう一度丁寧に髪を梳いてお化粧もして正装にならされる。女房の中には伊勢もいた。
「東の御方様。参議様がお呼びです」
「あの。それだっていうのに何で裳や唐衣を着けるの?」
「梅壷様がお待ちになっておられるからです」
伊勢は簡単に説明をしてきた。
「梅壷様のお部屋に兄君である参議様がおいでなのです。後で良いのでお連れするようにとの事だそうでして」
文句を言いたいところだったがぐっと我慢する。昨日は基子姫と会って話をしたのでその疲れからかあまり眠れなかった。
寝不足気味だというのにこんな朝早くにあたしを呼び出すとは梅壷様も相当我が儘らしい。第一印象はそんな感じだった。
伊勢に案内されて向かったのは邸の主殿である寝殿の南側のお部屋だった。一旦、庇の間で待っていると梅壷様付きの女房がそろそろと出てきた。伊勢がその女房に小声で何事かを囁いている。よく耳をそばだててみると微かに聞こえてきた。
「東の御方様をお連れしました。小侍従さん、乳母様にお伝えくださいませんか」
「ええ、わかりました。伊勢さんもお疲れ様」
そして二人してにこにこと笑い始めた。
「梅壷様の御許に右大将の君と左近中将殿が同時に来られるなんて。参議殿もお綺麗でいらっしゃるけど。あのお二方がいられるだけで雰囲気が華やいだものになるわね」
「うらやましいわね。わたくしのいる東南の対屋は殿方はあまり入れないから。宮中の花形であるあのお二方をいっぺんに見ることができないのよね」
その後も二人の話は続いていた。
「…けど、あれだけ引く手あまただった一の姫様が中将様と結婚なさって。大将様も既に堀河の中納言様の姫君を正妻として迎えられたし。皆様、身を固められて羨ましいような残念なような心境だわ」
「本当よね。一の姫様だったら中将様と並ばれてもすごくお似合いのご夫婦でいられるけど」
あたしはそれを耳にして見かけわねと心中で付け足した。表向きはお似合いであっても義隆の態度は二人きりになると冷ややかなものだと基子姫は言っていた。周囲の人達の羨ましがる姿を見ていると複雑だ。あたしはごほんと咳払いをした。
すると、伊勢と小侍従はこちらを振り返る。
人を待たせていることにようやく気づいたらしい。小侍従は小走りで奥へと入っていった。
再び、出てきた小侍従は伊勢を介してあたしに知らせてきた。
「東の御方様。女御様がお部屋に来ていただきたいとのことです」
手をついて言ってきた。
梅壺様こと、久子姫にようやく会えるらしい。
ここまで、待たされたのだからお通しできませんといわれたらどうしようかと思っていた。
「わかりました。参ります」
すっくと立ち上がった。
襖障子を小侍従が開けて中へ通される。
あたしは深呼吸をした。
いくら、友成がいてくれても緊張はする。
それでも、足を進めてお部屋へと入ったのだった。
お部屋へ入ってみると御簾の前で座っている友成の姿があった。
側にはまだ若い女房が一人いる。
友成はその女房と楽しそうに話をしていた。
あたしはそれを見てかちんときた。
妻の前で一体、何してんのよ。
浮気でもするつもりなのか。
一言いってやろうとした時、友成が先にあたしのことに気づいたのか声をかけてきた。
「…やあ、来たんだね。こんな朝早くから呼んで悪かったよ」
苦笑しながら片手でごめんといってくる。
あたしはぶすっとした顔のまま、黙って若い女房の側に座った。
そして、睨みつけてやった。
女房はびくりと体を震わせ、そそくさと離れていった。
本当はいけないのはわかっているのだが。
友成も困惑した表情になっている。
「…どうしたんだい。機嫌が良くなさそうだけど」
「あんたこそあたしの目の前で何やってんのよ。あの若い女房と仲良さげに話なんかしちゃってさ。そんなに浮気したいの?」
小声で言ってやれば友成は驚いたように目を見開く。
けど、すぐに笑ってみせた。
「違うよ。あの若い女房は梅壺様の乳姉妹だよ。ちょっと、いろいろと梅壺様のことを聞いていたんだ。でそれに答えてもらってたってわけ」
浮気じゃない、とあっさりと返された。
「…だけど、あの女房はまんざらでもなさそうだったわよ?」
「そんなことないよ。いくら、妹の女房だからって手なんか出さない。君のことを裏切るつもりはないから」
