第10話 恩返しだけではないのかもしれない
三通の祝い状に返事を書き終えても、オリヴィアは机を離れられなかった。ラウルには娘の具合を、コンラッドには研修の日程を、シリルには記録の扱いを尋ねた。
フェリクスに書くとしたら、何を尋ねたいだろう。
そして、自分の右手をそっと握り込んだ。
(……フェリクスの手は、彼らとは違った)
夕暮れの帰り道。石畳の段差で差し出された、厚みのある大人の男性の手の感触と、移された熱が、指先にまだ残っているような気がした。
『私が個人的に、先生と行きたい場所です』
彼はそう言った。ラウルのような家族ぐるみの食事でも、コンラッドのような公的な用事でもなく、ただ私的に一緒に過ごしたいのだと。
毎月送られてきていた過剰な額の銀貨も、わざわざ机の修繕を口実にして会いに来たことも、すべて「教え子としての純粋な恩返し」という箱に押し込めて解釈してきた。
だが、彼だけが明らかに違うベクトルで、私的な距離を縮めようとしてきている事実に、もう蓋をすることはできなかった。
翌日。公益研修所の準備室は、月末の後に始まる実証研修の準備で慌ただしかった。
オリヴィアは同僚のニナと共に、受講生名簿の整理と、教材の最終確認に追われていた。
「そういえば、オリヴィア先生。週末の実演審査の帰り、ロッシュ公爵様がお迎えにいらしてましたね」
受講生のカルテに目を通していたニナが、ふと思い出したように口を開いた。
「ええ。一緒に帰る約束をしていたわけではないのだけれど、待っていてくれたみたいなの」
「公爵様、先生が審査を通過されたと知った時、ご自分のこと以上に嬉しそうな顔をされていましたよ」
ニナはくすくすと笑いながら、羽ペンをインク瓶に浸した。
「私、少し離れたところからお二人の様子を拝見していたのですが……公爵様って、先生とお話ししている時、なんだかいつも帰りたくなさそうにしていらっしゃいますよね」
その無邪気な指摘に、オリヴィアの手がピタリと止まった。
「……帰りたく、なさそう?」
「ええ。私には器具の確認をしてすぐお帰りになるのに、先生には、帰り際にまた話しかけていらっしゃるから」
ニナは笑って名簿へ目を戻した。
オリヴィアの紙には、同じ受講生の名前が二度書かれていた。そっと片方を消す。
「少し、お水を飲んでくるわね」
オリヴィアはニナに断りを入れて準備室を出ると、廊下の突き当たりにある手洗い場へ向かった。
冷たい水を出して手のひらを洗い、濡れた手でそっと自分の頬を包み込む。ひんやりとした感覚が、少しだけ熱を持った肌を冷ましてくれた。
鏡の中の自分は、耳まで赤かった。
恩返しだと思っていれば、誘われても迷わずに済んだ。今は、その説明では収まらないとわかっている。
だが、彼は「教師と生徒」という関係を盾にすることなく、「個人的に」と踏み込んできた。
ならば、自分自身はどうなのだろうか。
彼の過剰な手出しや気遣いを「迷惑だ」とたしなめながらも、心のどこかで彼が会いに来てくれることを嬉しく思っていなかったか。不器用にこちらの歩幅に合わせてくれる彼が隣にいる時間を、心地よいと感じていなかったか。
彼の「個人的な誘い」に、胸を躍らせている自分がいる。もう、彼に会う日を待ち遠しく思っていることを、ごまかすことはできなかった。
(もしかしたら……これは、恩返しだけではないのかもしれない)
オリヴィアは鏡の中の自分に向かって、小さく頷いた。
もしフェリクスが、昔の恩師としてではなく、一人の女性として自分を見てくれているのなら。もう「先生」という仮面を被って、気づかないふりをするのはやめよう。
今週末、彼が誘ってくれた私的な約束の日に、思い切って聞いてみよう。「どの立場で私を誘っているのか」と、逃げずに彼と向き合おう。
そう決意すると、不思議と胸のつかえが取れたような気がした。
その日の夕方。準備室での作業を終え、帰り支度をしていたオリヴィアのもとに、研修所の受付から一通の手紙が届けられた。
上質な羊皮紙に、ロッシュ公爵家の紋章が押された瀟洒な封筒。
「フェリクスから……?」
週末の約束についての連絡だろうかと思いながら封を切ると、中には彼らしい端正な文字で綴られた短い案内状が入っていた。
『突然の手紙で申し訳ありません。
今週の半ば、私の私邸にて、ごく身内だけの小さな食事会を開くことになりました。
ラウルとエダ夫人も同席いたします。公的な場ではありませんので、もし先生のご都合がよろしければ、ぜひお越しいただけないでしょうか。
フェリクス・ロッシュ』
オリヴィアは案内状を見つめ、小さく息を飲んだ。
週末の外出で「どの立場で」と問うと決心した矢先に舞い込んだ、彼の私邸への招待。
領地へ帰る前のラウル夫妻が同席するとはいえ、大貴族の邸宅に招かれるのだ。今までのように「仕事のついで」や「公庫での面談」という言い訳は通用しない。
彼が生きている公爵家という本来の場所。肩書きの外にいる彼を、この目で見る機会。
「……行くしかないわね」
戸惑いはあったが、逃げるつもりはなかった。
オリヴィアは手紙を大切に鞄にしまうと、彼と真っ直ぐに向き合うための準備を始めようと、夕暮れの王都の街へ歩き出した。




