第11話 公爵家の食卓で知ったこと
王都の中心から少し離れた、静かな貴族街。
その一角に建つロッシュ公爵邸は、過剰な華美さを排した、歴史と堅実さを感じさせる重厚な石造りの館だった。
門をくぐったオリヴィアを出迎えたのは、品の良さを感じさせる初老の家令だった。
「お待ちしておりました、ヴァンザール先生。当主からお話は伺っております。どうぞ、こちらへ」
客間の扉が開くと、中からふわりと料理の温かな香りが漂ってきた。
「先生!」
軍服ではなく、上質だが落ち着いた色合いの私服に身を包んだフェリクスが、弾かれたように振り返った。
自分が招待したくせに、彼はどこか落ち着かない様子で立っていたが、オリヴィアの姿を認めた途端に顔をほころばせた。
「よく来てくださいました。……道中、ご不便はありませんでしたか」
「ええ、手配していただいた馬車で快適に。……とても立派なお屋敷ね」
「ありがとうございます。三年前、父から受け継いだ古いだけの館ですが、先生にそう言っていただけると嬉しいです」
フェリクスは少し照れたように笑い、オリヴィアを食卓の席へとエスコートした。
円形のテーブルには、すでに二人の先客が座っていた。
「先生! 先日はゆっくりお話しできなくて申し訳ありませんでした」
立ち上がって豪快に笑ったのは、ラウル・ダーラム辺境伯だ。そして彼の隣には、優しげな微笑みを浮かべた美しい女性が座っている。
「初めまして、ヴァンザール先生。妻のエダです。夫から、いつも先生の素晴らしいお話を聞いておりました。今日はお会いできて本当に光栄です」
「こちらこそ、初めまして。ラウル様がお元気そうで、それにこんなに素敵な奥様とお会いできて嬉しく思います」
「娘さんのお加減は?」
「もう、すっかり。今夜は乳母に絵本をせがんでいるはずです」
エダの隣で、ラウルがほっとした顔をした。
食事は、ごく親しい者たちだけを集めたという言葉通り、形式張らない和やかなものだった。
「明後日には領地へ戻る予定なのです。その前に、市から注文を受けた冬用の備蓄を、契約倉庫へ納めておかなければならなくて」
肉料理を口に運びながら、ラウルが今後の予定を語る。
「そうね。北方は冷え込みが早いですから、備えは早すぎるくらいでちょうどいいわ」
オリヴィアが頷くと、ラウルはふと何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ、先生にも領地の燻製肉を。一脚まるごとなら、冬じゅう食べられますよ」
「ラウル。先生がお一人で、どこに吊るすの?」
エダに尋ねられ、彼は天井を見た。
「……半分なら?」
「私、切り分けたものを少し頂戴したいわ」
オリヴィアが答えると、エダが頷いた。
「では、帰る前にお届けします。一脚は、うちの食卓へ。あなた、最後まで食べてくださいね」
ラウルが苦笑して頷いた。
かつて食事も喉を通らないほど荒れていた少年が、今では妻に怒られながら家族の食卓を囲んでいる。そのやり取りがたまらなく微笑ましくて、オリヴィアは声を上げて笑ってしまった。
「……申し訳ありません、旦那様。明日の朝の件で、領地官からの書類の確認を」
食事が進む中、家令が音もなくフェリクスの背後に近づき、小声で囁いた。
「わかった。基本の方針は変更なしで進めてくれ。最終のサインは食後に執務室で行う」
「畏まりました」
手短に的確な指示を出し、家令を下がらせるフェリクス。
「お待たせして申し訳ありません、先生。さあ、こちらの魚料理もいかがですか。先生がお好きな、白身の香草焼きです」
フェリクスは向き直るなり、オリヴィアの皿に甲斐甲斐しく料理を取り分けようとした。
テーブルに並んでいるのは、どれもオリヴィアの好物ばかりだ。彼が事前に家令や料理長に細かく指示を出していたことが容易に想像できる。
「ありがとう、フェリクス。でも、私には少し量が多すぎるわ」
オリヴィアは苦笑して彼の手を制した。
「私をもてなしてくれるのは嬉しいけれど。……私のことばかりじゃなくて、フェリクスが今好きな料理を教えてくれないかしら」
「私が、ですか?」
「ええ。十年前のあなたは、辛いものが少し苦手だったけれど。今はどうなの?」
そう尋ねると、フェリクスは少し驚いたように目を瞬かせ、それからくすぐったそうな、照れたような笑顔を浮かべた。
「……今は、少し味の濃い肉料理が好きになりました。北方の砦での食事が長かったせいかもしれません。辛いものは、今でもあまり得意ではありませんが」
「ふふ、そこは変わっていないのね。次は、その肉料理を取り分けてちょうだい。少しだけ味わってみたいの」
「はい。喜んで」
彼は嬉しそうに頷き、自分の好物をオリヴィアの皿に取り分けた。
公爵や魔導長という肩書きでもなく、元家庭教師という立場でもない。一人の人間としての今の好みを、こうして食卓で知り合っていく。
その時間が、オリヴィアにはとても温かく感じられた。
やがて、時計の針が夜の深まりを告げる頃。
「私たちはそろそろ失礼します。娘と乳母が待っていますので」
ラウルとエダが席を立ち、名残惜しそうにしながらもタウンハウスへと帰っていった。
オリヴィアもまた、用意されていた外套を羽織り、帰路につく時間となった。
「宿舎まで馬車を出します。私も同乗させてください」
玄関ホールでそう申し出たフェリクスに対し、オリヴィアは少しだけ立ち止まった。
いつもなら、このまま馬車に乗って「送ってくれてありがとう」と告げるのが定位置だった。恩師と教え子という線を引いたままなら、それでよかった。
だが、今日はどうしても、確かめなければならないことがあった。
「フェリクス。……馬車に乗る前に、もう少しだけ、二人で話す時間をもらえないかしら」
オリヴィアが自ら引き留めるようにそう言うと、フェリクスはわずかに息をのみ、静かに頷いた。
「……ええ。夜風が冷たくなければ、少しだけ庭園を歩きましょう」
魔石の灯りがほのかに照らす、公爵邸の庭園の小道。
並んで歩く足音だけが、静かな夜に響いていた。
オリヴィアは歩みを止め、背の高い彼を見上げた。逃げ道を防ぐように、真っ直ぐに。
「ねえ、フェリクス」
「はい」
「今日、私をこの家に招いてくれたのは……私が、あなたに魔法を教えた、昔の家庭教師だったから?」
ラウルが自分を家族の食卓に招いてくれたように。彼もまた、恩人をもてなすという理由で、ここに自分を呼んだのだろうか。
核心を突く問い。
その問いに対して、フェリクスは視線を逸らさなかった。
「先生だから」と曖昧に笑って誤魔化すことも、沈黙で逃げることもしなかった。
夜の闇の中でもはっきりとわかる、ひどく真剣で、熱を帯びた眼差しが、オリヴィアを真っ直ぐに射抜いていた。