あたしはそれをきいて顔を扇で隠した。よくまあ、人前でそんなこといえるわね。
照れのあまりうつむくしかなかった。
「…どうしたんだい香子。顔が赤いよ?」
友成は顔をのぞき込んでくる。
自分がどれだけ恥ずかしいことをさらりと言ったのか自覚がないらしい。
二人きりでいたらまだ良いんだけどね。
すると、ごほんと咳払いの音が聞こえた。
そこには、顔を同じく赤らめた小侍従が遠慮がちに部屋の隅あたりで控えていた。
「あの参議様。ここは女御様の御座所でございますので。ご夫婦の語らいは別室にてお願いしたいのですけど…」
小侍従はしどろもどろになりながらも注意をしてくる。
参議こと友成は悔しそうな顔をしている。
仕方なく、あたしは友成の代わりに答えた。
「わかりました。確かに軽はずみにするようなことではありませんね」
以後気をつけますと言い添えれば、小侍従はほっとした表情になった。
本当に人目があるというのにいちゃついている場合ではない。
しかも妹君のお部屋なんだし。
「…もう少しすれば梅壺女御様がお出ましになると思います」
「それにしては、時間が掛かり過ぎではありませんか。女御様はいかがなさったのか」
友成は不満そうに、言ってくる。
先ほど、注意されたことを怒っているらしい。
「梅壺様はその。お疲れが出たみたいで日が高くなってから起きてこられて。今は身支度をなさっています」
小侍従は歯切れの悪い応答をしてくる。友成は大きなため息をついた。
「…やはり、宣耀殿様のことで悩んでいらしたか…」
その言葉にあたしは首を傾げた。
宣耀殿様っていったら源大納言のご息女、春子姫のことだろうか。
今一つ、ぴんとこない。
「はい。今回、急にお宿下がりなさったのも宣耀殿様とその。ご寵愛を競うということに梅壺様がいやがられて。お邸に帰りたいとしきりに泣いていらしたんです。それで、東宮様にお願いをいたしましたら良いとのお返事でした」
「そうか。東宮様がお止めにならぬとはな」
端的に梅壺様と宣耀殿様の仲が悪いらしいということはわかった。
だとすると、梅壺様ー久子姫のお宿下がりは東宮様に要因があったということになるのだろうか。
あたしは小侍従からもっと話を聞きたかったけれど。
それは叶わなかった。
すぐに御簾の向こうで人の気配がしたからだ。
小侍従はあわてて御簾に近づいた。
「…参議様、それに御方様。梅壺様のお出ましです。先ほどのことはどうかご内密に…」
小声でそういわれて二人して肯いた。
あたしは御簾をまっすぐに見据えた。
友成も同じように居住まいを正した。
梅壺様はどのような方なのだろうか。
つい、頭の中で想像してしまっていた。
その後、御簾越しに人の気配がする。
あたしが扇で顔を隠していると友成は頭を下げた。
いくら、妹といったって向こうの方が身分は上なのだ。
あたしもそれにならって手を付いた。
「…兄様、わざわざお越しくださいましてありがとうございます。それとお隣の方は…」
まだ高い少女の声が聞こえてきた。
この方が梅壺女御様か。
「私の隣の女人は妻でございます。周囲では東の御方と呼ばれていますが」
友成はあくまで兄としてではなく臣下として答えている。
「まあ、兄様の奥方にあたるのですね。東の御方様というの」
「はい。世間ではそのように呼ばれております」
あたしが代わって返事をすると、梅壺様はうれしそうにはしゃいでいるようだった。
「あの、香子様とお呼びしてもよろしいですか。東の御方だとよそよそしい感じがして」
「…ええ。あたしは、それで良いですけど」
早速、実名で呼ばれることになるとはね。
あたしは少し苦笑した。
友成は真面目な顔でこちらを見てくる。二重のぱっちりとした茶色の少し薄い瞳はまっすぐあたしだけを映す。
二人してじっと見つめ合っていた。
「…あの兄様。それに東の御方。お二人ともどうされたのですか?」
遠慮がちにかけられた声で我に返る。
妹である方の前で何やってるんだか。
顔が熱くなるのが自分でもわかった。
「あ、いや。何でもありませんよ。ちょっとぼんやりとしてしまっていたようで」
友成は慌てて言った。
頬のあたりがうっすらと赤い。
「…本当に大丈夫なのですか?」
梅壺様が心配そうに聞いてくる。
友成とあたしは苦笑した。
