二章 柳の揺れる日向
牛車の中で、あたしは藤壷女御様や東宮様の事などについて考えていた。
兵部卿宮家には姫が三人おられる。
その内、一の姫こと基子姫は義隆と結婚した。
二の姫ー確か、久子姫だったか。この方は東宮妃として入内された、お年は十五歳で東宮様とは同い年だ。
ちなみに、添い臥しの任に任命され、一番最初に後宮入りした源大納言家の姫が宣燿殿女御様だった。
実名は春子姫らしい。
三の姫は頼子姫とかおっしゃって、まだ裳着の式を迎えていない。十二歳くらいにはなられているそうだ。
あたしはお会いしたことがないけれど。基子姫は穏やかで思慮深く、しっかりとした性格らしい。
夫である友成から聞いた話によるとだから、実際はもう少し違うんだろうけど。考えにふけっていると牛車が急に止まった。
がたんと音がする。
「…お方様。東三条に着きました」
外から、騎馬で付き添っていた従者が声をかけてきた。
「わかった。今、下りるから」
あたしは前簾を上げて、自分で下りようとした。
踏み台の上に従者が草履を置いた。
素早い動きに少しだけ驚く。
すぐに履いて、扇で顔を隠しながら階へと向かう。
「…やっと、帰ってきたね。待ちくたびれた」
簀子縁で友成が腕を組んで待っていた。
「今の時刻までどこへ行っていたんだ。僕は妹の様子を見てきてから急いでこちらに来たというのに。君はもう既に北の方なんだから。こんな軽率なことは許されないはずだよ?」
じろりと睨みつけてくる。普段は穏やかな人なだけに、こうやって本気で怒らせると恐いと思った。
「軽率って。あたしはいとこの姉様のお見舞いに行っていたのよ。ご体調が良くないと聞いたから」
そして、二条邸に女御様が宿下がりー実家へと帰ってきておられたから、様子を見に行っていたのだと説明した。
だけど、よけいに友成の機嫌は悪くなった。
「…じゃあ、なおさら、僕にだけでもどうして知らせてくれないかな。言づてもなしで二条へ向かうとは。夫である以上、それくらいは知っておいたって良いはずだろう」
また、文句を言われる。
その後も友成はあたしの部屋へ戻るまでにいろいろと説教をしてきた。
仕方なく、女御様と明子の叔母上に会ったりしたのだと素直にいってもなかなか許してはくれなかった。
部屋に入ると鈴鹿や荻乃、小夜の三人組がいた。
「友成様。お出迎えできなかったことをお許しくださいませ。私共もお方様のお出かけに混乱しておりまして」
鈴鹿が丁寧に平伏して謝罪を述べる。
すると、友成は憮然とした顔で鈴鹿に対しても叱りつけてきた。
「だったら、何でせめて鈴鹿だけでもついていかなかったんだ。お前達は一体、何をしていた!」
怒鳴り散らすのを聞いて鈴鹿はびくりと体を震わせた。
「…そこまで言わなくてもいいじゃない。頭中将様だって一緒だったし。あたしが頼んだのよ。連れて行ってほしいって」
頭中将こと守時兄様の名を出せば、友成はよけいにしかめっ面になって黙ってしまった。それを見ていた鈴鹿も平伏しながらも戸惑いの表情になっている。
部屋の隅に控えていた小夜があたし達にそろりと近寄ってきた。
小声で尋ねてくる。
「…あの、お方様。わたくし達、失礼してもよろしいでしょうか。勝手な事を申し上げるのは心苦しいのですけど」
あたしはこくりと頷いた。
良いわよと言えば、鈴鹿や荻乃にも聞こえるように口にした。
「あんた達、皆、退がっていいわよ。少し二人で話したいことがあるから」
すると、小夜を先頭に三人は部屋を出て行った。
「友成、勝手に出かけた事は謝るわ。でも、女御様から直筆のお文が届いてね。ご懐妊されて悪阻がひどかったそうで。お宿下がりなさるほどだっていうから、様子を見に行ったの。叔母上にもお会いしていろいろと聞かせてもらったし」
