第13話 私が行きたい場所
金曜日の夕方。
女性用宿舎の自室で、オリヴィアは一枚の便箋に向かっていた。
数日前、フェリクスから『休日の外出先について、先生のご希望をお聞かせください』という手紙が届いたのだ。
庭園で名前を呼ばれた時の声を、思い出してしまう。返事を書くのに、もう三枚も紙を使った。
彼の好みに合わせようとすると、まだ知らないことばかりだった。だったら、自分が好きな場所を一緒に歩いてみたい。
「私が、私として一番自然に楽しめる場所……」
オリヴィアはペンを執り、さらさらと文字を書き連ねた。
王都の大広場で、週末に開かれる市民向けの『古書と菓子の市』。珍しい地方の焼き菓子や、古い装丁の物語が雑多に並ぶその賑やかな市場へ、彼と一緒に行ってみたい。
その率直な希望を書き記し、オリヴィアは封を閉じた。
そして迎えた、週末の朝。
オリヴィアは鏡の前に立ち、ベッドの上に並べた数着の服を前に悩んでいた。
神学院で教えていた十年間も、ミル村で暮らしていたこの一年間も、彼女が服を選ぶ基準は常に「教師として相応しく、生徒や保護者から見て隙がないか」だった。地味な色合いで、装飾の少ない、実用性だけを重視した服。
だが今日、彼女の手は、少し明るい灰青色のワンピースへ伸びていた。
派手ではないが、襟元に細やかな刺繍が施された、シルエットの美しい一着だ。それに合わせて、いつもはきつく結い上げている髪を少しだけ緩く編み込み、柔らかな印象になるように整える。
鏡に映る自分を見つめ、オリヴィアはふと気がついた。
(私、誰かに見られることを楽しんでいるわ)
誰かの役に立つための「先生」ではなく、ただの「オリヴィア」として装うことの楽しさ。
それに気づいた途端、顔がカッと熱くなった。
「……少し、張り切りすぎかしら」
苦笑しながら両手で頬を叩き、オリヴィアはお気に入りの鞄を手に取って部屋を出た。足取りは、自分でも驚くほど軽かった。
待ち合わせの場所は、王都の大広場を見下ろす時計塔の前だった。
約束の時間より少し早めに到着したオリヴィアだったが、フェリクスはすでにそこに立っていた。
上質な布地で仕立てられた、濃紺の私服姿。剣を帯びていないその立ち姿は、軍人というよりは品の良さを隠しきれない貴公子そのもので、すれ違う人々の視線を少なからず集めていた。
当のフェリクスは周囲の視線など全く気に留めず、片手に小さな手帳を開き、なにやら真剣な顔でブツブツと呟きながら確認ごとをしている。
「フェリクス」
オリヴィアが声をかけると、彼はビクッと肩を震わせて振り向いた。
「せん……っ」
言いかけた言葉が、途中でピタリと止まる。
フェリクスは手帳を持ったまま、オリヴィアの姿を頭から爪先までまじまじと見つめた。その瞳がわずかに見開かれ、やがて、春の陽だまりのように柔らかく、心底嬉しそうな笑顔へと変わる。
「……とても、お綺麗です。よくお似合いだ」
直球すぎる褒め言葉に、オリヴィアの頬が急激に熱を持った。
「あ、ありがとう。……あまりジロジロ見ないでちょうだい。なんだか落ち着かないから」
照れ隠しにそう言いながら、オリヴィアは小さく咳払いをした。
「それと、フェリクス」
「はい」
「今日は、仕事でも公務でもないのだから。……私のこと、『先生』ではなく、名前で呼んでいいのよ」
先日、彼が夜の庭園で一度だけそう呼んでくれたように。
オリヴィアがそう伝えると、フェリクスは一瞬だけ、軍議の最中のように背筋をピンと伸ばした。彼の中で、明確に何かのスイッチが切り替わったのがわかった。
「……ええ。わかりました」
彼は少しだけ恥ずかしそうに、だがはっきりとした声で言った。
「お待たせしました、オリヴィア」
名前を呼ばれるだけで、二人の間にあった見えない壁がまた一つ、音を立てて崩れ去ったような気がした。
「それで、さっきは何をそんなに真剣に見ていたの?」
オリヴィアが彼の手に握られた手帳を指差すと、フェリクスは少し気まずそうに目を逸らした。
「あ、いえ……その。今日回る市場の店舗の配置や、休憩を挟む喫茶店の時間割りなど、エスコートの予定を確認していまして」
手帳のページには、几帳面な字で分刻みの予定がびっしりと書き込まれていた。
オリヴィアを楽しませたい、退屈させたくないという必死さが伝わってくる。どの店で何を食べるかまで、小さな字が並んでいる。
オリヴィアはくすりと笑い、彼の持っている手帳をポンと軽く叩いた。
「フェリクス。今日は作戦行動ではないのよ」
「え?」
「せっかくの市場なのだから、もっとのんびりと、気の向くままに見て回りたいわ。予定通りにいかないことも、一緒に楽しんでくれないかしら」
オリヴィアが自分の希望をはっきりと伝えると、フェリクスは一瞬目を丸くし、それから「……敵いませんね」と苦笑した。
彼は渋ることなく、あっさりと手帳を閉じて鞄にしまった。
「わかりました。あなたの気の向くままに、どこへでもお供しましょう」
「じゃあ、さっそく行きましょうか」
歩き出そうとしたオリヴィアの視界の端に、ふと、フェリクスの左手が捉えられた。
彼の手には、公爵という身分には似つかわしくない、安価な紙で包まれた小さな荷物が握られていた。
「フェリクス、その包みは何?」
オリヴィアが尋ねると、彼はその小さな包みを両手で大事そうに包み込み、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「ああ、これですか? これは……後でのお楽しみです」
その嬉しそうな横顔に、オリヴィアも自然と笑みをこぼし、賑わう広場へと並んで足を踏み出した。