「大丈夫ですよ。女御様がお気になさる必要はありません」
友成がきっぱりと言えば梅壺様はほうとため息をつかれた。
「ですが、兄様達がなにやら熱心に見つめ合っておいでだったので。わたくしが一人置いてけぼりにされたように感じたのです」
少し、寂しそうな言い方にあたしは思わず、手をついた。
「女御様。先ほどは本当に失礼をいたしました。あたしも場をわきまえなければなりませんね」
「いいえ。わたくしの方こそ香子様や兄様のお邪魔になってしまったようで…」
お互いに謝りあっていると友成はふいに立ち上がった。
「それではこれで失礼いたします。もうそろそろ参内しなければ。では」
あたしと梅壺様二人を置いて友成はさっさと部屋を出て行ってしまった。
それを呆気に取られて見ていたあたしは梅壺様の次の行動を予測できなかった。なんと、御簾を自身の手で巻き上げてみせたからだった。
「香子様。この部屋は人払いをしてありますから。お入りになってください」
一瞬、躊躇してしまった。
けれど、梅壺様はこちらへと何度かおっしゃってきたので仕方なく中へと入った。
扇も使わず、ゆったりと座っている可愛らしい姫君が目に入った。
顔は細面で兄の友成に似た少し薄い二重の瞳をしている。
まだ、幼さが残る顔立ちだが将来は超がつくほどの美人になる可能性はある。
二重の瞳は今の時代ではあまりよしとされない。
それでも、不思議と人を引きつけるものを持っておられる。
「…お初にお目にかかります。女御様」
あたしはあえて手をついて挨拶をした。
「こちらこそ初めまして。香子様、あなたとこうしてお話することやっと叶いましたね」
とてもうれしそうに言ってくる。
朝早くから呼び出されたのはあたしと話がしたかったからなのか。
少し、複雑ではあった。
「…けれど、身支度に随分と時間がかかっておいででしたよね」
あたしはつい、ぽろりと言ってしまっていた。
これじゃ嫌みになるじゃないの。
とにかく、訂正しようとしたら梅壺様は苦笑していた。
「それは。堀河の御方や香子様がおいでになると聞いて髪を洗ったりしていたのです。だから、時間がかかってしまって…」
なるほどとあたしは納得した。
「ああ。それで時間が掛かっていらしたのですね。御髪をお洗いになったら大変でしょう?」
以前よりも丁寧な言葉がするすると出てくる。
梅壺様はそれには肯かれた。
「……ええ。昨日のお昼に洗い終わって、まだ完全に乾いたわけではありません。おかげで頭が重くって」
確かによく見れば、髪はつやつやとしているがまだ濡れたままのようだ。
「……それはよいとして。一の姫のことなのですけど」
あたしは唐突だというのはわかっていたが強引に話を切り替えた。
すると、梅壺様はきょとんとした表情になっていた。
「一の姫といえば姉様のことですか?」
小首を傾げてきいてくる。
あたしはそれに肯いてみせた。
「……ええ。一の姫がおめでたになられたからお宿下がりをなさったと聞いたのですけど」
「あ、もしかしてご存知だったのですか。兄様からきかれたのですね?」
またこくりと肯いた。
「そうです。友成からある程度は聞きました。東宮様との御仲がよろしくないとか」
あたしがそれを言うと梅壺様は後ずさりした。
顔色も青白くなっている。
「…女御様?」
あたしは先ほどの明るい表情がなくなってしまった梅壺様に首を傾げた。
東宮様の御名を言っただけでこの変わりよう。
何かあったのだろうか。
「…東宮様は。わたくしを嫌っておいでなのです」
「女御様。もしかして、あたしいけないことを申してしまいましたか?」
慌てて聞き返すと梅壺様は頭を横に振った。
「…香子様は悪くないです。きちんと東宮様をお慰めできず、役目を果たすことのできないわたくしが悪いのです…」
あたしはその時、小侍従が言っていたことを思い出した。
『…宣耀殿様とその。ご寵愛を競うということに梅壺様がいやがられて。お邸に帰りたいとしきりに泣いていらしたんです』
そして東宮様にお願いー暇乞いをなさってすぐにそれは認められた。
体調が悪いとかご懐妊なさったとかでもなければ、後宮という場所はそう簡単に出ることは許されない。
あくまで、夫である帝か東宮様からの許可が必要なのだ。
