第9話 その手を取る理由
審査が終わった翌週、最初の打合せを済ませたオリヴィアは、宿舎への道を歩いていた。
西の空はすでに濃い茜色に染まり、王都の街並みに長い影を落としている。
その横には、黒い外套を翻したフェリクスが、彼女の歩幅に合わせるようにゆっくりと並んで歩いていた。
「フェリクス。審査の後に誘ってくれたお話だけれど」
オリヴィアは前を向いたまま尋ねた。
「今週末のお誘い、覚えているわ。どちらへ行くの?」
「庭園や書店を考えています。先生の行きたいところも、伺いたいのですが。……私が個人的に、先生と行きたい場所です」
以前の彼なら、机の修繕だとか、教材を探すためだとか、何かを付け足したかもしれない。
今は、彼女の返事を待っている。
「もちろん、実証研修が本格的に始まって、先生がお疲れなら次の機会にします。……無理は、させたくありませんから」
断られることを恐れながらも、彼女の都合を最優先しようとする不器用な誠実さ。
「……今週末なら、予定は空いているわ」
「本当ですか? でしたら、ぜひ」
フェリクスの顔がパッと明るくなるのを見て、オリヴィアは小さく息を吐いた。なんだか、大きな犬の尻尾が千切れんばかりに振られている幻覚が見えた気がした。
二人は公園の脇を抜ける、少し暗くなりかけた石畳の道に差し掛かった。
王都の中心部とはいえ、この辺りは古い馬車の轍が深く残っており、足元が少し悪くなっている。特に、公園の入り口付近には石のタイルが剥がれた大きな段差があった。
フェリクスが自然な動作で先にその段差を降りる。そして、振り返ってオリヴィアに向けて、スッと右手を差し出した。
「お足元、お気をつけください」
それは、貴族の男性が女性をエスコートする、ごく当たり前の振る舞いだった。
だが、オリヴィアは一瞬だけ躊躇した。彼とは十年前、手を引いて歩くような年端のいかない子供と大人の関係ではなかったし、かといって、こういう扱いを受けるような対等な男女でもなかったからだ。
しかし、ここで変に意識して断るのも不自然だ。
「……ありがとう」
オリヴィアは小さく礼を言い、彼の手の上に自分の手を重ねた。
軍用の革手袋を外した彼の手は、剣や魔法の訓練で鍛え上げられ、少し硬いタコがあった。教え子の少年が持っていた華奢な手ではなく、厚みと熱を持った、大人の男性の大きな手。
その感触に、オリヴィアの心臓がトクンと小さく跳ねた。
段差を無事に降りる。本来なら、危険がなくなった時点ですぐに手を離すべきだった。だが、フェリクスの手の温もりが、どういうわけかオリヴィアの指先を縛り付けているように感じられ、自分からパッと離すことができなかった。
フェリクスもまた、無言だった。彼は決してオリヴィアの手を強く握りしめることはなく、ただ彼女が自分から離れるのを待つように、優しく包み込んでいるだけだ。
ほんの数秒。けれど、ひどく長く感じられる無言の時間。
「……もう、大丈夫よ」
オリヴィアが少しだけ声を上ずらせてそっと指を引くと、フェリクスの手は名残惜しそうに、だが引き留めることなく離れていった。
「失礼しました」
少しだけ伏し目がちに呟いた彼の耳元が、夕暮れの光のせいではなく、わずかに赤くなっているように見えた。
静かな動揺を隠すように、オリヴィアは誤魔化すように早足になった。
フェリクスはそれ以上そのことには触れず、並んで歩きながら別の話題を口にした。
「先生は最近、どんな本を読まれているのですか?」
「本?」
「ええ。村でお暮らしの間、どのような物語がお好きだったのかと。……仕事や魔法のことではなく、先生ご自身の好みが知りたいのです」
自分の読んでいる物語を話すのは、授業の報告をするより、なぜか気恥ずかしかった。
「……最近は、少し古い建国記の異本を読んでいたわ。あとは、ただの恋愛の喜劇も」
「喜劇ですか。先生は、静かな教訓本ばかり読まれているのかと」
「ふふ、そんな堅苦しい人間だと思われていたのね」
オリヴィアが村で読んでいた本のあらすじを少しだけ話すと、フェリクスは本当に楽しそうに、熱心に耳を傾けた。
やがて、オリヴィアが滞在する女性用宿舎の入り口が見えてきた。
フェリクスは立ち止まり、名残惜しそうな視線を向けながらも、それ以上近づこうとはしなかった。
「明日も準備がおありでしょう。今日は、この辺りで」
「ええ。送ってくれてありがとう、フェリクス」
自分の欲求よりも、彼女の休息を優先して引き下がる。その距離感の守り方に、大人の男性としての確かな理性を感じて、オリヴィアは少しだけ眩しいものを見るように微笑んだ。
宿舎の自室に戻り、ランプの火を灯す。
机の上には、週末に届いた三人の合格祝いの手紙が置いてあった。
封を開けると、それぞれから実力の発揮を讃え、今後の活躍を祈る真摯な言葉が綴られていた。
オリヴィアは彼らからの手紙を読み終えた後、自分の右手を見つめた。
先ほど、段差で彼に預けた手のひら。そこに残る、彼だけが持っていた熱。
三人の祝い状と、フェリクスの私的な誘い。同じ元教え子でありながら、彼だけが明らかに違う距離感で、違う熱量で接してきている。
(あの誘いは、どういう意味なの……?)
ただの恩返しではない。そう気づき始めたオリヴィアの胸に、かつてない種類の戸惑いが広がり始めていた。