少し、神妙な顔でいえば友成はいきなり、あたしの手を握ってきた。
「頭中将殿はよくって夫である僕はだめなのかい?」
「そんなことはないわ。守時兄様がお使いとして来ていたから。一緒に付いてきてもらったのよ」
本当に偶然だったのだといえば、友成は苦笑いした。
「…こっちこそ怒って悪かったよ。実は藤壺様と聞いて、思い出した事があるんだけど」
あたしはそれに首を傾げた。
「思い出した事って何なの?」
そう問いかければ、友成はさらに苦笑いを深める。
「香子は入内した妹の事を知っているだろう?」
質問に質問で返されてしまった。よけいに訳がわからない。けど、友成の入内した妹といえば、久子姫の事だろうか。
「もしかして、東宮妃になられた二の姫の事?」
そう返事をしたら、友成はにっこりと笑ってみせた。
「そうだよ。東宮様の二番目の妃になった梅壺女御様の事だ」
あたしはなるほどと合点がいった。
「…妹の女御はつい、一月ほど前に入内したんだけどね。年が同い年なのは良いんだ。東宮様とは仲がうまくいっていなくて」
「どうして、久子姫との仲が悪いってわかるの。まだ、後宮へ入られて日が浅いのでしょう。もしかしたら、妹君は東宮様とどうしたらいいのかわからないんじゃないの?」
あたしが単刀直入にいえば、友成は握っている手の力を強めた。
「…宣耀殿女御、源大納言のご息女である春子姫がおられるから。この方が先に入内されて東宮様と趣味が合うからかな」
それを耳にして驚く。先に入内なさった方の所に入り浸って、久子姫が放っておかれてるということか。
「趣味が合うって。東宮様はどんなことがお得意でいらっしゃるの?」
「…囲碁だよ。それが趣味であられる」
あたしは友成の手から自分の手を離す。背筋をしゃんと伸ばしてまっすぐに彼を見据えた。
つまり、東宮様と宣耀殿女御こと春子姫は囲碁がお互いに得意でそれで仲が良いということらしかった。
「…東宮様の元服の儀式の折に主上がこう仰せになったんだ。君が妹の基子に添い臥しの任についてもらいたいってね。いとこである僕や侍従達だけには打ち明けておられたみたいで」
友成は大層、驚いたという。
何といっても主な大臣家には年頃の姫がいない。
残るは宮家か納言家くらいしかない。
母君の身分等を考えたとしても、兵部卿宮家の三人の姫達と大納言に任命された四人の方々の姫という事になる。東宮様のご生母である麗景殿女御様もできるなら、藤大納言の姫か源大納言の姫辺りがよいとおっしゃっていたらしい。
「それを偶然にも侍従達を通じて、頭中将殿が話を聞かれてね。右大臣様に知らせたんだ。早速、藤壺様に東宮妃としての入内のためにも後宮へ来させたいとね。そう頼みこまれたとか。三年前にあった事だけどね」
それを耳にした時、友成はかなり焦ったという。
「けど、基子や君には相手ー僕らがいたし。他の宮家の方達もだめとなると。他の三人の大納言の姫達しか残らなかった。添い臥しの大任をしたのが源大納言の姫だったんだ」
そして、友成は自嘲の笑みを浮かべた。
「基子がだめだったんなら久子をとなったんだ。けど、添い臥しの任はあの子だと無理だった。年が東宮様と同じだったからね」
それにと友成は続けた。
「久子は姉である基子の身代わりにさせられたんだ。それを提案したのは今内大臣様。あの子の母方のお祖父様だよ」
あたしはそれには唖然とするしかなかった。
友成の表情は少し、悲しそうなのと嘲りが入り混じったものだった。
東宮様の話を聞いた後、友成は気を取り直すように笑った。
「まあ、添い臥しの任を果たした方が妃として後宮へ入るというのはよくある話だから。君が気にする事ないよ」
