第12話 教え子としてだけではありません
「……いいえ、違います」
フェリクスは真っ直ぐにオリヴィアを見つめ返し、静かに、だがはっきりとした声で答えた。
「昔の恩師だから、あるいは月謝を受け取ってもらう口実を作るために、あなたをお招きしたのではありません」
彼は一歩だけ、オリヴィアへと歩み寄った。
「私は今、一人の女性として、あなたにお会いしたいのです。オリヴィア」
先生、という呼称が外され、甘く低い声で名前を呼ばれる。
その言葉の響きに、オリヴィアの心臓が大きく跳ねた。推測ではない、誤魔化しようのない明確な好意の提示。彼が見つめてくる瞳の奥には、教え子としての敬意をとうに超えた、熱を帯びた大人の男の感情が揺らめいていた。
「これまで、月謝の相談や公務の視察という用件を口実にしてお会いしていたのは、私の卑怯な逃げでした」
フェリクスは自嘲気味に目を伏せた。
「あなたに『教え子以外の用事はない』と拒絶されるのが怖くて……理由を作らなければ、あなたの隣を歩くこともできなかった。本当に、情けない男です」
「フェリクス……」
「今の私と、会ってほしい。お返事は、急がなくて構いません」
彼はそれだけ言って、彼女の返事を待った。
真っ直ぐに差し出された求愛。
オリヴィアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。驚きで頭が真っ白になりそうだったが、自分の心に嘘をつくことだけはしたくなかった。
「……とても、驚いたわ。でも」
オリヴィアは顔を上げ、彼の瞳を見返した。
「嫌ではなかった。むしろ……私個人として会いたいと言ってくれたこと、とても嬉しかった」
その言葉を聞いた瞬間、フェリクスの目が大きく見開かれ、息を呑む音が聞こえた。
「ですが、すぐに『はい』とは答えられません」
オリヴィアは誠実に、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「十年前の教え子だったあなたと、大人の男性としての今のあなた。そして何より、私自身の今の気持ちを、ちゃんと整理して考える時間がほしいのです。恩や義理ではなく、私自身の心で、あなたに向き合うための時間が」
フェリクスはその言葉の意味を正しく受け取り、今度こそ心底からの安堵と喜びに満ちた、柔らかな笑顔を見せた。
「ありがとうございます。あなたからの返事を、いくらでも待ちます。……ですが、ただ指をくわえて待っているつもりもありません」
彼は少しだけ悪戯っぽく笑い、オリヴィアに提案した。
「私をただの男として知ってもらうために。……約束していた今週末の外出、改めてご一緒していただけますか。用件も恩返しも一切関係ない、ただの休日として」
「……ええ、わかったわ」
オリヴィアが頷くと、フェリクスは満足そうに頷き、彼女を待たせていた馬車へと優しくエスコートした。
*
公爵邸の門を出て遠ざかっていく馬車を、フェリクスは庭園の入り口でいつまでも見送っていた。
冷たい夜風が頬を撫でるが、彼の胸の奥はかつてないほどの熱を帯びていた。
『嬉しかった』
彼女がくれたその言葉を反芻するたび、自然と口元が緩んでしまう。
十六歳で補習を受けた頃、彼は質問用の紙を握りしめて教室へ通った。授業が終わった十七歳の春、もう自分で進めると送り出されたことが誇らしかった。
恋だと知ったのは、二十歳で休暇に戻った時だった。
街で偶然会ったオリヴィアは、借りた喜劇の本を返しに行くところだった。歩きながら登場人物の失敗を話し、自分でも可笑しくなって言葉を詰まらせた。
教室では見たことのない笑い方だった。その続きを聞きたくて、返却の後も一緒に歩いた。
別れ際、次の約束を尋ねられなかった。
しかし、彼女にとって自分はいつまでも「世話を焼くべき教え子」のままだった。平民と公爵家という身分差以上に、その「恩師」という強固な立場が、彼女の心に厚い壁を作っていた。
気を使わせたくない。関係を壊したくない。
手紙は書けた。けれど、ただ会いたいとは書けなかった。退職を知った一年前からは、ほかの三人と一緒に、月謝という口実まで作ってしまった。
だが今日、彼女は逃げずに自分と向き合い、対等な関係への第一歩を踏み出すことを許してくれた。
「……まだ、選ばれたわけじゃない」
フェリクスは夜空を見上げ、自らに言い聞かせるように呟いた。
勝負はこれからだ。過去の恩返しや魔導長としての威光ではなく、ただの『フェリクス・ロッシュ』という男として、彼女に選んでもらわなければならない。
それでも、待つだけだった日々に終止符を打てた喜びに、彼は大きく、熱い息を吐き出した。