つまり、梅壺様のお宿下がりがあっさりと決まったのはそれだけ、後宮でのお立場が弱いということになる。
あたしの考えがはずれてなければだけど。
「東宮様は恐いお方なのですか?」
あたしはなるべく優しく言った。
梅壺様はまた頭を横に振った。
「…東宮様は恐くはないです。とても、風流事がお好きで雅やかなお方です。わたくしには冷たくていらっしゃいますが」
あたしはやっと梅壺様が脅えている理由がわかった。
要は、東宮様が宣耀殿様にばかりかまけて梅壺様には辛く当たっていたのが原因なのだ。
でも、どうして友成の妹君達は結婚していてもこう相手との仲がうまくいかないのだろう。
あたしは頭が痛くなってきてしばらく考え込んでしまった。
梅壺様が脅えてしまっているのを見てあたしはふと、自分が代わりに入内していればと思った。
東宮様は会ったこともないし五つも年下のお方だ。
結婚する相手として好きになれるかというとそれはまた別問題だけど。
失礼だとはわかっていたのだけど梅壺様に近づき、基子姫にやったように肩を叩いてあげた。
その後、背中をさすってみた。
梅壺様は俯いてされるがままになっている。
「…どう言ったら良いのかわかりませんけど。女御様、東宮様にきつく当たられて辛い思いをなさっていたんですね。けど、宣耀殿様と比べる世間など放っておけばよいのです」
面白おかしく言えば、梅壺様は不思議そうにあたしを見上げてきた。
「……放っておけばよいとは……」
小さい声で問い返してくる。
「その言葉通りです。とやかくいう周囲は放っておいて無視すればいいんです。それができないとおっしゃるんだったら東宮様に直接申し上げるのです」
「…な、何をですか?」
あたしはここぞとばかりに声を張り上げてみせた。
「何故、自分の所にはいらしてくれないのですかとか。宣耀殿様と比べないでいただきたいとか。梅壺様がそういう風におっしゃればいいのです」
「そんな。恐れ多いことです。後宮では弱味を言ってはあまりよくないと女房達には注意されていましたから」
あたしはそれを聞いても引き下がらなかった。
「……じゃあ、ずっと今の状態を続けるおつもりなのですか?」
すると、女御様はあたしをきっと睨みつけてきた。
「そんなつもりはありません。東宮様に申し上げるのは気が引けますけれど。周囲の目を無視することはできます」
「そう。その意気ですよ」
あたしは何だか自分が母親になったような錯覚を覚えた。
まあ、言っていることは間違っているのだけれど。
公卿とか貴族の殿方達は噂話に女よりも目がないのだ。
梅壺様の入内する時期が早かったのも噂のもとになったのかもしれない。
「…別に、無理に無視なさらなくてもいいと思いますよ。あたしが言いたいのはお気になさらないようにということです」
「は、はい。わたくし、もう少し気をつけてみます。香子様、ありがとうございます」
梅壺様は嬉しそうにお礼を言ってくださったのであった。
梅壺様の御前を失礼しようとした。
だが、それを梅壺様ご自身が引き留めてきた。
「あ、あの。香子様。もう少しだけここにいてくださいませんか?」
あたしはそれにえっと驚いて固まってしまった。
「ですけど、あたしがいては却って失礼になるのでは…」
「もっと、いろいろとお話をしたいんです。姉様は身ごもっておられるから会うことは難しいですし」
仕方なく、あたしはもう一度だけ座った。
「わかりました。女御様のご希望に叶うかどうか、わかりませんけど。こちらにいましょう」
そうして、後宮でのグチを梅壺様はこれでもかってくらいにお話になった。
「わたくしは新参者ですけど。それでも、東宮様や主上、女房達の噂はよく聞きますよ。三代前の深草の帝は大変色好みでいらしたとか」
あたしはそれは初耳だったので興味をひかれた。
「…深草の帝とおっしゃれば、兵部卿宮様のお父上ですよね?」
「そうです。わたくしからいうと曾お祖父様ですけど。まあ、たくさんの愛人がいらしたみたいですよ」
「けど、どこでそんなお話を…」
「主上の姉宮様、女一の宮様とお母様である皇太后様です」
雲の上の方々のお名前にあたしはさらに仰天した。
けど、女一の宮様はあたしの大伯母にあたるお方。
皇太后様だって血の繋がりはないけれど。