そう言って、あたしの手を離した。
「…別に気にしていないわ。ただ、久子姫は嫌々、入らされたわけだから。お気の毒とは思うけれど」
友成は肩をすくめながら首を横に振った。
「いや、久子は返って後宮へ入ると聞かされた後は意気込んでいたよ」
あたしは驚いて開いた口が塞がらなかった。まだ、十五かそこらの年なのに。
もう、女御としての自覚ができているのか。
「…何か、すごい姫君ね。あたしだったら真似できないわ」
「やっぱり、姉の基子が入内できなかったから、自分の責任は大きいと思ったんだろうね。まあ、小さい頃から気が強くてお転婆な所があったけど」
くすりと笑ってあたしを見てきた。
「どうしたの。じっと見て。あたしの顔に何かついてるの?」
「いや、ついてないよ。ただ、ちょっと思い出した事があってね」
そうして、また笑顔を見せる。
「思い出した事って何なの?」
ずばりと尋ねてみれば、友成は少し考えた後で答える。
「実は基子の事が心配だからって久子、いや。梅壺女御様がお宿下がりする事になってね。それでもしよかったら、君にも一条宮に来てもらいたいと思ったんだ」
あたしは一瞬、固まった。
「…一条宮に行くって。そんなことしたら、うちの父上や兵部卿宮様が黙っていないんじゃないの?」
「そりゃ、普通はね。けど、父宮にそのことを申し上げたら了承してくださったよ。兄上の北の方に当たられる堀河の御方も来られるしね」
友成はからからと笑ってみせた。
その後、友成は堀河の御方の事をいろいろと教えてくれた。夜はとっぷりと暮れていき、東三条邸に泊まっていく事になった。けど、あたしはあまりその気にはなれず、床に入ってそのまま、寝たふりをした。
友成は気づいていたようで添い寝だけに留めてくれた。
「…一条宮の事だけど。基子姫に会えるんだったら、行ってもいいわよ」
小声で答えれば、友成は横向きに寝た状態で抱きしめてきた。
「……わかった。一条宮の基子や梅壺様には知らせておくよ」
耳元でささやかれて顔が熱くなる。たぶん、真っ赤になっているだろう。
いつまで経っても耳に低い声で囁かれたりするのは慣れない。
「あの。話も終わったし。そろそろ、眠りたいんだけど」
慌てていっても、友成は知らんふりをしてくる。よけいに、抱きしめる力が強くなった。
その後、まんじりとしないままであたしは一晩を過ごした。
翌日、朝早くに目が覚めた。側で寝ている友成の意外に端正な顔を見て、どきりとする。
体が疲れていて、あたしはけだるさを引きずっていた。それでも、妻ではあるから女房の代わりに彼を起こしてみる。
「…友成。もう明け方よ。起きて」
すると、ううんと唸りながらもごろんと寝返りを打って起きてはくれない。
仕方なく、あたしは友成に近づくと大声で怒鳴った。
「起きなさいよ。鈴鹿が来ちゃうでしょ!」
途端に友成は目をぱちりと開けた。
そして、迷惑そうに耳を塞ぐ。
「…いきなり、怒鳴らないでくれよ。耳がキンキンする」
「起きないあんたが悪いんでしょ!」
あたしはそう言いながらも胸元を直したりしながら、いつ、女房が来てもいいようにする。
友成も自分で身支度をしている。それを手伝ってあげた。
腰紐を結んだり、襟元を整えたりした。身支度ができた時に鈴鹿がやってきた。声がしたのでそちらを見てみると、角盥を持って立っている鈴鹿の姿があった。あたしは床から離れると鈴鹿に近づいた。
「…朝早くから申し訳ありませんが。顔をお洗いになってください。参議様もどうぞ」
あたしは先に友成に顔を洗ったりするように言った。