それでも、遠縁の親戚には違いない。
「まあ、そんな大昔のことはよいとしても。香子様のお祖母様である女三の宮様のお話も聞きましたよ」
「…それはどういうことなのですか?」
あたしはすっかり話に夢中になっていた。
梅壺様もつい、先ほどまでの暗い表情はなく生き生きとした顔をしておられる。
「…女三の宮様はその。先帝のお妃であった更衣殿がご生母なのです。ですから、身分の低い母君から生まれたということで。皇太后様や他の女御方がお生みになった姫宮様から随分と冷たい扱いを受けていらしたようです」
へえとあたしは昔を想像してみた。
お祖母様にそんな過去があったとは。
「そうだったんですか。お祖母様にそんなことがあったとは……」
興味深げに肯くと梅壺様は苦笑した。
「更衣殿は気だてもよく、先帝のお妃方の中でも抜きんでてお美しい方だったそうですよ。女一宮様がおっしゃっていましたから本当だと思います。それに先帝は更衣殿を深くご寵愛なさって。家臣の方々もあまりの傾倒ぶりに忠告をなさったほどだったとか」
「…何だか、源氏の君の母君みたいな境遇の方ですね」
曾お祖母様に当たる方のお話はこれまであまり聞いたことがなかった。
あたしは先帝の曾孫にあたるわけで。
「ええ。更衣殿は入内なさったのが十八くらいだったと聞いております。それから二年ほどして、姫御子をお生みになって。先帝は更衣殿を後涼殿にお移しになって一時もお放しにならなかったそうです。けど、更衣殿はそれから三年あまりでお亡くなりになりました」
その後の先帝はひどくお悲しみになられたという。
そうして、母君を亡くした三宮様は後宮で父君である先帝の庇護の下、お育ちになった。
けれど、更衣腹ということで世間からは冷たく素知らぬ目で見られていた。
「三宮様は女の方ということもあって、母君の居所であった宣耀殿でお育ちになったんです。ちなみに、春子姫の御座所でもありますけど」
あたしはその後を引き継いだ。
「…それで、裳着の式をお受けになって臣籍降嫁なさったのでしたね」
梅壺様はこくりと肯いた。
お祖母様はお小さい頃、あまり幸せな境遇ではなかった。
けれど、お祖父様と一緒にいた時、楽しそうに話していたのを思い出した。
幸せかそうでないかはお祖母様が決めることであってあたし達のような他の人がとやかく言うことではない。
少しだけ、鼻の奥がつきんと痛くなった。
いろいろと話すうちに夕方になってしまった。
梅壺様は明るく朗らかな方で基子姫とは顔が似ていても性格は違っていた。
基子姫はおっとりしていたからよけいに感じたのかもしれない。
「……香子様。今日はお会いできてよかったと思います。しばらくは一条に留まるつもりでいますので。また、いらしてください」
にこやかにそうおっしゃったのだった。
あたしは梅壺様とまた、会う約束をした。
自分の部屋へ帰るときに先導役になっていた小侍従が感激してあたしに言ってきた。
「……姫様があんなにお笑いになったのは去年以来でしたのに。まさか、御方様が来られただけでこのようになられるとは」
とか驚いていた。
夕暮れ刻に紅と黄が混ざった空を眺めながらあたしは梅壺様がにこやかに笑う様子を思い浮かべていた。
基子姫のお産が近いし、藤壺女御様も今年の冬にはお生まれになるだろう。
近い未来のことなどを考えながら、あたしは歩き出したのだった。
小侍従と別れた後、あたしは基子姫の居所である東南の対屋に一人で帰ってきた。
ここにはお付きの女房がいないため、誰にもいわずに部屋へと戻った。がらんとした室内で、裳や唐衣を自分で脱ぐと、几帳にかけた。
これくらいの事は、後宮にいた時もやっていたから、手慣れたものである。
脇息を近くに引き寄せて、寄りかかる。
(疲れた。昨日、基子姫に会って。今日は梅壺女御様に会ったのよね……)
あたしは、ぼんやりと思い出した。
そんな時、蔀戸をほとほと、と叩く音がした。
あたしは立ち上がって、様子を見に行った。
すると、伊勢が簀子縁にいた。
「…伊勢。何で、ここにいるの?」
思わず、声を出せば、伊勢はおろおろしながら、あたしを見てきた。
「お、御方様。あの、友成様がお呼びです。何でも、お願いしたいことがあるそうでして」
「あたしにお願い?」