三半刻ほどして、友成はまだ夜が明けて空が白み始める中、帰って行った。あたしはそれを見送りながら、早速、自分の身支度をするのであった。
小夜もやってきて、髪を梳いている時にあたしは考え込んでいた。いつ辺りにしようか、決めかねていた。
なるべく、早めに一条宮に行った方がいいだろう。
昼近くになって弟が東三条邸へ帰ってきた。あたしはこれを好機と捉えた。
あの子に友成への文を持って行ってもらおうと考えた。
鈴鹿にすぐに来るように言いつけておいた。
「…義隆をここへ呼んで。用があるからと言えば、来るはずだから」
「はあ、わかりました」
鈴鹿は小走り気味で義隆のいる対屋に行った。
あたしは待っている間に東宮様と久子姫の事を思い出していた。仲が良くないという二人を何とかできないものか。
久子姫に付いて後宮へ行くのも良いかもしれない。東宮様にもお会いして説得をすれば、少しはお互いに歩み寄れると思うのだけど。
だが、見込みがなさそうなのに気づいて、ため息をついたのだった。
しばらく待っていたら、弟の義隆がやってきた。
慌てて来たらしく息を切らせてぜいぜいと言いながら御簾の前まで近づいてきた。
「…姉上。用事があるからとのことで来たんだけど。もしかして、体調でも悪くなったの?」
まさか、姉上までという義隆にあたしは笑ってしまった。
「違うわよ。あたしはすこぶる元気よ。ただ、友成に文を書くから基子姫の所へ行くついでに届けてほしいの」
すると、力が抜けたのかへたり込んでしまった。顔が良いだけにその様は格好悪いことこの上なかった。男のくせして情けない。
「…ほら、早く立って。すぐに文を書くから。あんたはそこで待っていてちょうだい」
あたしは言った通りに文の用意を小夜にいうと奥の間に向かった。短く用件だけを書いて細かく折り畳んだ。御簾から出て、義隆に直接手渡した。
彼はそれを見て驚いた顔になった。けど、すくに気がついたようで文を手にしっかりと握ると立ち上がった。
「わかった。友成に届けてくるよ。姉上のことだからとんでもないことなんだろうけど」
あたしはそれを聞いて睨み付けてやった。
「そんなに減らず口を叩けるんだったらさっさとしたらどうなの。基子姫の様子を見てくるんでしょ?」
「…はいはい。行けば良いんだろう、行けば」
義隆は仕方ないといった様子で部屋を出ていった。
それから一刻ほど経って友成から返事が来た。義隆の従者が使いになっていた。内容は簡単に書かれていた。
〈実をいうと、妹たちに君が一条宮に来るということを話したんだ。そしたら、梅壷様がぜひとも会いたいと言っていた。なので、夕方になったら迎えに行くから。待っていてほしい〉
要はすぐに来いということらしい。あたしは早速、裳唐衣の装束を身につけて夕刻まで待っていた。夕刻も近くなった頃に鈴鹿と萩乃が部屋にやってきた。
「お方様。一条宮に行かれるのですね」
神妙な顔つきで声をかけてきた。結婚して二年にもなると側仕えの女房たちからあたしはお方様と呼ばれるようになっていた。
「ええ、行くつもりよ。夫の実家に嫁が行くのは非常識だってわかってるけど」
苦笑しながら言ってみる。荻乃も心配そうな表情でこちらを見てきた。
「…友成様も何をお考えになっているのでしょう。北の方になられた姫様をご自分の実家にお呼び寄せになられるなど…」
低い声で鈴鹿は文句を言う。あたしはただ、肩を竦めた。
「それはわからないわね。本人に聞いてみないと」
ですがといいかけた鈴鹿にあたしはぴしゃんと撥ね付けた。
「…せっかく、あの堅物の友成が提案してきたことなのに。あんたまで不平を言うつもり?」
しかめっ面で言えば、鈴鹿は黙った。