「ええ。梅壺様についてのことだそうです」
何かあると思いながらも、あたしは裳と唐衣を脱いだ状態で、友成のいる東北の対屋に向かった。
慌てて出たので、伊勢の止める声も聞こえないまま、東北の対屋にたどり着いた。
誰もいない中、あたしは明かりのついた部屋を探した。
イライラしながら、妻戸を開けては閉じ、御簾を上げたりした。そんなことをしていると、後を追ってきたらしい伊勢があたしに、注意してきた。
「……御方様、何をしていらっしゃるんです。友成様はこちらにはおられませんよ」
そう言って、あたしの袖を掴む。
仕方なく、ついて行くことにした。
伊勢はここから、右側の方角を歩いていった。
「伊勢は、友成の部屋を知っているのね」
呟いてみても、伊勢の答えはなかった。
小半刻ほど、歩いていくと、明かりのついた部屋にたどり着いた。
伊勢は、あたしにこちらです、と示した。御簾や几帳などが置いてあるため、見えにくいが。
殿方の使う部屋のようだった。
伊勢が手をついて、口上を述べた。
「参議様、御方様をお連れしました」
一言だけそういうと、中から、低い声で答えが返ってきた。
「…わかった。お通しするがよい」
聞き覚えのあるものだったけど、誰なのかわからなかった。 伊勢は静かに立ち上がると、黙って、その場を離れていった。
「香子なんだろう。入ってくれ」
いつもの調子で言われて、あたしはそろそろと膝立ちで近づくと、御簾を上げた。部屋に入ると、華やかな梅花に似た香のかおりが鼻を掠めた。
中では、文机に向かって、書き物をしている友成の姿があった。
「……お呼びだと聞いたので、参りました。何かご用でしょうか?」
あたしがいつもより、丁寧にいうと、友成は驚いたようにこちらを振り向いた。
「え、君、いつからそんな言葉使いになったんだ。一昨日なんて、あんたとかだったのに」
いうことがそれか。 あたしは軽く、友成を睨みつけてやった。
「…人が女房風にいって、丁寧にしただけなのに。何で、いつからなのよ」
けれど、友成はかたんと筆を置くと、こちらに座った状態でくるりと全身を回転させた。
「…急に呼び出して、悪かったよ。基子のお産は後、三月も先の話だからね。君には、無理を言って、こちらへ来てもらったけど」
そう言って苦笑する。あたしは何をいいたいのか、いまひとつわからなかったけれど。
友成は、あたしの側まで来ると、手をおもむろに握ってきた。ぎゅっと、力強くされたため、少し痛いくらいだった。
「梅壺女御様が宮中へ戻られる時に、一緒に付き添って差し上げてほしいんだ。君の父君にもちゃんといっておくから」
「…要は、妹君が心配だから、女房として宮仕えしてほしいってことなのね?」
念のために、問いかけるとあっさりと肯かれた。
「無茶なこと、いうわよね。そんなに妻であるあたしよりも、妹の梅壺様の方が大事なの」
腹が立ってきて、言い返してやったら、友成は手をぐいっと引っ張った。
いつのまにか、彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。
「…どちらも大事だよ。君のことを信用しているから、頼んでいるんだ。梅壺様はまだ十五で幼いからね。誰かが付き添ってあげないと、危なっかしくてみていられない」
小声で、そう囁いてくる。
あたしはずるい、と言いたくなった。
そんな事いわれたら、言い返したくてもできない。
「あたしは一人でも大丈夫だと言いたいんでしょう。でもね、あんたが考えているほど、あたしは強くないのよ。だから、宮中には行けない」
はっきりと言っても、友成は離してはくれなかった。
その後、友成はあたしが肯くまで、部屋へ帰してくれなかった。
放してはくれたものの、梅壺様に姉君である基子姫を同行させようと思っても、できないことを説明された。
宮腹である基子姫が宮仕えというのも、世間体が悪い。
東宮様や今上帝が彼女を気に入ってしまったら、それも厄介である。そこで、出仕の経験があるあたしが頭に浮かんだらしかった。
「…ある程度、身分があって、お話相手にもなれる人というと。君ぐらいしか、僕は知らないからね。だから、こちらに呼んだんだ」
「わかったわよ。行けばいいんでしょ、行けば」