しばらくして夕刻になった。向こうの渡殿の辺りが騒がしくなったと思ったら友成が薄い二藍の直衣を身に纏って部屋に現れた。懐かしい侍従に似た薫衣香とは違い、梅花を焚き染めているようだった。普段よりもめかし込んでいるため、はっとさせられる。
「約束通り、迎えに来たよ。柳の重ねか。今の季節には合うね」
微笑みながら言ってきたのであたしも負けじと笑った。
「そうね。紅梅の色でもよかったのだけど。あたしもそう若くないから、落ち着いた色合いの方が失礼にならないんじゃないかと思ったの」
そうかとだけ返してくる。少しの間、お互いの衣装や香について批評をしあう。部屋を出て簀子縁で歩きながら、車宿りを目指した。友成はゆっくりとあたしに歩調を合わせてくれる。こういうさりげなく気を使ってくれる所が良い所ではあった。
「後もう少しで牛車にたどり着くよ」
こくりと頷いた。本当に牛車までたどり着くと友成が先に乗る。あたしも続いて乗ろうとした。けど、袴の裾が長くて階を下りにくい。仕方なく、裾を持ち上げて中へ入ろうとする。
「君、そんな格好で乗るつもりなの。僕が手伝うよ」
心配そうに見ていた友成が声をかけてきた。
「…だって、本当に歩きにくいのよ。張袴ってこれだから嫌だわ」
ため息をつく。友成はすぐに出てきてあたしの手を握る。ぐいっと引っ張られてあたしは階を慎重に下りた。
牛車の中へは自力で入る。友成も続けて入って前簾が下ろされた。友成は疲れたような表情になっていた。
「…さっきはありがとう。正装なんてするもんじゃないわね」
「けど、梅壷様にお会いする以上は仕方がないんじゃないかな。あちらの方が身分は上だし」
「そうよね。まさか、梅壷様までが承諾してくれるとは思わなかった」
友成は確かにと肯いた。
その後、友成はあたしにあることを頼んできた。
「…もし、よかったら梅壷様の話相手として一条宮にいてもらえないかな?」
いきなりの事だったのであたしはつい、聞き返していた。
「いつまでいればいいの?」
友成は困ったように笑うと答えた。
「そうだな。妹の基子の子供が無事に生まれるまでかな。その間は基子のいる北の対屋にいてもらうことになるけど」
「て、ちょっと待って。そんなに長い間いなくてはいけないの?」
あたしは友成の袖を掴んでいた。
「君にも見届けてほしいんだよ。本来は母親が準備をするものなんだけど。一条宮には家政を取り仕切る北の方がいない。つまり、お産の時には女親の代わりに付き添ってくれる人がいた方が良いと思ったからね」
「だから、あたしに一条宮にいてほしいというわけね。基子姫の対屋を使うということはもう決まってしまっているの?」
すると、友成はにっと笑った。
「そうだよ。つい数日前にね」
あたしはこの時ばかりは思いっきり承諾した自分を殴りたくなった。憂鬱な気分で友成の袖を放した。
その時にがたんと音がして牛車が停まった。
「宰相さま。一条宮に着きました」
従者の声がして前簾を上げてみれば、すでに見慣れない邸が薄闇の中に浮かび上がっていた。あたしは懐から扇を取り出した。それで顔を隠す。
牛車から出ると友成よりも先に下りる。履き物が用意されていてあたしはそれをはくと階へと歩いていった。
階を上がる時に裳の裾と他の衣を両手で持つ。そのまま、ゆっくりと登っていった。簀子縁まで上がりきると床に下ろした。友成は呆れたようにそれを見ていた。
「扇を持ちながら器用なものだね」
あたしは無視して歩き出した。すると、友成が追い付いてくる。こちらだと女房の代わりに案内をしてきた。
「こちらに梅壷様のおられる西の対屋がある。基子は東南の対屋にいてね。君には東南の一室に入ってもらうから」
てきぱきと説明をする。あたしは頷くしかなかった。友成は東北の対屋に行くといって歩き出した。