半ば、怒ったように言うと、友成はごめんと呟いた。
「ごめんって、言ったって、簡単には許さないわよ」
そっぽを向きながら、いった。友成は笑いながら、あたしの頬を撫でる。
「…わかってるよ。じゃあ、どうしたら、許してくれる?」
悪戯をしようとする子供の表情で、尋ねてくる。
「二日に一度くらいは、様子を見にくること。それから、うちの弟同伴でね。これを約束するのであれば、許してもいいわ」
友成はそんなこと、とかいいながらも肯いてくれた。
けれど、基子姫のお産が終わってからの話になるだろうし。 あたしは、友成から離れた。
「基子姫のお産がすむまでは、ここにいるつもりよ。だから、友成。夜のことは我慢してね」
あたしは、きつめに言っておいた。
友成も目を見開いて、呆けた状態になっていた。
「…よ、夜のことって…」
顔を少し、赤らめながら、いってきた。
「だ、だから。することっていえば、決まってるじゃない」
あたしも袖で顔を隠しながら、もごもごと口にした。
それで、わかったらしい。
友成はそれにも、小さく肯いたのであった。
あたしは、自分の部屋に帰った。
夕餉を取って、半刻ほどくつろいだ後で、基子姫の居所に行ってみた。
驚いたことに、昼間会った梅壺様がいた。
「…あ、香子様。いらしてくださったんですね」
「女御様。どうして、こちらに…」
あたしがいうと、基子姫が代わりに答えてくれた。
「わたくしがお呼びしたのです。本来は、こちらから出向くべきなのですけれど。今の状態では、そうもいきませんでしたから」
微笑みながら、いってきた。あたしは、お二人の表情をみて、さらに驚いた。
基子姫も梅壺様も、昼間とは打って変わって、穏やかなものだったからだ。
「香子姉様。今日は男の方々が宿直ですから、いませんの。女三人、水入らずで話をしてみませんか?」
あたしは、それに思わず、肯いていた。
あたし達は、基子姫の居所にて、珍しい絵巻物や物語絵をみせてもらっていた。 宇津保物語や竹取物語などが主で、中には父君である兵部卿宮様が描かれた絵も混じっており、感嘆していると、基子姫は誇らしげに、教えてくれた。
「こちらは、父宮が描かれたものです。桜と琵琶の湖を題材にされたものでして。お若い頃に手遊びにされたのに、色を付けさせたとおっしゃっていました」
「…へえ。お歌や楽がお上手だとは、伺っていましたけど。絵まで嗜まれているとは。宮様って、多才な方ですね」
見とれていると、梅壺様も食い入るように、絵巻物に夢中になっておいでだった。
「ええ。風流事にかけては、父宮はとても優れておいでですよ。宗明の兄様も横笛や琴がお得意です」
「うちの弟は、琵琶が得意だけど。でも、風流事についてはからっきしで。宮様を見習ってほしいですね」
あたしは、ため息をついた。
絵巻物に夢中になっていると、基子姫はふいに、立ち上がった。
ゆっくりとした動きで、御簾の奥へと入って行った。
どうしたのだろうと思っていると、中から、見覚えのある女房が出てきた。
「…女御様、それに御方様。堀河の姫君がこちらに、おいでになりました」
あたしは、それを聞いて、絵を熱心に見ていた梅壺様と目が合った。
伝えてくれた女房は燈台の灯りで、小宰相だとわかった。
基子姫は小宰相がこちらに来たというのがわかっていたから、奥へと入ったらしい。
「姉様。堀河の御方が来られるのですか?」
問うてきた梅壺様に、基子姫は肯いた。
小宰相の先導で、静かに堀河の御方が基子姫のお部屋へやってきた。
すらりとしていて、背が高い人であった。顔立ちもとびっきりではないけれど、美人には違いない。 梅壺様や基子姫と違い、高雅で気品のある雰囲気で、細面の顔も凛とした感じだ。
下座に腰をおろすと、丁寧に手をついた。梅壺様や基子姫は、扇で顔を隠し几帳も配置されている。
「一の姫様、梅壺女御様。お初におめもじいたします」
声もたおやかな感じで、あの右大将の奥方なのだと思うと、少しどきりとした。
「…こちらこそ、初めまして。堀河の御方、よく来てくださいました。わたくしや兄達のわがままで、一条にお越しになられて。申し訳なく思っています」
基子姫がそう、答えれば、堀河の御方は苦笑した。
「いいえ。わたしのような者がこちらに、来させていただいて、恐縮いたしております」
堀河の御方はあたしと同じように、裳と唐衣を着ている。
すごくあたしよりも、丁寧な挨拶の仕方に感心しきりだった。
逆立ちしても、できないだろう。
「…堀河の御方、もし、よろしければ。お名前を教えていただけますか?」
梅壺様が緊張した様子で、問いかけてきた。
堀河の御方は手をついたままで、答えた。
「葛と、呼ばれています」
その名を聞いて、基子姫や梅壺様は互いに顔を見合わせている。
「葛姫とおっしゃるの。わたくしは、久子と申します。名で呼んでいただいても良いですよ」
にっこりと笑いながら、梅壺様は答える。
けれど、堀河の御方こと葛姫は、困り顔で首を横に振った。
「…申し訳ありませんが、それは遠慮させていただきます。身の程知らずなと、背の君に叱られてしまいます」
それもそうだな、とあたしは納得した。 だが、梅壺様は俯いて、落ち込んでしまわれた。
「女御様、私の名をお呼びくださることはよいのですが。あなた様の御名をお呼びすることは、失礼になります故」
はにかみながら、笑った葛姫はそう取りなしてみせた。
「葛姫のおっしゃる通りですよ。女御様、わたくしや頼子はまだ良いですが。香子様や葛姫とでは身分が違いますから」
きっぱりと、言う基子姫に梅壺様は仕方ないという風に、ため息をつかれた。
あたしも、葛姫と同じように下座に控えている。
ふと、横を振り向いた葛姫はこちらに気づいたらしく、微笑んでみせた。
「…あなたが香子姫ですね?」
それには、黙って肯いてみせた。
「あたしの名前、知っているのね。あの右大将が教えたのですか?」
質問にさらに、質問で返せば、葛姫の笑みは深くなった。
「ええ。存じておりますよ。あの方の幼なじみの姫のお話は昔、聞いたことがございますから」
あたしは、それを知って、葛姫を睨みつけた。
右大将があたしにとっては、遊び仲間で、幼なじみにあたった人なのはいいとしても。懐かしくも思う相手ではあるから。
腹が立つとはいかないまでも、あたしは嫌な気分になった。 目の前で、自慢げにされるとイライラする。
「香子姫、そんなにお怒りにならないでくださいな。私はあなたと年が同じくらいですし。仲良くしましょう?」
そう言って、葛姫はあたしの側に寄ってきた。
初対面の相手に、なれなれしすぎやしないか。
「…あたしは、そんなつもりないわ。あなたとは合わないと思うのだけど」
それを見ていた梅壺様が止めに入ってきた。
「お二人とも、姉様のおられる前で何をなさっておいでです。喧嘩はおやめになってください」
仕方なく、あたしは口を閉ざした。
「…お二人とも、年が同じでいらっしゃるから、何かと話しやすいのではと思ったのですけど」
そうでもなかったようですね、と基子姫も言ってきた。
葛姫って、あたしと同い年だったのか。 義姉にあたる人だから、もう少し、丁重にしなくてはいけないというのに。
決まりが悪い気持ちになって、葛姫に向き直った。
「葛姫って、あたしと同じ年だったのね。さっきは言い過ぎました。ごめんなさい」
すると、葛姫は驚いたような表情になった。
「いいえ。そんなことありませんよ。私は気にしていませんから。こちらこそ、ごめんなさい」
そういって、頭を下げてきた。
あたしは、基子姫や梅壺様の視線を受けながら、葛姫に頭を上げてくれるようにいった。
葛姫と仲直りをしていると、小宰相が忙しそうにしている。広げてあった絵巻物や書物を片づけていた。あたしも同じようにしてみた。
他四名は驚いていたけれど、気にせずにやっていく。
「…東の御方様。それは私どもがやりますから。お部屋へお戻りくださってもよろしいですよ」
慌てて、声をかけてくる。けれど、あたしは首を振った。
「良いのよ。あたしだって、女房として働いたこともあったし。こういうことは、慣れてるから」
「ですけれど。お客人に手伝わせたとなったら、宮様に私どもが叱られます」
小宰相は鬼気迫るといった感じで言ってきた。
あたしは二つ、三つの書物や絵巻物を抱えた状態で、小宰相のいう事を聞いた。 とりあえず、しまい込む唐櫃の場所を教えてもらい、その中に丁寧に入れた。
「…内緒にしておいてくれる?」
あたしが頼めば、基子姫達、四人組で笑っていた。