「え。ちょっと待って。あんたも一緒に行かないの?」
とっさに尋ねていた。友成はこちらを振り向いた。
「行かないよ。東南は男が立ち入り禁止になっているから。その代わりに梅壷様や堀河の御方は入れるんだ」
「わかったわ。基子姫に先に会わせてもらうから」
そうすると良いと友成は言った。あたしは東南の対屋に行きたくても場所がわからない。仕方なく、友成付きの女房に来てもらった。名を安房といい、白髪が出てき始めているいい年のお婆ちゃんだった。けれどもさすがに宮家で長年務めを続けてきただけあって物腰が優美だった。
「若君の北の方様ですね。一の姫様の御許へご案内いたします」
意外と若い声に驚かされながらもあたしは安房に付いていった。しばらくすると、真っ白な正装を纏った女房達の姿がぽつぽつと見えてきた。
下ろされている御簾越しに白い几帳や壁代が透けて見える。すでに慣れた光景につかの間、二条邸の藤壷様のお部屋の様子を思い出していた。
「北の方様。こちらが一の姫様の使われている対屋です。では、わたくしはこれで……」
安房はあたしを置いて退がっていく。読経の声と護摩焚きの煙が出ているのが余計に仰々しい雰囲気を醸し出していた。
中へ入ろうとしたらすぐに一人の女房が気づいたらしく引き止められた。
「そなたは何者か。新参の者なのですか?」
怪訝そうな表情でこちらを窺ってくる。あたしは仕方なく自分の名を言う。
「…私は東三条の者。こちらの参議様の縁にあたります」
「参議様というと?」
ついため息をつきたくなった。女房はむっとした顔になっている。
「私の背の君ですけど。それが何か?」
「背の君だなどと。嘘をつくつもりなら検非違使を呼びますよ?」
あたしはその言葉にかちんときた。
「あたしの本来の名は香子よ。これでも参議になっている友成の北の方なんだけどね」
睨みつけながら言ってやると女房は唖然としていた。
「…香子姫とおっしゃるのですか。もしや、友成様の北の方というのは本当なのですか」
「本当よ。友成から頼まれて一の姫のご様子を見に来たの。悪いけど会わせてもらえない?」
地を出して簡略に伝えれば、女房はとんでもないと首を横に振った。
「いくら兄君の奥方様とはいえ、姫様はお加減が悪くていらっしゃるのです。無理だと思います」
仕方なくあたしは簀子縁に出ようとした。すると、女房はどうしたのか後を追いかけてくる。
「…あのわたくし。まだ新参者で姫様のお側にいる乳姉妹の小宰相さんだったら。どうにかできると思うのです」
あたしは先ほどとの態度の違いに戸惑う。
「あんたは一の姫のお付きの者なんでしょう?」
「ええ。けれど姫様は自分の信頼できる女房ばかりをお集めになって。だから、わたくしではできないのです」
あたしはすぐに言った。
「だったらその小宰相を呼んで。あたしの名前を出せば来てくれるかもしれないわね」
女房は慌てて奥へと入っていく。女房はしばらくして小宰相を本当に呼んできてくれた。
「あの、香子様。小宰相さんを連れてきました」
息を切らせながら女房はあたしにそう言ってきた。早速、あたしの名を呼んでくる。
「伊勢さんが言うから参りましたけど。何故、友成様の北の方様がこちらに?」
小宰相は不思議そうな表情で問いかけてきた。あたしは友成に基子姫付きの女房達のまとめ役兼お産の付き添いを頼まれた事について説明してみせる。伊勢と呼ばれた女房と小宰相は驚いたように互いに顔を見合わせた。
「というわけで。一の姫に会わせてくれる?」
唐突に頼めば、小宰相は渋々ながら頷いてくれた。
「こちらでございます」
小宰相の案内で夕暮れ時の中で進んでいく。いかにも、安房とは違った意味で冷静で落ち着いた雰囲気を持っている。年は三十を少し過ぎたくらいか。
しばらく黙って歩いていると白一色に統一された部屋に通された。
「姫様。東の御方がおいでになっています」
短く告げると向こうの御簾から人の身動ぐ気配がした。
「東の御方が?」
「はい。兄君の北の方様にございます。姫様にお会いになりたいそうでして」
小宰相は丁寧に手をつきながらもそう言った。
すると、基子姫らしき人は驚いたようだった。
「そう。今、こちらにいらしているのね?」
「はい。隣におられます」
小宰相が頷くと基子姫は側に控えていた女房達にあたし達二人を残して退がるように言った。皆がいなくなると御簾の中から人が出てくる。
あたしは普段着である単衣と袿を二、三枚重ねた格好から見て主にあたる人だと判断した。重ね着していても大きく膨らんだお腹で基子姫だともわかる。
「あなたが東の御方様ですか?」
ゆるりと言われたのだが。あたしは基子姫の顔を見て答えられなかった。
目元が似ているくらいで童顔である兄の友成よりも大人っぽい方だったからだ。藤壷様のような超がつくほどの美しい方でもある。
まあ、藤壷様みたいに明るく愛らしいという感じではないが。高雅で奥ゆかしく気品に満ちた美貌といってよい。
黒々とした髪に白い肌。切れ長で大きい瞳も涼やかで見とれてしまう。
「あの。東の御方様?」
基子姫の声ではっと我に返った。それにしたって義隆もやるわね。こんな絶世の美女といってもよい姫を奥さんにしたのだもの。
あたしは歓心しながらも座って頭を下げた。
「お初にお目にかかります。香子と申します」
すると、基子姫はあたしの目の前までゆっくりと歩いてきた。そして膝立ちをした状態でこう言ってきた。
「参議の兄様からはあなたのお話をよく聞いております。とても明るくて活発な方だと。わたくしにとっては義理の姉に当たるのですから。頭をお上げください」
そう言った基子姫を見やれば微笑んでいた。笑うと愛らしさが加わって可憐なという言葉がふさわしいか。
「……一の姫。本当に良いのですか?」
あたしが問いかければ、基子姫はええと頷いた。
「実を言いますと香子様には一度お会いしたかったのです。こんな時でなければ、嵐山の別荘でという計画だったのですけど」
「へえそうだったの。あたしに会いたいと思ったのは何で……」
「わたくし、幼い頃に母宮から大納言家の姫と右大臣家の姫は自分のいとこに当たる方々だから一度は会って仲良くしても良いのではと言われておりました。父宮はあなたにとっては大叔父に当たりますし」
それを聞いてあたしは納得した。基子姫の母君はいとこにあたるし兵部卿宮様は母方の大叔父だ。
「つまりは遠縁の親戚にあたるから仲良くしたいって事なの?」
「いえ。それだけではありません。香子様は兄様の幼なじみに当たられるのでしょう?」
「そうだけど」
すると、退がったはずの小宰相があたしの近くにいた。
「…姫様。長い間お話になりますとお体に障ります。御座を用意いたしますので」
基子姫は仕方ないといった表情で立ち上がった。大きなお腹をしているからちょっと動くだけで大変そうだった。
あたしも立ち上がると奥へと入った。小宰相が急いで用意した御座にゆったりと基子姫は落ち着く。
「少し中腰になっただけなのに腰や足が疲れます。最近は歩いたりするのも億劫になりがちで」
苦笑しながら言う。基子姫は辛いと口では言いながらも顔は穏やかだ。大きいお腹を片手でさすりながら笑っている。
「香子様も兄様と結婚なさって二年が経っているのでしょう?」
目線はお腹にやりながら質問をしてきた。
「ええ。そうよ」
頷くと基子姫は顔を上げてこちらを見据えてくる。
「わたくし、宗明の兄様や友成の兄様達が婚姻なさってお邸を出て行かれてしまうのが寂しくて。だから、義隆様に頼んで兄様達のお相手の方を呼んでと申したのです。そうしたら兄様達がまた戻ってきてくれると思いまして」
基子姫は苦笑してみせた。
「けど、父宮様が反対なさったでしょうに。それでもあたしや堀河の御方に会いたいと思ったの?」
「ええ。わたくしに子ができれば、兄様達はこちらにまた戻ってきます。だから、義隆様に頼む事ができたのです」
あたしはそれを聞いて少しだがかちんときた。
「…要はあたし達をダシにして兄君方を一条宮に呼び寄せようと考えたってわけね。基子姫、あなたは一体何をしたかったの?」
「ダシってそんな。ただ、わたくしは妹の久子も入内をしてしまって。一人きりになるのが嫌だったのです。義隆様もお務めが忙しいからいつも一緒というわけではありませんし」
その後、基子姫は義隆の態度が冷たいとか子を身ごもってからは頼りにできる母君もいないから心細かったのだと話してきた。最後には涙ぐむ彼女を見てあたしは基子姫に近づいて小声で囁いた。
「さっきは悪かったわね。あなたも頼りにできる人がいなくて辛かったのでしょう。だから、あたしや右大将の北の方をこちらへ呼ぶって事を思い付いたのね」
「香子の姉様。こちらへ呼び寄せるのは非常識極まりないとはわかっていたのです。けど、二の宮の母上はもういらっしゃらないし。兄様達は反対をなさいましたけれど」
あたしは基子姫の肩をさすってあげた。基子姫が落ち着くのを見計らって側を離れる。
あたしは元いた所に座るとふうと息をついた。久方ぶりに正装をしたから肩や腰の辺りが凝ってしようがない。
「…姉様。わたくしのお話を聞いてくださってありがとうございました。もしよろしければ、妹達とも会っていってください。頼子が東の御方や堀河の御方がおいでになるというので楽しみにしていましたから」
「ええ。あなたが言うように梅壷様や頼子姫にも会ってくるわ。じゃあ、また何かあったら呼んでちょうだい」
「わかりました。兄様にもわたくしが礼を言っていたとお伝えください」
それに笑って頷くと基子姫は側に控えていた小宰相を呼んだ。小宰相はあたしを簀子縁まで連れてくると振り返ってくる。
「香子様。いえ、東の御方様。今度こちらへ来られる時は必ず、安房さんでもよいですから。先触れを寄越していただきたいものですね。いきなり押し掛けてくるのは姫様に対して失礼です」
怖い顔で言ってくる。あたしはそれにわかったと頷いた。小宰相は東南の対屋の客室へと案内してくれた。
「こちらが使っていただくお部屋になります。友成様付きの女房や一の姫様の女房などが御方様のお世話をする事になると思います」
てきぱきと説明してくる。鈴鹿や荻乃達に見習わせたいほどの有能さだった。
「わかった。ここがあたし用のお部屋ね。東三条から女房を呼ぶのは駄目なの?」
「申し訳ありませんがそれはお控えください。兵部卿宮様が堀河の御方様達を一条にお招きする条件としてお付きの女房は呼んではならぬと仰せで」
「そう。じゃあ、こちらの女房達があたしの身の回りの事をしてくれるってわけね」
小宰相は顔を上げると少しいたたまれない表情を浮かべた。一通りの説明を終えると小宰相は退出していった。それを見送ってあたしは部屋へ入った。妻戸を閉めると今まで着ていた唐衣を脱いだ。
几帳に引っかけると用意されていた御座に腰を下ろした。裳は着けたままの状態で脇息に寄りかかる。
(ああ疲れた。友成はこちらには来れないと言ってたし)とか思っていた。
一人きりで夜に輝く月を眺めていた。




